2011年5月31日火曜日

ミスするのが人間、と労働安全衛生研究の巨匠の指摘


労働安全衛生を考える上で、次のことはもつとも基本であり、最も大事なことである。
 しかし、日本の学校教育や労働現場・労働安全衛生教育はもちろん、日本のすべてで「ミスするのが人間」ということが否定され、真逆のことが徹底されているように思える。

 不注意で起きるのか ケガや災害など

 ケガや災害が起こったとき、会社側は「労働者が不注意だったから起こったのだ、もっとき気をつけてほしい」とよく言う。
 たしかに自分の手足を同時に動かしたのだから不注意な動作と言えるだろう。 しかし、よく調べてみると、仕事が忙しく、製品の納期や生産計画の期限に迫られて無理をしていたことに思い当たることが多い。
 そのうえ、労働者が非常に疲れていたり、何らかの原因でいらいらしていた場合もある。

あやまち・ミス・エラーを起こすから人間

 人間は、あやまち(ミス・エラー)を絶対起こさないどころか、むしろ起こしやすい動物である。
 みなさんも、試験問題で簡単な計算間違いをしたことがあるだろう。
 あわてたり、あげっているときは誰でもよくあることだ。
 工作をして誤って指にケガしたり、キャッチボールをしてつき指をしたことがあるだろう。
 大人も同じだ。
充分な安全対策が行われているか
 だだそれを「単純ミス」「人為ミス」として、会社が労働者のせいにしていたら、いつまでも同じような災害が起きるだろう。
 たとえ労働者が不注意をしていても、ケガや病気が起こらない充分な安全対策を行うことが大切である。
( 細川汀編著健康で安全に働くための基礎 ディーセント・ワークの実現のために )

高校生はなぜ関心を持ったのか

 この本を教科書として10年以上授業をしたある県の高校教師の「労働安全衛生教育実践報告書」を読むと、この

「人間は、あやまち(ミス・エラー)を絶対起こさないどころか、むしろ起こしやすい動物である。」

の項が一番生徒の関心が高く、かつ最も教えにくい項であったと書かれている。
  細川汀編著「健康で安全に働くための基礎」(改訂前 「健康で安全に働く」)を教科書にして、授業を行ったある県の夜間定時制の高校教師の「労働安全衛生教育実践報告書」を読むと次のようなことが書かれている。

公立学校の教師は
  労働安全衛生が教えにくい

 1年間を通して労働安全衛生を教えることは、非常に困難でした。

 その第一は、私自身が、地方公務員法の制約の下で労働協約はもちろん労働者の基本権が多くの部分で制約されていて、労働基準法などに定められた権利を具体的に行使した経験を持ち合わせていないと問題でした。
 働いている、働いていない生徒のクラスでの授業で、働いている生徒は、80%でしたが、仕事もバラバラでバイトばかり。
 バイトの掛け持ちや未成年なのに深夜労働をしている。
 そのような生徒には、抽象的な言葉の説明では、通用しません。
 そのため、まずあらゆる労働安全衛生関係の本や労災事故の報告や専門家に出会い話を聞く、
 理解できたら他人事ではなく自分のこととして
 職場である学校の労働安全衛生環境の改善に取り組みました。

 第二には、絶えず移り変わる労働安全衛生の国際・国内状況を把握することでした。(略)

一番の驚き感心したのは
あやまち・ミス・エラーを起こすから人間

 労働災害・職業病・母性保護・労災補償・人間の身体の仕組みなど労働安全衛生に関わる事項をすべて教えた最後の授業の3コマでは、約15万字を超えた補助教材と共に各項目について生徒からのアンケートと意見集約をとり、もう一度、集約結果を生徒に返して、次年度の生徒にどのようなことをどのように教えたらいいかを書かしたり、聴とりました。
 ところが、毎年一番生徒が必要であり、驚き考えさせられたし、感動して、次年度にもっと詳しく教えて欲しい、と書く項目は、
「あやまち・ミス・エラーを起こすから人間」
「たとえ労働者が不注意をしていても、ケガや病気が起こらない充分な安全対策を行うことが大切である。」

でした。
 ところが、このことを教えるのは最も困難で、難しいことでした。
 なぜなら、具体的事例があまりにも少なすぎるからです。

レジの仕事を座ってするなんて

 例えば、EUの多くの国では、スパーのレジ担当は座っている、と説明すると
「そんなんありえへん。」
「考えられんわ。」
「仕事にならん。」
とレジのバイトをしている生徒たちから、次々と教師がウソを言っている、と真顔で抗議されました。
 そこで、生徒に手紙を書いてもらい、ヨーロッパのある国に留学している労働安全衛生研究者に送り、返事をもらいました。
 返事の手紙には、「座ってレジの仕事をする写真」も添付されていました。
 早速それを見せると生徒は喜んだものの
「ウソやー」
「信じられない」
と言い続けるばかりでした。

 そこで、フランスの大型スパーが日本に進出していたので、そこのレジ風景を写真に撮らせてもらおうと大型スパーに行きました。
 でも、レジの仕事をする人はフランス流ではなく、日本風の立ち作業でした。

なさすぎる
「不注意であっても安全な具体例」

 「たとえ労働者が不注意をしていても、ケガや病気が起こらない充分な安全対策」の具体例を探しましたが、日本ではそれはあまりにも少なく、学校は最も悪い見本でした。
 よく調べたら学校の施設・設備に安全対策が行われていないためケガや災害に遭った生徒や教職員が無数にいました。

 「注意しないからだ」
 「ミスは、生徒が悪い」
 「ミスした教師が悪い」。
 「注意すればすべて問題が起こらない。」
 「安全対策、そんなのは不要だ。」
 「安全にお金を使っても、何もおこらなかったら無駄で、無意味ではないか」

などなどの考えは、学校教育の中で徹底的に浸透していました。

注意すればすべて万能
ミスは生徒教師の責任
ですすめられる学校教育に抗して

 そのため授業は、それらをひとつ、ひとつ、それを解きほぐして行くようなものでした。
 そうしていると、
「そんなんありえへん。」
「考えられんわ。」
「仕事にならん。」
とレジのバイトをしている生徒たちから、
腰痛やむくみ、肩こり、腕のしびれなどの訴え
が、続出してきました。

 日本の教育では、安全で健康に生きることをすべての分野で自己責任として貫徹されていることが、ある県の教師の「教育実践報告書」から読みとれた。

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労働安全衛生研究者がみたチューリッヒの小学校



 次の文章は、1999年2月1日 に医科大学の労働安全衛生研究者が、チューリッヒ工科大学留学したときに「教職員のための いのちと健康と労働」紙に掲載された文章である。「安心する空間」と通じるものがあると思われる。



19人のクラスで
 考えさせるゆとりの授業


  チューリッヒ州主催の外国人女性のための教養講座「フラウ・イン・チューリッヒ」では、これまでに、スイスの環境問題や教育システムについて、日本語でわかりやすく教えてもらいました。
 ほんの一部ですがご紹介し、話題提供といたします。
<公立小学校の見学>学校名;Letten小学校(チューリッヒ駅からバスで約15分)学年;3年生 部屋;1階の19号室見学者;日本人女性4名
 1999年1月15日、「フラウ・イン・チューリッヒ」の特別プログラムとして、公立小学校を見学する機会を得ました。以下、見たまま、感じたままを書き連ねてみます。

校門もない学校で握手 

 まず、訪問した学校には、「○○小学校」という表示もなければ、重々しい鉄扉の校門もありませんでした。
 1m足らずの石壁と、同じ高さの小さい扉で、かろうじて校内外の区別ができる感じでした。
 教室の入り口では、クラスの児童が、次々に「Guten Morgen!(おはようございます)」と言いながら握手をして私たちを出迎えてくれました。
 私たちがゲストだからという訳ではなさそうで、児童達は教師とも握手をし、教師は握手しながら一人一人に声をかけていました。
 ヨーロッパでは、握手をして挨拶するのはごく一般的なことですが、担任とも毎日こうして握手をするのだなあと、妙なところで感心してしまいました。
 
コの字型
にならべられた椅子と
   机が20組の教室

 
 机は、コの字型に並べられており、教室内には、いたるところに、児童が作成した作品や各種行事の写真などが飾られてありました。
 教室の一番後ろに(一番前ではなく)教員用の机と椅子が置いてあり、特に椅子は、バックレストの大きい、いい椅子が使われていました。
 私たちが見学した日は、たまたま教育実習生の実習日だったので、実習生の授業風景を見学する事になりました。

19人のクラスが
2グループに分かれて学習

 
 一クラスの児童は19人。
 特に、国語や算数といった「教えるのに手がかかる」授業は、2グループに分けて授業を行うとのことで、この日私たちが見学したグループは9人。
 
 1時間目は国語(ドイツ語)、2時間目は算数でした。
 1グループが国語と算数を学んでいる間、もう1つのグループは別の授業を受け、3時間目と4時間目は、グループを入れ替えて、1,2時間目と同じ内容の授業が行われます。
 45分授業で、休憩は10分、2時限目と3時限目の間だけ15分休憩。
 昼休みは1時間50分あり、児童は自宅に帰って昼食をとり、再び登校します。
 給食はありません(すべての公立学校で)。

自分で考えさせ
 答えを引き出す授業


 1時間目の国語では、3枚の動物の絵カード(牛、馬、雄鶏)とそれに対応する色々な国の言葉(ドイツ語以外に、英語、フランス語、イタリア語、アラビア語、ロシア語、日本語などなど)が書かれたカードを床に並べて、外国語を比較するというものでした。
 9名の児童のうち、半数以上が外国人ということで、イタリア人やフランス人の児童は、それぞれの母国語の言葉について得意そうに答えていました。
 授業の後半は、2~3人のグループごとに、絵カードと言葉のカードをはさみで切って机の上に並べ、グループ学習をしていました。
 私たちの近くにいたグループは一生懸命「うま、うし、おんどり!」と覚えてくれていて、私たちが思わずにっこりすると、とても嬉しそうな笑顔で応えてくれました。
 「国語」の授業として「外国語の単語と比較する」というような授業内容は、外国人の児童が多いからかもしれませんが、珍しく感じました。
 1、2時間目の授業ともに共通して言えることですが、児童に自分で考えさせ答えを引き出そうとする授業の進め方がなされていました。   

授業内容はマンツーマン

 2時間目の算数は、時計のアナログの読み方と、デジタルの読み方の変換について。
 ドイツ語のアナログ時計の読み方は、デジタル表示の場合とかなり異なっており、私も先日ETHのドイツ語講座で学習したばかりで、慣れないと難しいです(同時に小学校3年レベルの内容だったのかと認識・・・)。
 最初の15分間、前日の授業で特に覚えられなかった3人に対して、教員がつきっきりで教え、その間、他の児童は自習でした。
 自習内容は、3桁の足し算、引き算。
 教材を見ると、単純な計算ドリルではなく、パズル形式になっていたり、回答に相当する点を線でつないでいくと恐竜の絵になったりと、楽しみながら自習できるような内容でした。
 自習が終わり全員で時計の読み方を練習。
 教師は全員に目配りし、全授業時間を通してほぼマンツーマンに近い形で授業が進められていました。

これがあったら
 ホッとするもの

 
 教室の一番前に、低いテーブルが置かれてあり、その上には、缶ジュースの空缶、お人形、おもちゃなどが並べられ、休み時間になると、その場所で遊んだり、中にはパンを食べている児童もいることに、私たちは驚きました。
「なぜこうしたものが教室においてあるのですか?」
と私たちが質問すると、
担任は、
「先日、抽象的概念を理解する授業の中で『心が休まる』『ほっとする』ということを勉強した時に、『これがあったらほっとするもの』を各自持参させ、教室に一週間だけ置く事にしました」
 と説明されました。
 窓際に置いてあった子供用のパソコン2台は、「『パソコンが大好きで、これがあるとほっとする』という児童が持ってきた物ですよ」とのことでした。

横のつながりの
 人間関係はストレス

 
 また、スイスでは、小学校1年から3年まで、4年から6年まで、それぞれ一人の担任が同じクラスの児童を担任します。
 1年時からの児童の絵や、教室行事の写真などがファイルされ、また個人別のファイルも作成されており、各児童の成長がそれらのファイルから伺うことができました。
 2時間目終了後、担任に
「教員という仕事は、スイスでも忙しくてストレスフルですか?日本では過労死も起きていますが信じられますか?」
というような内容の質問をしてみました。
 「信じられるかどうか」という質問に対しての回答はありませんでしたが、
「確かにストレスフルできつい仕事です。以前は、自分がやりたいように授業ができたのですが、最近は、責任者を軸に系統的な授業をするようになってきて、横のつながりを密にとることが必要になりました。そのような人間関係が、ストレスの一因になっています」
とのことでした。
 今日、見学した限りでは、日本の教員よりずっと自由裁量を持って仕事をされているように見えましたが・・・。彼女が言われた「ストレスフル」の質が、日本の場合と若干異なるような気がします。

なぜ
日本では
こうした小人数の授業が
なされないのだろう


 最後にお断りしますが、私は、スイスと日本の教育について、どちらがいいとか悪いとかを評価するつもりはまったくありません。
 ただ、 なぜ、日本ではこうした小人数の授業がなされないのだろう。
 どうして授業内容にここまで差があるのだろう?
  単なる人口の違い?
 文化の違い?
 それだけでは説明できないのではないか…
というのが、今回の学校見学で一番強く感じた事です。
 なお、スイスの教育システムについて(小学校から成人まで)、「フラウ・イン・チューリッヒ」の中で詳しく教えてもらいましたが、紙面の都合上、帰国してから機会があればご報告したいと思います。

  ドイツ留学の豊富な窪島氏の主張と大きな隔たりのあるスイスのドイツ語圏の小学校の教育。高校生と「読み」。窪島氏の主張や近年行われていることは、教育なのだろうか。
 彼が、1970年代から否定してきた心理主義と教育の混同を自ら体現しているのではないか。

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滋賀大学教育学部窪島務氏は読み書き障害と言いながら「書き」だけを切り離す危険


 滋賀大学教育学部窪島務氏は読み書き障害と言いながら「書き」を重視する根拠もなく「欧米の研究では読み研究に比べて書きの研究が甚だしく軽視されていることを批判的に検討していくこと」としている。
 このことは、すでに明らかにしたが、ここに窪島氏の基本的研究の誤りがある。

音声言語と文化の軽視

 日本では、小学校入学前に文字を覚えている、覚えさせているが、ヨーロッパでは前提条件になってはいず小学校低学年では、話す、聞く、口ずさむと言うことが教育上非常に重視されている。
 ゲルマン系民族の教育システムを古くから学んでいた窪島氏が、留学先で、民族の文化伝統風習と教育との関わりを「認知」していなかったのではないか。
 そのため「書きの研究が甚だしく軽視されている」と断定することになり、その考えで日本の教育方法を論じ、学校教育に持ち込むことは、かえって教育上の弊害を作り出すと思える。

20代の養護教諭から 教育実践提起
  
 「安心する空間」というテーマである府県の20代の養護教諭が次のように書いている。
 
私は、複数配置の高等学校で仕事をしていたことがあります。その時の取り組みを少し述べてみたいと思います。

 ある日、保健室に女生徒が保健室にやってきました。
 彼女は、なぜか自然と涙が出てしまう、イライラする、友だちと一緒に居てもその中に自分は居ない、話を聞いてもおもしろくない、友だちに話しかける気にもなれない、なにもかも嫌だ、と気弱に話しました。
 話を聞くだけでも女生徒が、今深刻な状況に陥っていると共に養護教諭に助けてほしいという声なきメッセージを送ってきていることが切々と解りました。
 その時、先輩の養護教諭が屋久杉のことが書かれた絵本を取り出し、生徒と一緒に読みだしました。
 
                             屋久島の自然。
                              澄みきってどこまでも広がる空。
 やさしく包みこんで暖かくくるでくれるが、
 時には激しく巻き上げる風。
 
 その中で太古から屋久杉は自然のパワーをもらい大樹になり、今も生き続けている。
  少し疲れたら、空を眺めて、風を全身に受けとめ深く深呼吸する。
 そして、緑の木々から新鮮な空気をもらい、あなたもそこからパワーをもらったらいい、という先輩の養護教諭はアドバイスしていました。

 それから私は、その女生徒と「たくさんパワーがもらえるといいね」と言いながら学校近くの神社の森まで歩いて行くことになりました。

 彼女の歩みに合わせて気遣いながら、ゆっくりと時間が過ぎるようにしました。
 木々が生い茂る学校と違った空間の場所で、彼女は「私は樹になりたい。」と言って、自分も友だちに自分のパワーをみんなにあげたいと感じたようでした。

 それからの彼女の様子を注意深く見ていると、何となく気が滅入る時は、私と一緒に行った場所に行き、気分を落ち着かせ、授業に戻ることを繰り返していました。
 そのうちに彼女の明るく楽しい笑い声が彼女の友人の輪の中から聞こえてくるようになってきました。
 さまざまな角度から生徒を観察し、じっくり話を聞きながらそれぞれの生徒に合った方向と解決策を考えていく事の大切さを痛感しました。
 生徒が不安感に取り付かれたときや危険な状態にあるとき、生徒が「この先生なら安心して話せる」と養護教諭の人柄、知識と助言を求めて保健室に来室してきます。またその生徒との信頼関係が続くことが大切だと考えるようになりました。
 そうでないと、生徒が安心出来ないのではないでしょうか。

 年間6000人を超える
  生徒が保健室にやって来る
   養護教育の教育実践


 「話を聞くだけでも女生徒が、今深刻な状況に陥っていると共に養護教諭に助けてほしいという声なきメッセージを送ってきていることが切々と解りました。
 その時、先輩の養護教諭が屋久杉のことが書かれた絵本を取り出し、生徒と一緒に読みだしました。」

 この、なぜ「先輩の養護教諭」が「屋久杉のことが書かれた絵本」を「生徒と一緒に読みだしました。」のか、窪島氏には理解出来ないだろうと思われる。
 直接生徒が悩んでいることに働きかけることではなく、他のことから生徒が悩んでいることに働きかける。
 それも、一緒に「こえ」を「合わせて」出会いながら、「共鳴し合い」、絵本の「世界に飛び込んでいく」という取り組み。

声を出して
 「いまと未来の方向を考える」


 就学前に、絵本の読み聞かせは、文字移行に重大な影響を与える、とされている。
 「安心する空間」というテーマで書かれた「20代の養護教諭」と「先輩の養護教諭」は、
生徒と一緒に声を出して「読む」
ことで
「見失っている自分のねうち」
を気づかせ、一緒に「歩くこと」でさらに生徒の「あす」を教えようとしたのです。

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2011年5月22日日曜日

先達者・子どもたちが残してくれた教訓と膨大な教育財産と   滋賀大学教育学部窪島務氏

 さらに窪島氏らは、次のようなことを書いている。

 また、1956 年の国立国語研究所の調査では、以下のことが分かったと述べている。それは、カタカナ表記をされるべき語の表音法が身につきにくいこと、長音を書き表す際の抵抗が、平仮名における長音の書き表し方とカタカナの場合との相違によるものであることが察せられること、カタカナ文字力の問題は、書字力ことに、促音・拗音・長音を含む語の書字力にあることである。今も同じことがみられ、拗音などの特殊音節の習得に時間がかかる。その理由として、平仮名と同じく特殊音節は文法的要素が入り込んでくるため、それを使いこなし慣れるためには清音よりも時間を要することが挙げられる。
 読み書き困難児においてカタカナ1文字の書字が、当該学年に及ばないことは、漢字・平仮名と同様に詳細な研究が必要である。本研究では実態のみが把握できた段階であり、詳細は今後の課題である。

協力してくれた
子どもたちに生きる研究

 この文章の引用は、文字表記と音声言語についての基礎知識、子どもの発達と言葉の獲得、言葉から文字表記に移行する発達段階の考慮に対する基礎知識に対する問題を感じさせられる。
 そのような文章では、調査対象の子どもの年齢や発達状況を考慮しない自己完結の調査としか映らなくなるし、自分たちのただ単なる興味本位での調査はないかと思わさせれる。
 さらに、調査に協力した子どもたちの気持や調査を教育に還元する事などまで不安に駆られる。

はなしことばを
獲得する段階の
  子どもたち

 日本では、九九を子どもたちが覚えるようにしているが、
 九九を覚えられない、
 覚えることの困難さ、
が生じるのは、九九の「読み」「発語」にあることは古くから知られている。
 また、1956 年の国立国語研究所の調査をあげるまでもなく、
「位相語」
の問題は、教育のみならず論じられてきたことを窪島氏ら承知していないのだろうか。

単純化して
 言い切る危険

 日本語の書き言葉の歴史は、奈良時代に他国の文字である漢字で書き表そうとしたことに始まるが、中国語(孤立語)と日本語(膠着語)は体系の異なる言語であるため、中国語にはない助詞や助動詞、敬語表現などを表すために、漢字の特徴である表意性を削ぎ落とし、音としてだけ使う「万葉仮名」という漢字の新たな使用法が生まれた。
 その万葉仮名の一部分を書いたものがカタカナである。
 そして、現在のカタカナのもとになった万葉仮名は「表-8」に示した通りである。
 平仮名も万葉仮名から作られたものであるが、カタカナが万葉仮名の部分を取ったのに対し、平仮名は、文字を連続体ととらえ、全体を崩したものである。
 カタカナは、万葉仮名の一部を取って発生したものであり、形はより漢字に近いという漢字的要因を持つとともに、1文字では意味をなさず音的な要素としての平仮名的要因をも併せ持っている。

 実に単純な日本語と漢字・平仮名(ひらがな)・片仮名(カタカナ)の歴史的記述である。
 この考え方なら、窪島氏らは奈良時代に書かれた漢字以外の文書を読むことが出来るということになる。
 はたして、これらの文書を見たことやそのママの文献を読んだのであろうか。
 はなはだ疑問である。
 彼らの居住区から考えても、奈良の正倉院の文書等を見るまでもなく、奈良時代以前、奈良以降の様々な古文書の「実物」は容易に観ることも出来るし、大学図書館にそれらの資料も豊富にある。
 関西は、これらの事を知る上で非常に有利な地域である。
 甲骨文字の研究も資料も多くある。
 少なくとも、漢字・平仮名(ひらがな)・片仮名(カタカナ)の歴史的記述を書くならば、これらの文字を見る必要はあるのではないだろうか。
 ここではふれないが、文字は何によって、何に、どのように書かれたのかを注目すると、「認知」問題も明るみに出る。
 一文字一文字が、ひとつひとつ書かれているのか。連なって書かれているのか。書き文字は多種多様、変幻自在に描かれているものを見ると、人間の持つ機能にフィットした書き方が解ったりする。
 活字化以前の文字は、現在の私たちに多くのことを包括して伝えてくれる事が多い。

「はなしことば」

「かきことば」の空間

 音としてだけ使う「万葉仮名」という漢字の新たな使用法が生まれた。
 と書かれているが、8世紀に「まとめら」れたとする万(萬)葉集の中の「万葉仮名」の表記を見たことがあるのだろうか。
 万葉集に書かれている表記は、決して、いわゆる「万葉仮名」だけではないし、その表記・解釈についても諸説ある。
 教科書の国語などで表記されている「万葉集」一部は、万葉集で掲載されている文字がそのママで表記されていないことも承知しているのだろうか。
 歴史的には、万葉集は文学作品としてだけでなく、書かれた人々の生活や時代を考察する上でも多くの研究がされている。
 窪島氏の大学がある滋賀県での歌われた「歌」は、日本史上の大きな論争となってもいる。
 それらの片鱗でも知っているならば、
 漢字の特徴である表意性を削ぎ落とし、音としてだけ使う「万葉仮名」という漢字の新たな使用法
 が生まれた。

と断定した文章は書かないだろう。。
 窪島氏らが、日本語表記の専門であり、万葉集研究の専門であるならば。これらの断定は、研究結果の主張として認められるだろう。

話し言葉も
文字も
意味も
時代と共に
さまざまに変化してきた 

 一般的には、片仮名(カタカナ)は平安時代に現在の表記に近い形になったとされているが、
 明治・大正・昭和で積極的に外来語を取り入れ、近年では、新聞・雑誌・テレビ・ラジオは言うでもなくあらゆるところでカタカナ語が氾濫している。子どもたちは、こういった環境の中で意識することなく、カタカナ語に接する機会を多く持つことになる。

と「明治・大正・昭和で積極的に外来語を取り入れ」と窪島氏らは書いているが、明治・大正・昭和で積極的に外来語を取り入れただけではなく、それ以前から日本は多くの国々との交易の中で外来語を採り入れている。
 江戸時代は、鎖国したため外国からの言語が日本語にとりいれられなかったと言うことではない。
 阿蘭陀・和蘭陀(オランダ)・葡萄牙(ポルトガル)・朝鮮そして限定した地域で洋学(英語)研究がなされ、和訳されそれらの言語が日本語として定着し、使われている。
 洋菓子と和菓子を明治時代に外国から伝わったとする区分の仕方と同様に、外来語を明治時代以降で区分される事があるが、明治時代でも、外来語=カタカナ表記と断定は出来ない。

現代中国では
漢字の簡略化が
すすめられているが

また窪島氏は、

 日本語の読み書き障害の大きな課題は、中国語漢字とは異なる日本語漢字の複雑さにある。
 日本語の読み書き障害の中心は漢字の書き障害にある、といっても必ずしも外れてはいない。
(国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-2010年)

と書いている。

中国語漢字と日本語漢字と比べて、日本語漢字の複雑さにある。

と書いているが、これは具体的に何を意味するのか理解できない。
 中国語漢字とはどのような漢字を言うのだろうか。現在中国では非常に漢字を簡略化していることを意味するのだろうか。
  例えば、
 現代中国では、「廣→广」と表記して簡略化したのに、
 日本では「廣→広」と簡略化してきたこと
を書いているとは考えられない。
従って、
 日本語の読み書き障害の中心は漢字の書き障害にある、といっても必ずしも外れてはいない。
という事は文章としても、意味としても理解できない。

どのような表記が
「書き障害」
を生じないのだろうか

 日本語として表記される漢字は、現代中国の簡略化された文字と比べて複雑だから、漢字の書き障害が生じると主張するなら、
 どの時期の漢字表記を書かないと理解できない。
 なぜなら、窪島氏は主として小学校の漢字やカタカナを述べているからである。
 学習指導要領の改訂ごとに、日本では漢字表記が変えられる現実を考えるならば、
 どのような漢字が「書き障害」になるのか。
 では、どのように表記すればいいのかを明らかにすべきではないだろうか。

ふれられない
小学校の教育の
  新たな問題

 以上のようなことを縷々述べてきたのは、小学生の子どもたちの「はなしことば」の領域と「かきことば」の領域とのギャップがある事はたしかであり、そのことから考えても学習指導要領が漢字表記を学年ごとに定めたりする方法には多くの疑問が出されているからである。
 さらに、近年その上に新たなる影を落としている。
 窪島氏の主張にも学習指導要領にも重要な点が欠如しているように思える。
 それは、
 「はなしことば」や「かきことば」は、
 人間の「意思疎通の手段」
であるという点である。
 話す言葉が目的化されたり、
 書くことが目的化するよりも、
 人間の意思疎通のために「話す」「書く」という「手段」を使う、
ということでなければならない点である。
 そのように考えると、
 はなしことばがすべて分からなくても、
 かきことばがかけなくても、
 人間の意志が通じ合う事の喜びと、
 自分の意志が表現できて、相手に通じる喜びが
 教育の中でたっぷり満たされているかどうか、
ということが大切なのではないか。

書く必要のないコンピュータ
コンピュータ言語?
英語教育

 窪島氏は、読み書き障害のところでまったくふれていないが、
 小学校でのコンピュータの導入による「書き」の喪失、「読み」の喪失。
 コンピュータ用語(異日本語とも言える)の交錯。
 英語教育の導入。
などなどが、読み書き問題の上で大きな問題になっている。
 彼はなぜ、そのことを書こうとしないのだろか。

先達者はもちろん
子どもたちが残してくれた
教訓と膨大な教育財産

 さらに、障害児教育では、読み書きは永く課題であった。
 視覚障害・聴覚障害・知的障害・重複障害児だけでなくほとんどすべての障害児にとっても、「読み書き」は、教育実践上の困難で、重要な取り組みを必要とした。
  そのための先達者はもちろん、子どもたちも多くの教訓と膨大な教育財産を残してくれている。
 窪島氏は、そのことを踏まえて、なぜ、読み書き障害の子どもたちの教育実践を書かないのだろうか。

2011年5月19日木曜日

言語の基本的知識と滋賀大学教育学部窪島務氏
















 窪島氏の文章は、日本の文章として成立していないばかりか、立証もないまま、曖昧表現で「読み書き障害」や「読み書き困難」などなどの「言葉」を使っていることをしばしば指摘してきたが、それがあまりにも多すぎる。
  例にあげるまでもなく、
「読み書き障害」・「読み書き困難」
という表現は異なった意味合いを持ってくる。
 これらの事も踏まえず書き続けている。

大学教授として
社会的責任が問われる

 さらに、窪島氏の言う「読み」「書き」とはどのようなことを言うのかが疑問になる事も書いてきた。
 彼は、読み書きの「正しい、正しくない、」「エラー」「錯」の基準を何ら明らかにしていないことを述べてきた。
  教育行政の後押しや学校管理職の要請に応じて、この不明確な考えの基に子どもたちの「読み・書き」を述べたことに対して、教育学部教授という立場から、過去・現在・未来への社会的責任をとらなければならないだろう。

基礎研究が
 ないままの「研究」 

 窪島氏らは、「滋賀大学教育学部紀要 教育科学 No. 59 2009」「通常学級の子どもたちと読み書き困難児のカタカナ書字習得状況」( 野口法子・窪島務 )で次のようなことを書いている。

 日本語の語彙は約230,000 語あり、ドイツ語(約185,000 語)やフランス語(約100,000 語)の語彙に比べてかなり多く、外来語が多いのがその理由である。
 明治・大正・昭和で積極的に外来語を取り入れ、近年では、新聞・雑誌・テレビ・ラジオは言うでもなくあらゆるところでカタカナ語が氾濫している。子どもたちは、こういった環境の中で意識することなく、カタカナ語に接する機会を多く持つことになる。

基礎教養が疑われる

 まず、語彙数の引用がされているが、語彙の規定をしないとその数は大きく異なってくる。
  このことを詳しく論じないが、日本語の語彙は約230,000 語とする説に対するまったく異なった諸説があることを調べたうえで、語彙数に対って述べられていない点をあげておく。
 日本語の語彙の語彙をどう考えるかで、語彙数が大幅に変わるからである。
 研究する場合は、基礎研究をした上で、自分たちの評価を研究をすすめないと研究として成り立たないという「研究の常識的前提」が欠如しているのは明確だろう。このことは、引用文献が少なすぎると言っているのではない。言語は、容易に全容を把握できないほど歴史的に変容してきているから、より慎重で深い基礎研究が必要になるからである。
 基礎研究を充分しないで「論じている」こと。
 この段階からすでにその内容は、恣意的な解釈となり、「カタカナ書字習得」というテーマが成立しなくなる。
 日本語は、ドイツ語やフランス語の語彙に比べて外来語が多い、と断定している事についても文章の常識的教養が疑われる。

日本
単一民族説を肯定か

 ドイツ語もフランス語もヨーロッパ大陸の中ではぐくまれてきたものであり、様々な民族の言語と交流されて形成されたことは、常識である。
 言語は、他民族の言語と混合・合成・融合されて成立するものであり、他民族の言語の影響を受けず、一民族が一言語だけを形成してきた歴史はない。
 教育者としては、むしろ、日本で意識的に単一民族説を唱えて、少数民族であるアイヌ民族や他民族を排除してきた歴史を想起しておかなければならない。
 「外来語」とは、
 通常外国語を日本語に用いるようになった語のことを指すが、狭義では、漢語を除くととして使われる場合がある。
 ことの「言葉」の意味を踏まえていないでいることは、この文章では、明らかである。

最初から
自滅している「研究」

 ドイツ語の「外来語」。フランス語の「外来語」。このような概念は、成立しない。
 もしも窪島氏らが言う、現在の「ドイツ国内」で使われているドイツ語の外来語というならば、スイスの共通語やオーストリアで使われているドイツ語は、どうなるのであろうか。
 カタカナ問題を書くために、民族や国が絶えず入れ替わり、言語が交差したヨーロッパなどの地域と語彙を比較すること自体無意味なことである。
  だが、書いている。
 そのため「通常学級の子どもたちと読み書き困難児のカタカナ書字習得状況」というテーマそのものは最初から自滅しているのである。
 そして、文章は、参考文献にあげている書物が充分読めていないか、自分たちの結論を導き出すために「不都合な部分」を意図的に排除しているとしか思えない。

書いた文章を
通読していない現れ

 さらにひどいことには、先にあげた文章以降に
「日本語の書き言葉の歴史は、奈良時代に他国の文字である漢字で書き表そうとしたことに始まる」
と書かれていることである。
 このことの評価は別途明らかにするが、では、
「明治・大正・昭和で積極的に外来語を取り入れ」
という記述との矛盾を、どう説明するのだろうか。
 和語・倭語・大和言葉などの表現は、必ずしも適切だと思わないが、日本語は「日本列島」に先進文化・先進技術を持ち込んだ渡来人を抜きにして考えることは出来ない。
 窪島氏は、他の文章でも、漢字を中国から伝播されたとだけ書き、渡来人の朝鮮民族の多大な日本への貢献を無視している。
 それは、なぜか歴史教科書をめぐる日本国内はもちろん、北朝鮮・韓国からの文部科学省への批判を「擁護」しているようにしか受けとめられない文章になっている。
 窪島氏らのすすめようとするカタカナの書き研究のために、歴史的考察が充分研究できていなかったらそのことを省いて、考察することも可能である。
 だが、窪島氏らは、そうはしない。
 「異質」「困難」を強調するためにあえて、それを強調するために「都合の良い部分」だけ、文献から引用しているとしか考えられない。
 
外来語。
 日本では外来語を文部科学省など日本の政府やマスコミなどが、「カタカナ」で表記するようになったのは、日本の歴史上ごくごく最近のことである。また、このことをめぐる日本政府への批判は数え切れない程ある。

外来語を
日本語訳してきた人々
 への敬意もない

 窪島氏が教えを受け、共同研究者でもあった田中昌人氏が、
 
 「発達」という用語

 が、外来語であることを明らかにするために多大の努力をされたこと。
 また、なぜそこまで研究しなければならなかったのか。
 窪島氏は、理解しようともしないし、承知もしていななかったことも解ってくる。
 付記するならば、野口法子氏が教えている「健康」という用語も外来語である。解体新書での訳語問題など知るよしもないだろう。
 近年、特に、外来語を、カタカナ表記で安易にすまして日本語訳しない日本の現状を、窪島・野口氏は憂うことなく、先人たちの外来語の日本語訳の努力に敬意を表しようともしない。

蘭学・洋学における発達の概念の導入について

(参考)
☆田中昌人,日本における発達の概念の導入について:Perry.M.C.;Harris.T;Alcock.R.の場合,京都大学教育学部紀要,37,46-75,1991 ☆田中昌人,蘭学における発達の概念の導入について:堀内寛『幼幼精義』(1843・天保14年
  開雕)まで,京都大学教育学部紀要,39,182-217,1992 ☆田中昌人,蘭学における発達の概念の導入について――堀内寛「幼幼精義1843・天保14
 年開彫まで――,京都大学教育学部紀要,39,1993,○
☆田中昌人,蘭学における発達の概念の導入について(2):Pompevan Meerdervoort,J.L.C.
 による西洋医学教育の実施前まで,京都大学教育学部紀要,40,12-46,1994
☆田中昌人,蘭学における発達の概念の導入について 2 ――Pompe van Meerdervoort
 J.L.C.による西洋医学教育の実施前まで――,京都大学教育学部紀要,40,1994,○
田中昌人,蘭学における発達の概念の導入について(3):内田正雄『和蘭學制』(1869・明治
 2年)まで,京都大学教育学部紀要,41,1-34,1995
田中昌人他,発達について――準備委員会企画対論(日本教育心理学会第36回総会概
 要),教育心理学年報,34,1995
☆田中昌人,蘭学における発達の概念の導入について 3――内田正雄『和蘭学制』 1869・
 明治2まで――,京都大学教育学部紀要,41,1995,○                                                      





                                                                                                                                                                         

2011年5月18日水曜日

滋賀大学教育学部窪島務氏の曲学阿世























 このブログの冒頭部門で次のことを書いた。

主語を「曖昧」にすることは、彼への批判や彼の主張の一貫性のなさを「曖昧」にすることとして書かれたとするならば、窪島務氏の述べている論旨はmaneuverであるとしか考えられない。
 maneuverでないとするならば、「単なる予算獲得の手法としてだけでなく,真剣に教育現場が求めているものに応えようとして」という予算獲得の手段に批判的であった彼が、文部科学省などが打ち出した障害児学校の統廃合をすすめ予算削減のために意図的に出してきた「特別支援教育」を歓迎し、極めて政治的な判断の下で打ち出したいわゆる「発達障害の概念」を評価し、それを裏打ちする研究なるものを旺盛に行っていることをあまねく公表するはずがない。
と。

約40年間にわたる窪島氏の書いた文章を通読するとそのことが良くわかる。

子どもたちや
教育は「物」でない

  問題なのは、彼自身が自らの考えが「変遷」したことを明らかにしない事にあるのではない。
 彼が意図的に、
文部科学省などが打ち出した障害児学校の統廃合をすすめ予算削減のために意図的に出してきた「特別支援教育」を歓迎し、極めて政治的な判断の下で打ち出したいわゆる「発達障害の概念」を評価し、それを裏打ちする研究なるものを旺盛に行っている。
ことを、永く障害児教育実践をすすめていたベテランの教師ではなく、それらの経過を知らない研究者や保護者や教師や市民に広めていることである。
 それは、窪島氏の弱点を新たな装飾で凝らし、新しい教育、今まで取り組まれていなかった子どもたちの教育などなどという主張を急激に広げていることである。

スクラップ・アンド・ビルド

 窪島氏の手法はスクラップ・アンド・ビルにあるが、教育や子どもたちは物ではない。
 壊して作ることは出来ないのである。その点で、窪島氏の行為は教育に重大な「損傷」を与えるとも言える。
 だから放置できないのである。

 レッドカードを出した
「書けない」子どもたち
 と断定する根本的誤り

 その典型が、読み書き障害の子どもたちを「書けない」子どもたち、としている事から見ても明らかである。
 窪島氏は自らレッドカードを出しながら、出場している。
 彼が、読み書き困難、読み書き障害という表現を使い、「思考と言語」とか「教育と言語」などの言語やコミュケーション、はなしことばとかきことば、という従来彼が使っていた用語をと使わなくなったこと。
 読み、書き、と分解して、書きを問題にして、書きすなわち文字の分解をする手法を展開していることは、少なくない教育委員会から歓迎されている。
 それは、窪島氏の主観的意図とは別にして、政財界の求める波に呑み込まれているからである。

 「合校論」に
「教育とは一つの統治行為」

 すでに述べた「合校論」には、

 ところで、広義の教育、すなわち人材育成にかかわる国家の機能には、質的に異なるいくつかの側面があることに注意しなければならない。
 第一に忘れてはならないのは、国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。国民を統合し、その利害を調停し、社会の安寧を維持する義務のある国家は、まさにそのことのゆえに国民に対して一定限度の共通の知識、あるいは認識能力を持つことを要求する権利を持つ。
 共通の言葉や文字に対して、国家は民主的な統治に参加する道を用意することはできない。
 また、最低限度の計算能力のない国民の利益の公正を保障し、詐欺やその他の犯罪から守ることは困難である。
 合理的思考力の欠如した国民に対して、暴力や抑圧によらない治安を供与することは不可能である。
 そうした点から考えると、教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つと考えられる。
  義務教育という言葉が成立して久しいが、この言葉が言外に指しているのは、納税や遵法の義務と並んで、国民が一定の認識能力を身につけることが国家への義務であるということにほかならない。

教育に警察や
司法機関など
   の権能を、と

  国家統制としての教育にとって、「共通の言葉や文字」「最低限度の計算能力」が必要であり、そのためには、「教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つ」ようにし、義務教育では、「納税や遵法の義務」とともに「国民が一定の認識能力を身につける義務」が必要であるとしている。
  国家統制をすすめるうえで、読み書き困難は、「共通の言葉や文字」を持たないことになるため、それに取り組んでいる窪島氏は注目されることになるのである。
 この「合校論」が、学習指導要領等に具体化されている事を研究していない窪島氏は、このように書くと、きっと「ノー」と言うだろう。
 だが、彼の「読み書き困難」「読み書き障害」のとりあげ方には、教育目標が一切書かれていない。
 誰のための、何のためのなどはもちろん、「主語」を抜いて「読み書き困難」「読み書き障害」だけを主張しているので、どうにでも利用されるのである。
   しかも、彼の主張は、国家統制下(学習指導要領等)の「読み」と「書き」を基準に「困難」「障害」としているため、さらに歓迎されるようになっている。

いとも簡単に
政府の提起に従う傾向は……

 そのため窪島氏は、島根大学教育学部の西氏の論述で、

 しかしながら、「特別支援」ということばをかぶせることの合理性と科学性については、それなりに慎重な検討が不可欠と考えられる。
 さらにまた障害児学級の廃止についても、実際に現に実践を進めているその担任が反対を唱える動きも、一部には見られたものの必ずしも全国的なうねりとなったわけでもない。
 このように、いわばこれまでの障害児教育の蓄積を十分に吟味する暇もなく精算し、いとも簡単に政府の提起に従う傾向について、個人的には全体主義の復活を思わせるようなある種の恐怖心を感じている。

と、書かれている
「 いとも簡単に政府の提起に従う傾向について、個人的には全体主義の復活を思わせるようなある種の恐怖心を感じている。」
は、同意出来ないだろう。

全体主義の中の個人

 ちなみに、全体主義とは、「個」に対する「全体」(国家,民族,階級など)の優位を徹底的に追求しようとする思想・運動・体制をいいい、この言葉の起源は,イタリアのファシズムの最高指導者ムッソリーニが、運動の目標として1924年ころから掲げた「全体主義国家」の概念とされている。
 また、全体主義という表現がファシズムに対する弾劾の言葉として初めて表現されたのは、1929年11月2日の「タイムズ・ロンドン」とされている。
 窪島氏は、自分こそ子どもたち個々のニーズを主張しているではないかというかもしれない。
 しかし、その個々は国家統制の個々であるとなれば、子どもたち個々のニーズは「国の枠の中」でのニーズでしかないことになる。
 窪島氏の文章には、学習指導要領における国語等の読み書き指導の非科学性や問題・改善・改変がしばしば書かれ、学習困難・読み書き障害を明らかにしつつ、学習困難・読み書き障害生徒のためのサポート方向が記述されていない。

2011年5月15日日曜日

文部科学省の悪文が教育の指針として持ち込まれる、と指摘する佐賀大学理工学部教授豊島耕一氏に対して、滋賀大学教育学部窪島務氏は答えられるだろうか

 佐賀大学理工学部教授豊島耕氏は、文部科学省の「パブリック・コメント」に応募したことなどを明らかにされているが、窪島氏と対照的なので、以下その一部を紹介させていただく。

 文案作成者の
 国語力を疑わせる

  豊島氏は、

 学習指導要領案に対して、
1、そもそも文部科学省にはこのような命令を発する権限がなく,提案自体を撤回すべき
2,指導要領案は国家社会の「形成者」を育成するという観点を欠く
3,国語,社会および道徳の指導要領案が子どもの内心の自由を侵し,違憲である
4,外国国籍の子どもの存在を無視している。文案作成者の国語力を疑わせる部分がある。

の基本姿勢を明らかにした上で、4点の論点を明示しているが、窪島氏の「読み書き障害」「読み書き困難」という部分に関することだけを紹介させていただく。

内心の自由を
  侵す教育

論点2 「国語」,「社会」および「道徳」の指導要領案が子どもの内心の自由を侵し,違憲である
 指導要領案は,これらの教科で「愛」という個人的,内面的なものに介入するなど,子どもの内心の自由に踏み込んでおり,したがって憲法13条(幸福追求権)と19条に違反している。
 国語では,学年を通じての「指導計画の作成と内容の取扱い」の部分で,例えば「日本人としての自覚をもって国を愛し,国家,社会の発展を願う態度を育てるのに役立つこと」と,倫理的な意味で普遍的なものとは言えない特定の対象への「愛」を強制することにつながりかねない表現が見られる(20ページ)。
 社会では,例えば33ページで,「天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」とあり,ここでは直接的に天皇への「愛」を生徒に強制している。
 道徳では,たとえば106ページで,「すがすがしい心をもつ」とあり,直接的に心のありかたにまで介入している.

個人の
幸福追求への介入

 何を愛し何を愛しないかは個人の問題であり、個人の幸福追求の範疇である。「心」のありかたも同様である。
 これに国家が介入することは憲法13条に違反するので、これらの言葉を強制力を持つ法令に入れるときは、このことに十分な注意が必要である。
 ところが指導要領案にはそのような配慮は全く見られない.

外国国籍の
 子どもの存在を無視

論点3 外国国籍の子どもの存在を無視している

 たとえば第1章「総則」で道徳教育に触れた部分で,「日本人を育成するため」とあり,また108ページ,道徳の第5,第6学年の部分では,「日本人としての自覚をもって世界の人々と親善に努める」とある。
 外国国籍の子どもには指導要領は適用されないのか、あるいはそのような子どもがいる学校ではこの指導要領そのものが無効とされるのか、不明である。

文部科学省の悪文が
 教育の現場に持ち込まれる

論点4 文案作成者の国語力を疑わせる部分がある

第1章「総則」で道徳教育の目標述べた部分を引用する.

道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を継承し,発展させ,個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に努め,進んで平和的な国際社会に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。

 この長い文章で,それぞれの要素の係り結びの関係を理解することはおよそ困難である。次のように表記を変え、それぞれの要素に番号を付けて分析し易くしてみる。

 道徳教育は,
 [0]教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,
 [1]人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の
  中に生かし,
 [2]豊かな心をもち,
 [3]伝統と文化を継承し,発展させ,
 [4]個性豊かな文化の創造を図るとともに,
 [5]公共の精神を尊び,
 [6]民主的な社会及び国家の発展に努め,
 [7]進んで平和的な国際社会に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,
 [8]その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。

 項目1から6までが7を修飾して7が8に係るのか[解釈A]。
 1から4までは直接8に係り,5と6が7に係るのか[解釈B]。
 それとも1から7までがすべて並列して8に係るのか[解釈C]。
 この文章の形式だけからは判読不能である。
 解釈BとCでは8の冒頭の「その」は「それらの」でなければならない。
  しかしこのことから解釈Aを取れというのであれば、それはあまりに不親切と言うべきである。(項目0は全体の背景を述べた独立したフレーズであろう。)

 このような悪文が教育の現場に,しかも教育の指針として持ち込まれるとすれば重大である.
と文部科学省の悪文が教育の現場に,しかも教育の指針として持ち込まれることを批判している。

「学習指導要領」を
 肯定しているのか

 だが、窪島氏の文章には、まったくこれらの問題は、触れられてはいない。だから、
窪島氏は、

1、「読解力」に課題があるのか。
2、「学習指導要領」を肯定している。
のかのどちらかでしかない。
 彼の書いた、指導したとされる「論文」なるものをよく読むと、1、2、点の間を揺れ動いていることが分かる。
  例えば、(1、)の点では、
 特別支援教育をめぐる島根大学教育学部西氏の論述。
 群馬大学教育学部久田氏の論述(特に、特別支援教育という概念や考え方の大元を吟味することなく、表面的に答申や報告書を読んでいると、一応プロの研究者でも間違いを生じるのではないでしょうか?の項)
などの記述に触れた部分が、まったくないことからも明らかである。
 それらを総合して豊島氏は、
「文部科学省の悪文が教育の現場に,しかも教育の指針として持ち込まれる」
としている。
 これらのことを踏まえないで、文部科学省の悪文や指針を受け入れた上で、窪島氏は「読み書き困難」「読み書き障害」を述べている。
  「大元」が日本文として成り立たない文を出しているのに、それを容認した上で「読み書き困難」「読み書き障害」を述べるのは、子どもたちや教育に対する確たる考えがなく、文部科学省に迎合しているとしか言いようがない。

フランス
 『未来の教育のための提言』

 窪島氏が良く引き合いに出す外国例に対して、豊島氏の紹介の仕方はまったく異なる。
 以下、窪島氏の漢字やカタカナなどの文字表記認識の対処法と教育に関わる際だった文章なので一部紹介させていただく。
 
豊島氏は、文部省などのすすめる「中教審」に対して、「フランス版中教審と読み比べることをお奨めします。」と書かれている。
 そこで、岩波書店の雑誌「世界」1988年3月号に掲載された、フランス共和国大統領の要請に基づき、コレージュ・ド・フランス教授団により作成された『未来の教育のための提言』のうちの一部を紹介させていただく。

『未来の教育のための提言』には、

 恵まれない人たちにこそ教育の良い条件が与えられるようなあらゆる適切な措置こそが取られるべきであり、そうした人たちを最悪の条件のなかに置くような事態を招くやり方(たとえば新参の教師や、十分な養成を受けず、給料も安く、授業を過度に多く持たされた代用教員たちに、困難の多い学級を担当させるといったあの奇妙な論理)には、正面から反対しなければならないのである。

心理学的な治療によって、
 奇蹟のように学業の挫折を
 解消してしまうことは
期待すべくもない


 じっさい、ある種の社会心理学的な治療によって、奇蹟のように学業の挫折を解消してしまうなどということは期待すべくもないことは明らかであり、教師の数を増やし、その養成と労働の諸条件を改善することによってのみ、落ちこぼれを減少させることを現実に望みうるのである。
 じじつ、フランスの教育が、とくに高等教育のレヴェルにおいて、図書館施設(その甚だしい不十分さについてはここで繰り返さないが)、教科書、参考書、質の高いテクスト集、学術翻訳書、データバンクなど、知的生活の基礎をなす固有の施設設備面における極端な不備に悩んでいることはよく知られていることである。

今より大きな学校自治を

 それは、どこにでも要求される基礎知識と平行して、選択科目として専門教育を行う学校を創設するというもので、それらの科目はその学校の特色をなし、他校との競争においてセールスポイントのひとつとなる。
 こうした試みは、学校長や職員会議が教師の採用に関しては、今より大きな自治を持つことを前提とするものである。
 そこには、純粋に教育学的な基準を含む多様な評価基準の導入や、このようにして計られた教師達の特徴点と担当するポストの性格との関係の考慮などが含まれるからである。

「学校」は
教育の唯一の場であるべきでない

 「学校」は教育の唯一の場であることは出来ないし、そうであるべきでない。
 「学校」は、また、
 すべてを教えることはできないし、すべてを教えるべきでもない。
 知識の伝達は、
 事実においても、権利においても、
 ただひとつの制度によって独占されうるものではなく、
 さまざまな互いに補完しあう教育の場のネットワークが考慮に入れられねば ならない。
 「学校」の固有な役割がそのなかで位置づけられるべきである。

教員の仕事を心理的
技術的摩滅から守るために

 教員の仕事は、困難で、ときには辛く消耗する仕事であり、情熱と信念を持って実行されぬ限り、真に効果的で精神を高揚させるようなものでありえない。
 どんな教育レヴェルの教師も、学校の閉ざされた空間の外へ出、研究所や企業などで研修を受けたり、休暇年を利用して、個人的な学習や授業に出席して勉強しなおすなどして、定期的に習慣性[ルーティン]から抜け出すことができぬかぎり、心理的、技術的摩滅から逃れることはできない。
 そして、おそらくは、年配の教師の希望者には、希望と適性に応じて、行政的仕事や、(チューターや巡回指導員の活動といった)文化組織の仕事のような、あまり激務でない仕事でそのキャリアをまっとうする可能性をあたえることも必要である。

教育の内容 ・ 教授法
教師達に固有の
強い権限が与えられること

 教育の内容に関しても、また、教授法についても、教師達にたいして、固有の強い権限が与えられていることが、おそらく、あらゆる圧力団体から「学校」の自治と教師たちの独立をまもる、唯一ではないにせよ最良の保証となるのである。

滋賀大学教育学部窪島務氏の研究への「哀傷歌」はどこで唄われる

 窪島氏は、滋賀大キッズカレッジ&地域教育支援センター、発達障害教育研究所、発達障害教育研究所紀要編集長などなど手を広げて、子どもたちの親には、LD学校をつくる、と言っている。

 だが、これは子どもたちの親に期待を持たせるだけで、彼の年齢や発達障害教育研究所のメンバーの年齢等を考えても長期に維持できるものではない事は明らかだろう。

 期待を持たせて
      後は知らない

 期待を持たせて、後は知らない、では済まされないだろうし、構成員たちも同じように言われとても否定できるだろうか。
 
なぜ同じ大学の教師
 他の研究者
 研究所と手を結べない

 このことに対して、次のような意見がある。

1,なぜ、滋賀県には人間発達研究所が窪島氏の恩師の血の滲むような取り組みの中で、維持されてきたのにそこと連携がとれないのか。
 同じ学部で同様の研究をしている教授は、人間発達研究所と一緒に取り組んでいるのに、別の研究所をなぜつくる必要があるのか。
 そこには、自分の分野が他と違いという意識が強く作用しているのではないか。

「権威」だけの
   空虚な「研究所」

 研究所というイメージは、人には専門的で条件の整った印象を与えるがそうではないらしい。
  発達障害教育研究所という仰々しい名前を付けて「権威」づけているが、一般的に思われる研究所ではなく「研究会」のようなものであるらしい。
 場所も機能も不明で、名前だけが専攻しているのではないか。
などの意見がある。

教職員組合が出す
研究誌は「研究実績」にならない
     とする非国際感覚

2、窪島氏は、京都教職員組合(以下京教組)障害児教育部が発行していた研究誌「障害者教育科学」を、京教組障害児教育部の役員交代で創設者が現場であくせくしている最中に、窪島氏が、イニシアチブをとりかもがわ出版とはなしをつけて、かもがわ出版から発行するようにした。
 かもがわ出版は、障害者教育科学が全国に広がり、発行部数も多いことから利潤を考え快諾した。
 そして障害者教育科学の編集責任者に窪島氏がなった。

教職員組合が出す
研究機関誌では
 研究者の実績にならないと

 そのことをあとで知った京教組障害児教育部の創設者たちが、

 「教職員組合は、国際的にも教育団体として教育政策などに意見を言える権利を持っている。だが、私たちの力量はまだまだ充分でなかった。自分たちが研究し、自らの力量を相互に切磋琢磨すること。また組合i以外の教師や人々の意見や研究を発表する場を研究誌として保障してきた。」
 「何のコンタクトもとらず、経過も知らない京教組障害児教育部役員を言いくるめて、出版社から
出すのはおかしい。」
 「障害者教育科学発行までに京教組障害児教育部の仲間が、本を売り歩いたり、資金を集めて、障害者教育科学を発行してきたことは充分知っているではないか。それがなければ、障害者教育科学は発行できなかった。発行できる資金が出来たら出版社に譲り渡す。これでは、努力して創り上げてきた教師への信義に反する。」
 「研究者としては、教職員組合が研究誌を発行していることを評価し、激励するのが本来だろう。それを自分のイニシアチブがとれるからと出版社に持ち込むことは道義的反する行為だ。」

と言う意見に対して窪島氏は、

「そんなのは、君たちの問題だ。」
「教職員組合が出す研究機関誌では、研究者が書いても研究誌に投稿したという実績とならな
い。」

と言い、激しい言い争いになったことは伝承さられている。
 その後、窪島氏は既成事実を盾にあらためることはなく、彼の文章や「論文」が、障害者教育科学に掲載された実績として各種学会誌に紹介するようになった。

研究誌「障害者教育科学」
    が赤字となると

 ところが、そこまでした研究誌「障害者教育科学」が出版社として、維持できなくなる頃に「発達障害教育研究誌」なるものを「暗示」し、自ら発達障害教育研究所紀要編集長と公表をするようになっている。

自分のためなら
 何でもするという批判が

 自分のためならどんなことでもするという批判が、京教組障害児教育部が発行した研究誌「障害者教育科学」の創設者たちから出ている。

 研究誌「障害者教育科学」は、創刊号(1981年)から第37号(1998年)まで、京教組障害児教育部が発行。
 2010年1月の60号休刊まで、かもがわ出版・クリエイツかもがわが出版されていた。
 1998年に窪島氏が言い出したことを時系列に見ると、かれの本心が見えて来るから不思議だ。

LD学校を
 つくるわけはどこに

3、LD学校をつくることを保護者に言っている事から考えても、では、なぜ、彼はLDの「特別な学校をつくる必要性と構想を持っている」のか。
 それならば、普通学校の先生と親を離反させることを必要以上に「煽り立てる」のか理解できな
 い。
 考えられるのは、大学を退職後の就職を考えているからだという意見もあるが。

 参考までに京教組障害児教育部発行の研究誌「障害者教育科学」に彼が書いた文章を二例だけ掲載しておく。

障害者科学
創刊号(1981年)
 論文 「共生・共育」論=障害児教育解体論の本質をあばく
     ─篠原睦治和光大学助教授批判─ 
  第3号(1981年)
 論文 福井達雨氏(止揚学園理事長)の虚像と実像
   ─この唯我独尊的・反民主主義行動と思想の批判─


2011年5月14日土曜日

滋賀大学教育学部窪島務氏が  「合校論」から産まれた「特別支援教育」を賛美する背景




 1990年代から2000年代に変わる段階ですなわち20世紀から21世紀に変わる段階で、政財界はそれまで準備してきた日本展望と戦略を明らかにした。

公教育の解体・再編の

  「公教育のスリム化」


 経済同友会がだした「合校論」はその典型の一つである。
 「合校論」は、「公教育のスリム化」(注 公教育のリストラと言わないでいたが。 )を基に「21世紀の学校」のヴィジョンを提示している。
  そして、「合校論」は、

1、学校教育の機能を「基礎教室」(言語能力と論理的思考力とナショナル・アイデンティティの教育)。

2、「自由教室」(自然科学、社会科学、芸術の教育)。「自由教室」は民間の教育施設を子どもと親が自由に選択する。

3、「体験教室」(行事、課外活動、修学旅行など)「体験教室」は民間の文化スポーツ施設や旅行会社と地域のボランティアによって運営される。

として、「基礎教室」だけを文部省と各都道府県市町村の責任において運営する「公教育のスリム化」論だった。
 「合校論」は、文部大臣と中央教育審議会会長の賛同、日教組委員長の賛同も獲得し、1990年代半ばには、

教育改革の翼賛体制

を形成していたとされている。

1990年代半ばには
 学校のリストラと
 批判していたのに

 すでに述べたが、窪島氏は、1998年に京都市教職員組合の機関紙に
「学校と教育を個性化するという名目によって、学校のリストラ、教師減らしがすすめられ」
「強引に統廃合をすすめられている現実」
「教育に市場原理が持ち込まれ、よい教育を買いたければたくさん金を出せという論理が大手を振って」
と曖昧であるが暗に経済界や文部省の動きを批判していた。 

態度が変わった
 教員評価制度の実行で 

 その後、2002年から実施された新学習指導要領における

 教育内容の3割削減、
 義務教育段階にエリート・コースを準備する中高一貫教育の選択的導入、
 文部省による日の丸・君が代の強制、
 「奉仕活動」の強制と教育基本法「改正」の提言、
 国立大学の独立行政法人化、
 学校選択の自由化と教員に対する評価制度

が実行されていく。

2001年文部科学省は
「特殊教育」を
「特別支援教育」

 と言い替えたが… 

その間、
 2001年から文部科学省は、「特殊教育」という言い方を「特別支援教育」とし、
 2005年12月 中央教育審議会 「特別支援教育を推進するための制度の在り方について」答申、
 2006年3月 学校教育法施行規則の一部改正(同年4月施行)、
 2006年6月15日 「学校教育法等の一部を改正する法律案」可決・成立 。6月21日に公布、
 2007年4月から特別支援教育実施
がすすめられる。

特別支援教育の実施で
戦後の障害児教育の歴史で
 初めての大きな制度改変と絶賛

 特別支援教育が学校教育法に取り込まれると窪島氏の態度は「批判」から絶賛に変わる。
 すでに紹介したに 国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-(2010年7月)で、
 窪島氏は、特別支援教育を
「新しい制度」
と評価し、問題もあげるが、
「戦後の障害児教育の歴史の中で初めての大きな制度改変であった。」
と絶賛するようになる。

特別支援教育の評価
とは別なところにあるのか
  主張の変貌

 窪島氏が、このように態度を豹変させた原因には、彼の書いたものを詳しく読んでも、1970年代からの彼の文章を通読しても
「わずか数年で窪島氏が、障害児教育から何の脈絡も変更もないまま、特別支援教育を賛美」する理由が見つからない。
 そればかりか、軽度発達障害と書いていたものを文部科学省の通知に合わせて、発達障害と書いている。
 そこには、研究者との良識、研究の自由による自己論拠の展開、研究による訂正・変更などまったく見られず、用語や概念も簡単に書き換えられている。
 そして、主語のない文章、曖昧表現、仮説の根拠を充分吟味しない仮説による調査などなどが増え続けている。
 それらを吟味すると彼の主張が変わったのは、別なところに原因があるとしか考えられない。

国立大学でなくなって
 実績数や評価の数量を
  増やすことに奔走したのでは

 すなわち、
 1999年6月、 文部省、全国国立大学学長会議で独立行政法人化の検討を表明。
  2001年に独立行政法人が成立。
 2003年7月、国立大学法人法が国会で成立
したことが関係しているようである。
 国立大学の滋賀大学教育学部に居た彼が、国立大学ではなくなったことにより、研究実績を急激に数量化し、増大化させる窪島氏なりの「策略」が態度を一変させたとしか考えられない。

 すなわち、国立大学の法人化によって、多くの問題が生じたが、
 
 研究費調達は各大学の自助努力が求められるようになった。
 寄付を募るなど運営が私立大学に近いものになってきている。
 毎年、前年度比という効率化係数が適用されて、漸減する。
 したがって、必要な人数の教員や職員を確保できない事態が発生する、

 などなどのために窪島氏は、自らの効率化係数の増加を意識し、実績づくりのために「奔走」するようになったしか考えられないのである。
 なぜなら、彼の属する大学のホームページでは、彼の研究・実績数、そればかりか新聞記事までカウントされ、誰にでも「見える」ようにされている。
 研究や大学の様子や一つの論文にどれだけ時間と労力が費やされたかは分からず、に見た人が、大学のホームページに掲載されている大学教授等の実績・著作・講演数などなどの多さ(「数値」)だけでその教授を評価してしまうことになっている。
 この教授は、働いている、働いていない、などなどと思わされるようなことが大学のホームページで明るみに出されている。
 窪島氏は、大学のホームページとリンクさせているため、「研究・実績数、そればかりか新聞記事」などなどの数量他の教授を凌駕している。

2011年5月10日火曜日

数年で「変貌」した滋賀大学教育学部窪島務氏の主張はどこから来たのか

  
窪島氏は、1998年に京都市教職員組合の機関紙書いたことを紹介した。
 ところが、数年で彼の書いたことが「変貌」する点を明らかにして、その「変貌」の原因を考えてみたい。

大きく「変貌」した主張

窪島氏は、

子どもの息苦しさを教師がつくる

1、子どもににとって本当に息苦しいことをあげていた。
 だが、その原因を教師の人権蹂躙とするようになった。

学校・教師へのパッシングが消える

2、学校たたき、教師パッシングなど本当に理不尽なジャーナリズムの傾向や一部の「進歩的」研究者の無責任な言動が横行し、また何でも責任を学校に押しつける親がふえているという中で、教師が失敗をおそれないおおらかな対応をしにくくなっている。
 記述が消えるようになった。

学校・教師の役割の否定

3、本来の学校の役割、教師の指導の役割を否定することではなく、本来の教師の指導性を正しく発揮するために不可欠。
 としていたのに「学校の役割、教師の指導の役割を否定する」ようになった。

知能検査の導入を肯定

4、学校にカウンセラーが配置されることについて、教師が全面的にカウンセラーの役割をするなどということは本来的に無理なことと言えます。役割(職業的専門性)が違う。
としていたのに教師の心理的領域を強調するようになり、知能検査の導入を主張するようになった。そのための講習会を行うようになった。

心理主義導入と教師の区分をなくす

5、カウンセラーが決して教師になれないのと同じです。(教師が自分の学校を離れ、職場である学校と全く関係なく、学校との関係が全くないクライエントと面談するときにはどうかということはわかりません。それでも難しいと思いますが。)  
としていたのに、自らの教育相談(カウンセラー)から、教師にクレーム・研修・指導をするようになった。

教師の仕事を理解せず新たな負担を強調

6、学校にカウンセラーを導入することはが有益になるためには二つの条件、一つは、そうしたカウンセラーの特長を学校がよく理解するということ、もう一つはカウンセラーが学校というもの、教師の仕事の全体をよく理解するということです。 
としていたのに、自ら学校の現状や教師の仕事を理解しないばかりか、教師の仕事に「新たなる専門性」を主張するようになった。

学校リストラを事実上容認

7、学校と教育を個性化するという名目によって、学校のリストラ、教師減らしがすすめられています。
としていたのに学校の個性化を肯定し、学校のリストラ、教師減らしについて触れないばかりか、少人数学級の項で教師の質を問題にして教師減らしを肯定する論拠の裏付け主張をするようになった。

学校統廃合を不問にする

8、いまや登校拒否児の進学保障の場となっている高等学校の定時制課程が強引に統廃合をすすめられている現実があります。
 としていたのに、障害児学校・学級の統廃合や普通学校の統廃合を取り上げることなく、それに対する意見を述べなくなった。

教育の市場原理を述べなくなる

9,教育に市場原理が持ち込まれ、よい教育を買いたければたくさん金を出せという論理が大手を振っています。勉強ができないのも「個性」であるとあきらめさせられています。問題が起きると親と子どもの責任にされたり直接かかわりのある学校や教師の責任にされがちです。
 としていたのに、親と子どもの責任ではなく、学校と教師の責任を主張するようになり、「教育の市場原理」に触れなくなった。

「教師=敵論」「親=原罪論」を批判しなくなった

10、無責任なジャーナリズムの姿勢も問題です。「教師=敵論」「親=原罪論」ではともに問題解決にはつながりません。
としていたのにジャーナリズムとの結びつきを強め、「教師=敵論」「親=原罪論」を批判しなくなった。

親と教師を分断する主張を積極的に行う 

11、親と教師が協同して教育を変えていく運動を大きくすることが重要です。
としていたのに、「親と教師が協同して教育を変えていく」のではなく、親と教師を分断する主張を積極的に行うようになった。

わずか数年で窪島氏が、障害児教育から何の脈絡も変更もないまま、特別支援教育を賛美し、発達障害、読み書き障害、読み書き困難などを研究していることを「乱発的に発信」して、「変遷」する彼の主張の根本問題と若干の原因について次から述べて行きたい。

2011年5月9日月曜日

滋賀大学教育学部窪島務氏の論拠は破綻





窪島氏の

論拠の破綻









 群馬大学教育学部久田信行氏の「発達障害や学習障害の概念規定は成り立たない」とした論拠に基づき、

「障害だからという位置づけではなく、特別な教育的ニーズがあるから、特別の支援を行うという、特別ニーズ教育の原点に戻る必要がある。その際、読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。」

という論理から滋賀大学教育学部窪島務氏の現在の主張を考えると、窪島氏の行っていることは重大な問題と破綻が浮かび上がってくる。

 窪島氏の過去の文章を読んでいない人は、現在彼は「読み書き障害」の研究者であり、発達障害の研究者である、と思われるだろう。

 だが、そうではない。

場面理解をして
  使い分ける文章を
    比較すると

 彼は、書いていること、またやっていることを「場所」や「対象者」「読み手」によって、まったく異なったことを主張し、彼自身が書いている「新しい問題」を引き起こしている。
 そればかりか、窪島氏は「意図的か」「意図的でないか」は、別にして、西氏や久田氏のように文部科学省の文章を読みこなせてないばかりか、重大な「誤りか」「意図的無視」を引き起こしていることは、間違いないだろう。
 そのためまず、
 以下窪島氏が、1998年に京都市教職員組合の機関紙に掲載された、「教師の指導」の視点から「登校拒否」問題を考えるというテーマの文章の一部を掲載したい。
だだし、参考のためにすでに引用した日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』(2002年12月季刊)、(国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-2010年 )を※印で再掲載する。

窪島氏は、1998年に京都市教職員組合の機関紙に次のようなことを書いている。

子どもの息苦しさを
 責任転化するはじまり

  子どもににとって本当に息苦しいのは、いわば「善意のおせっかい、」「良心的な押しつけ」です。それは、子どもが 拒否できないしつこさ、「正しさ」を持ってせまってくるからです。

 いま、「善意のおせっかい」や「良心的押しつけ」が教育の場で、「子どものため」「発達のため「将来のため」という「教育的配慮」によって行われ、教師もそこから逃れることができなくなっている状況があります。
教師パッシングの中で
  失敗をおそれない
    おおらかな対応を、
       と主張していたが

 確かに、最近、学校たたき、教師パッシングなど本当に理不尽なジャーナリズムの傾向や一部の「進歩的」研究者の無責任な言動が横行し、また何でも責任を学校に押しつける親がふえているという中で、教師が失敗をおそれないおおらかな対応をしにくくなっているのは確かですが、教師が陥りやすい落とし穴をしっかり見据えることが大切です。
 それは、本来の学校の役割、教師の指導の役割を否定することではなく、本来の教師の指導性を正しく発揮するために不可欠のことだからです。

※  身体的不調を訴える不登校・登校拒否児童生徒を前にして,「頑張って登校しなさい」 「登校してくれなければ何もできない」 という
 子どもに対する教師の言動や学校の息苦しさ
に対して教師の人間的感性,感受性がなにゆえ作動しなかったのかということについての説明としては不十分である。なにより,教師がどのように変わりうるのかということについての見通しを示せなかった。( 日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』2002年 )

問題解決には
 つながらない
「教師=敵論」「親=原罪論」
    と主張していたが

  さらに窪島氏は
 そのように考えてくると教師が全面的にカウンセラーの役割をするなどということは本来的に無理なことと言えます。役割(職業的専門性)が違うのです。
 カウンセラーが決して教師になれないのと同じです。(教師が自分の学校を離れ、職場である学校と全く関係なく、学校との関係が全くないクライエントと面談するときにはどうかということはわかりません。それでも難しいと思いますが。)  
 誤解があるといけないので付け加えますと、学校にカウンセラーを導入することは有益であると考えています。 
 但し、本当に有益になるためには二つの条件があります。
 一つは、そうしたカウンセラーの特長を学校がよく理解するということ、
 もう一つはカウンセラーが学校というもの、教師の仕事の全体をよく理解するということです。 
 今これが決定的に不十分であるため、むしろ新たな問題を引き起こし、学校からはカウンセラーなどない方が良いという声も出ているところが多いと聞いています。
 ありうることだと思います。

学校のリストラ、
 教師減らしがすすめられて
   と主張していたが

 学校と教育を個性化するという名目によって、学校のリストラ、教師減らしがすすめられています。
 いまや登校拒否児の進学保障の場となっている高等学校の定時制課程が強引に統廃合をすすめられている現実があります。
 教育に市場原理が持ち込まれ、よい教育を買いたければたくさん金を出せという論理が大手を振っています。 
 勉強ができないのも「個性」であるとあきらめさせられています。
 問題が起きると親と子どもの責任にされたり直接かかわりのある学校や教師の責任にされがち
 です。 
 無責任なジャーナリズムの姿勢も問題です。 
 「教師=敵論」「親=原罪論」ではともに問題解決にはつながりません。 
 教師自らが足もとを率直に見直すとともに、親と教師が協同して教育を変えていく運動を大きくすることが重要です。

※ 滋賀大キッズカレッジのアセスメントでは、音韻意識にも蹟きが認められた。すなわち、ひらがなの読み、書きでも特殊音節で困難が起きる程度の重度の読み書き障害である。対人関係に問題のない学習障害である。
 ところが、そうした保護者に対して、担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度で保護者は相談のしょうがないと考え滋賀大キッズカレッジにたどり着いた。こうした事例が今年に入ってから相次いでいる。 子どもの困難さと保護者の心配に対するこうした
「否認ネグレクト」
は決してまれな例ではないが
虐待の一形態
であるとするなら、子どもの困難と保護者の心配のネグレクトは
まさに虐待
というべきものであり、
子どもの人権の蹂躙に他ならない。
(国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-2010年 )

優柔不断か
      意図的か

 わずか数年で窪島氏が、主張を変えたのは、もともと彼の主張には、優柔不断なところがあったとされる意見もある。

 だが、特別支援教育、発達障害、読み書き障害、読み書き困難などと「変遷」する彼の主張だけに留まらず、教育に重大な悪影響と混乱を引き起こしているので、窪島氏の考えの根本問題を引き起こしている若干の原因について述べて行きたい。

2011年5月7日土曜日

発達障害や学習障害の概念規定は成り立たない 滋賀大学教育学部窪島務氏の「我田引水」(3)

 2010年9月日本特殊教育学会で、久田氏は、「発達障害や学習障害の概念規定は成り立たない ―国際生活機能分類(ICF)と障害概念の要件からの検討― 」の口頭発表をしている。


WHOの国際障害分類(ICIDH)の改訂とその改訂の国際生活機能分類(IF)をもとに検討し、

「何らかの脳機能」による達障害、学習障害の考え方はないICFに代表されるように、障害の捉え方として、昔の「病理モデル」や、その論理形式である「基底還元論」への反省(上田,2005)から,生活機能の重視へと変化してきている。
 また、参加の重視や環境因子の明記のように、社会的要因を重視するようにもなってきている。
 このような変化は、脳機能の何らかの病理という基底に還元する発達障害、学習障害の考え方とは異なっている。
 ICF の心身機能・身体構造のレベルにおいて、脳・神経系の障害が評価されるが、その中には「何らかの脳機能」という項目は無い。
 評価可能な,具体的な困難が評価の対象項目となっている。
 また、当然のことだが、「学習」という機能も「発達」という機能も無い。

ことを明確に分析している。

脳に
「学習野」「発達野」はないのに

さらに、

 視覚障害の場合、目という受容器か視神経、視覚野といった中枢神経系が身体構造としては対応している。
 運動障害の場合、筋・骨格系、運動野を代表とする脳神経系が対応している。
 では、「学習」に対応する身体構造があるだろうか。
 「学習野」という中枢神経系の領野はあるだろうか。
 どちらも無いのである。
 同様に、「発達野」という領野は存在しない。
 なぜなら、経験による行動の変化を「学習」と呼び、経験と成熟による変化の過程を「発達」と呼ぶからである。
 これらの概念は行動の変化の様相を示す概念であり、もともと機能ではないので、機能の制意味する障害に該当しない。

脳性まひやてんかんなどの総称
として用いられたアメリカの「発達障害」 

 そもそも、歴史的に、「特異な学習障害」は、さまざまな状態像の総称として提唱された。
 「発達障害」も最初、アメリカにおける法律で脳性まひやてんかんなどの総称として用いられた。
 我が国の場合、法律の谷間にいた諸々の障害の総称として用いられた。
 ちなみに、日本とアメリカで内容が異なる点も留意すべき点である。

もとめられる
「特別ニーズ教育の原点に戻る」

以上のことから久田氏は、

(新たな考え方)
 教科学習における特異な困難や対人行動の面での困難は現実に存在する。
 それらの困難を示す児童・生徒への支援は、当然ながら特別支援教育の対象である。
 それは障害だからという位置づけではなく、特別な教育的ニーズがあるから、特別の支援を行うという、特別ニーズ教育の原点に戻る必要がある。
 その際、読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。
 
という方向性を出している。

読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。

という提起は、「発達障害」を限定的に規定され、教育行政や一部の研究者によって指導されていた
少なくない学校の取り組みに「激震」
を与えることは充分予測される。

「踏み絵」にさせられている
     「発達障害や学習障害」の理解

 なぜなら、今や「発達障害や学習障害」という広範に広げられ、「発達障害や学習障害」を理解しなければ、普通学校の教師ではない、とさえ断定されることが多くある。
 「発達障害や学習障害の理解があるか、どうか」を踏み絵に学校現場では、教師の評価が振り分けられたり、批判されたりして教師間の対立・混乱・沈黙・あきらめがより横行するようになっているからである。

 また、意外に知られていないのは、障害児学校で「発達障害や学習障害」の評価と理解をめぐって、教師間での対立が生じていることがある。

 その場合の多くは、校長などの管理職によって「発達障害や学習障害」を受けとめるべきだという強行策で事が進められている。

 教育として教師間の理解を広める、理解し合うのではなく、「発達障害や学習障害の理解」が「踏み絵」にさせられていることを嘆く多くの報告がある。

久田氏の考えで
予測できる
 教育内容の充実と広がり

 しかし教育実践をする学校や学校の教師からすれば、従来の教育実践を踏まえて、久田氏の考えのほうが、形式論議よりも教育内容のさらなる充実がすすめられることは充分予測できる。
久田氏の、

それは障害だからという位置づけではなく、特別な教育的ニーズがあるから、特別の支援を行うという、特別ニーズ教育の原点に戻る必要がある。

 その際、読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。

という考えは、教育実践としてもより有効で効果的であり、教師間の一致と連帯も深まるだろう。

表面的に答申や報告書を読むと間違う       滋賀大学教育学部窪島務氏の「我田引水」(2)

群馬大学教育学部久田信行氏は、「発達障害者とは-特別支援教育の対象者-(2008.2.25第三版)」を公開されているが、その一部を紹介させていただく。

読まれていない最初からの「従来の特殊教育の対象者に加えて」という記述


久田氏は、

 特別支援教育の対象者に関しては、最初から「従来の特殊教育の対象者に加えて」という記述がありました。「LD,ADHD,高機能自閉症児等」は、対象を広げる際の、例示としてあげられていた訳です。
 しかし、「LD,ADHD,高機能自閉症児等」の「等」はアスペルガー症候群だなどという解説がまかり通るなど、解釈は混乱していたと思います。
 上記の一群の対象に関する記載なら、本来「等」は、「その他の、特別な支援が必要な幼児・児童・生徒」であるでしょう。
 少なくとも、「LD,ADHD」の考え方は、「脳障害児」という1940年代の対象児をルーツにもつ子どもたちですので、「運動機能の特異的発達障害」あるいは「発達性協調運動障害DCD」と呼ばれる不器用なタイプの子どもが、いわゆる脳障害児のタイプとしては抜けていたので、それを入れる方がベターだと考えられます。
 高機能自閉症の一部と考えられるアスペルガー症候群(DSM-Ⅳだとアスペルガー障害)を「等」とするのは、論理的に整合性を欠くと思っていました。
 そもそも、新たに加えられた子どもたちのイメージが「学習障害等」という所から出発したのは歴史的成り行きですが、学習障害が強調されすぎたきらいはあるでしょう。
 
「従来の特殊教育の対象者」
に付け加わっただけだが

 特別支援教育の対象者の中核は、「従来の特殊教育の対象者」であったことを、明確に確認する必要があります。
 すなわち、視覚障害、聴覚障害、知的障害、肢体不自由、病弱という現在の特別支援学校の主たる対象者、さらには、言語障害、情緒障害その他の従来の特殊学級の対象者がまず特別支援教育の対象者なのです。
 それに加えて、どのような子どもたちが加えられたかという論議である訳です。従来の特殊学級の対象児を忘れたかのような「特別支援教育」の論議は、非常に問題が大きかったと思います。
と論じている。
 だが少なくない普通学校では、特別支援教育の対象者は、「LD,ADHD,高機能自閉症児」だとされている現実がある。

プロの研究者でも
間違いを生じる答申や報告書

 さらに久田氏は、、
では、どの様な対象者を加えるのか
 特別な支援を行う対象者をどう定めるか、という問題は、特別支援教育とは何かという問題と深く関わっています。
 特別支援教育という概念や考え方の大元を吟味することなく、表面的に答申や報告書を読んでいると、一応プロの研究者でも間違いを生じるのではないでしょうか?
ということを明らかにしている。「表面的に答申や報告書を読んでいると、一応プロの研究者でも間違いを生じるのではないでしょうか?」という意味は重要な意味を持つ。このことは、もともと文部科学省が、「間違いを生じるよう」にしていたともとれる。先に述べておくなら、文部科学省の動きを調べてみるとどうもこの「特別支援教育」や「特別支援学校」などの名称も含めた検討をすすめているようである。
 
通常の学級にいる
  子どもたちを指し
    示していた範囲  

 さらに久田氏は、

 「LD,ADHD,高機能自閉症児等」という表現や「軽度発達障害」という用語が指し示していた範囲は、通常の学級にいる子どもたちです。特に知的障害のある子どもたちを除外して、「LD,ADHD,高機能自閉症児等」と言っていた面があります。
 明確にそう規定されていた訳ではありませんが、二つの理由から、ある意味では、暗黙にそう受け取られていたのです。
 第一に、「LD,ADHD,高機能自閉症児等」の定義で、いずれも脳の機能障害が原因と推定され、かつ、知的障害ではないと規定されていることがあげられます。
 第二に、特別支援教育への変革の序章であった「通級学級に関する調査 研究協力者会議」(山口薫 座長)で、明確に知的障害は通級の対象から除外された点があげられます。その際、知的障害のある子どもについては、原則として養護学校か固定式の特殊学級で措置されることになっていたため、その制度を崩さないという考えがベースになって、知的障害は通級の対象から除外され、学習障害は将来の含みを残しながら、ペンディングになったと解釈できます(「通級による指導に関する充実方策について(審議のまとめ) 」平成4年3月30日、1992)。

と述べる。たしかに、「研究協力者会議」の報告を読んでいるとそのように思える。

「学習障害」という表現は
学校教育法にはない

 さらに久田氏は、核心を追求した論述をを書いている。
 「学校教育法等の一部を改正する法律」が平成18年6月15日に成立しましたが、その中には「LD, ADHD, 高機能自閉症児等」はおろか「学習障害」という表現もありません。「教育上特別の支援を必要とする児童、生徒及び幼児」と書かれており、診断名で規定されてはいないのです。平成18年7月18日の「特別支援教育の推進のための学校教育法等の一部改正について(通知)」においても同様です。
まさにそうである。これらの文章をいくら読んでも「学習障害」という表現は出てこない。

厚生労働省の関係法案・通知に
  関連する特別支援教育課の通知

そしてさらに、

 平成19年3月15日に文部科学省特別支援教育課は「『発達障害』の用語の使用について」という通知を出しました。
 その中で、問題の多かった「軽度発達障害」という用語を用いないだけではなく、今まで多用していた「LD,ADHD,高機能自閉症児等」という表現も原則使わないこととし、代わりに「発達障害」という用語を、発達障害者支援法の規定に基づいて使うと宣言しました。
また、同じ特別支援教育課のホームページには発達障害支援法の「発達障害」の規程が丁寧に書かれています。
 要約的に紹介すると、発達障害者支援法の第二条に発達障害者の定義があり、そこには広汎性発達障害(当然、自閉症を含む)と学習障害、注意欠陥多動性障害があげられています。
 更に、政令に規定する障害という文言があります。
 それを受けて、同施行規則(政令)では、言語の障害と協調運動の障害があげられ、更に厚生労働省令で規定する障害という文言があります。
 政令で規定された範囲についても、言語障害や発達性協調運動障害が加わり、特に言語障害は非常に数が多いだけでなく、原因が多岐にわたるため、いろいろな問題が絡んでくることが予測されます。(だからといって、悪いわけではないが)。
 その次に、いよいよ厚生労働省令の規程を読んでみると、実に多様な障害があげられています。なんと心理的発達の障害並びに行動及び情緒の障害があげられているのです。

と、久田氏は、文部科学省特別支援教育課は「『発達障害』の用語の使用について」という通知・厚生労働省令の規程などを読んだ上での解説を書いている。

文部科学省の文章は
 厚生労働省の文章と連動する

この当然といえば、当然であるが窪島氏は、平成19年3月15日に文部科学省特別支援教育課は「『発達障害』の用語の使用について」という通知を読んでも、文部科学省以外の厚生労働省の関係する発達障害者支援法とその関連する文章を読みこなしていたとは考えにくい。
 国・文部科学省・厚生労働省を別の分野として捉えて、考えていたのではないかと考えられる。
 ところが、国の動きや文章などは、各省庁の分担と関連で出されることは常識なのであるが、「教育界」の一部では文部科学省だけで考える傾向が強い。

「多忙化」の
 内容把握しないままの表現


 窪島氏の文章で例をあげてみると、

島根大学教育学部西信高氏の論文から見えてくる滋賀大学教育学部窪島務氏の「旋回方向」(6)で、「学校における教師の多忙化、教育内容の過密と一貫性のなさによる混乱の結果、子どもたちの落ち着きがなくなり、教師もそれに対応する余裕がなくなっているために、これらの子どもの問題行動が吹き出してきたというものである。」と書いていることを紹介した。
 ここで彼が書いている「教師の多忙化」ということばは、ある教職員組合が絶えず使っていることばを使ったにすぎず、彼は何の評価もなしに、教師の多忙化、と肯定的に書いている。
 しかし、労働を管轄する厚生労働省の文章を見ても、厚生労働省の動きと密接な関連がある「労働安全衛生」の分野でもこのようなことばは、使われていない。
 窪島氏が、
「学校における教師の多忙化」
を書くなら、
「いつから学校の教師は多忙になったのか」
「いつ学校の教師は忙しくなかったのか」
を明らかにしなければ教育研究者としての立場で書いているとは考えられないだろう。
 ましてや
「学校における教師の多忙化」
が、
「発達障害児が増えているのかどうかという問題に関しては、3つの可能性が考えられる。」
のうちの一つとしているのだから、多忙でなかった学校が、「多忙化」した時期と発達障害児が増えているのかどうかという問題に関する究明しなければならないだろう。
 少なくとも具体例で述べた養護学級教師の過労自殺などなどの経過や裁判、判決を目にしていたならば、このようなことを書かないはずである。

働く人々と密接不可分な関係
     がある厚生労働省

 この厚生労働省との関連で文部科学省が文章を出しているならば、厚生労働省の文章も読みこなさなければならないだろう。
 だが、窪島氏は、両方の省の文章を読み込んで「発達障害」を論じているとは考えられない。
 なぜなら、彼は、文部科学省の文章に出てくる発達障害者支援法をあげているが、久田氏のように発達障害者支援法関連の厚生労働省令などの障害の規定を読みこなしていれば、縷々引用し
た彼のような「発達障害」の規定が出てこないからである。

厚生労働省と
   切り離せらされない
       障害児・者問題

 もっと分かりやすくいえば、彼は、「発達障害」を他の障害と切り離して書き、「発達障害」を普通校・普通学級のみに限定して書いているところを見れば明らかである。
 客観的に各省庁の文章を読み、論述するより、主観から文部科学省の一文章を読んでいることが明らかになる。

2011年5月6日金曜日

文部科学省などの文章を読みこなせているか   滋賀大学教育学部窪島務氏の「我田引水」(1)


発達障害や学習障害の概念規定は 成り立たない

 窪島氏に文部科学省の打ち出してきた「発達障害」の概念に、「極めて不正確ところがあり、教育をすすめる教師としてはこのような規定の仕方では混乱が生じる。」という意見を出した教師に「そんなことはない。文部科学省の概念規定は極めて正確で、LDやADHDの区分は明確である。」と述べた。
 ことは、すでに掲載してきた。

文部科学省等の通知  などなどを読みこなせない

 窪島氏とのやり取りをした教師は、「窪島氏は、文部科学省等の通知などなどの文章を読みこなせていないのではないか。」という感想を漏らした。
 このようなことを書くと大学教授に失礼だ、と思われる方々がいるかもしれない。
 しかし、文部科学省などの国の文章は、一種独特の表現があり、西氏も指摘しているように「熟読」しないとその概要やねらいは把握できない。
 書かれていることをそのまま受けとめてしまうと、教育現場に大きな混乱を起こす。

最初から崩ていた 「総合的な学習の時間」

 例えば、2000年(平成12年)から「総合的な学習の時間」が出されてきた時もそうである。
文部科学省の各種文章や解説本を読むと「評価なき評価」「総合的に自由な授業の編成」などなども読めた。
 この「総合的な学習の時間」について、高く評価する教師や研究者も多かった。だが、ベテラン教師の中からは、「必須クラブの時間と同じですぐ崩れるだろう。」との意見が出された。
 問題は、学校現場で「総合的な学習の時間」をとりいれた教育課程編成をすすめると、多くの点で問題が生じ、アンバランスが生じた。
 なぜなら、他の教科では評価が雁字搦めに決められているのに「総合的な学習の時間」だけが、評価なき評価にすることは、教育課程の系統性から考えてももともと無理なことであったからである。
 当時の文部科学省の文章を熟読すると、文部科学省内部で「総合的な学習の時間」の創設を否定していることが推定できた。

ベテラン教師は 文部科学省の次を読みとる

 そのことを見越した学校では、2000年(平成12年)から段階的にはじめられる「総合的な学習の時間」がいつでも手直しできるような教育課程編成を行った。
 現在は、「総合的な学習の時間」が当初の意図とはまったく異なって、事実上の教科教育となっているとことがほとんどとなっている。
 これはほんの一例であるが、文部科学省の通達・指示などなどの文章は通常の読み方では、混乱が生じることは文部科学省の文章を熟読している教師としては、常識事項であるとも言える。
 さらに、府県教育委員会や各種伝達講習を聞くとかえって混乱と誤解を招くから、文部科学省の文章を直接読んだほうがポイントをつかめるとするベテラン教師は少なくない。
窪島氏とのやり取りをした教師は、こららのことを承知した上で、窪島氏に質問・意見をしたのである。
 
混乱をまねいた 特別支援教育課の「訂正」

 例えば、西氏も、「奇異な印象」と述べているが「発達障害」の用語の使用についての平成19年3月15日 文部科学省初等中等教育局特別支援教育課の文章を、窪島氏らの「SKC発達障害教育研究所」で、無評価で「学習障害とは?学習障害の概念 文科省の定義」を掲載しているのは、窪島氏が、文部科学省の定義を肯定している現れである。
 だが、特別支援教育課の文章の一行目を読んだだけで、文部科学省の問題点がわかることを窪島氏は読め込めない。

すなわち、

 今般、当課においては、これまでの「LD、ADHD、高機能自閉症等」との表記について、国民のわかりやすさや、他省庁との連携のしやすさ等の理由から、下記のとおり整理した上で、発達障害者支援法の定義による「発達障害」との表記に換えることとしましたのでお知らせします。

と書かれている。
 この意味は、文部科学省が「LD、ADHD、高機能自閉症等」と「等」の表記について、「混乱を招くようなこと」をしていたことを認めた文章なのである。
 文部科学省は、「総合的な学習の時間」の創設については、文部科学省内部でその誤りを認め、その担当者を「更迭」しているにも関わらずそれを表に出していないことからでも解るように、文部科学省は「国民のわかりやすさや、他省庁との連携のしやすさ等の理由」を口実に文部科学省が「混乱を招くようなこと」をしていたことを「改めて」いるのである。





発達障害や学習障害の 概念規定は成り立たない

 それらのことも承知していると考えられるが、群馬大学教育学部久田信行氏は、キッパリと
発達障害や学習障害の概念規定は成り立たない
として、研究した結果を公表し、学会でも報告している。

2011年5月4日水曜日

はたしてどのような教育が「適切」なのか   島根大学教育学部西信高氏の論文から見えてくる滋賀大学教育学部窪島務氏の「旋回方向」(6)















先生の話も子どもの様子も
   じっくり診る西氏

 西氏は、「発達支援」「教育的援助」等々の用語が飛び交いる、として二つの事例をあげているが、以下小学生の子ども記述を見てみる。

 彼は、
 
 ある小学校で、ADHDと診断されている6年生の子どもを見たことがある。
 個別学習の時間で先生と一対一で、おとなしく椅子に座り、熱心にとりくんでいた。
 先生の話では、診断と同時に処方された薬が効いたものと思われるが、劇的に変化した、ということであった。
 それまでは階上から物を投げるなど粗暴で危険な行動が目立ったという。特に厳しい学習面の遅れは指摘できず、ほぼ年齢相応の学力であるという。
 しかしながら授業が進められる中での受け応えをみると、むしろその遅れを感じた。
 かけ算の九九を唱えることができることをもって「この子はかけ算ができる」と見誤ってしまう例は必ずしも少なくない。このかけ算を理解する段階で足踏みしている子どもでさまざまな「問題」行動を起こしている例を多く見ている。
 聴覚障害児の教育において経験的に言われてきた「9歳のかべ」に通ずるものを感じるが、この壁を乗り越えようとするがうまくいかず、その軋轢あるいはストレスが回りの人的関係の中で一種のゆがんだ形で表現されるのが、つまり「注意欠陥」「多動」等々ではなかろうかとの仮説を持っている。

発達の基礎の上に
 子どもの課題を捉える

 つまり、基礎として発達上のつまづきがあり、二次的・副次的な構造をもってこうした「行動障害」が発現するのではなかろうか、ということである。
 かけ算の意味の理解と手法の習熟は9・10歳の発達の一つ内容をなすものであるが、教科書によってはその教授法に「外延量×倍=外延量」を導入している例もある。
 しかし、「倍は、量と量との関係を表すものですから、2年生、3年生には大変高度な概念です。
 だから、累加という方法で理解させようとするのですが、倍と累加が結びついた形では×1と×0が説明がつきません。
 また整数倍の2倍、3倍、……がわかっても1倍、0倍というのは理解できないものです。(中略) そこで私は内包量×外延量=外延量の立場で指導します。」

人間発達を
みとおした問題意識

 かけ算は高等学校段階の微分・積分に通じる入り口となる内容であり、つまりは青年期の発達を自らのものとする一里塚でもあるがゆえに、どの子どもにおいても非常に高いハードルとなって現れるのである。

と書いているが、ここでも西氏と窪島氏の大きな相違が見られる。
ともかく、西氏は、教育実践の行われている場に足蹴く通い、教育実践と子どもや教育のことをよく診ていることが解る。

教育の全体と部分の統一的研究

 さらに、西氏はよく診た上で

「特に厳しい学習面の遅れは指摘できず、ほぼ年齢相応の学力であるという。しかしながら授業が進められる中での受け応えをみると、むしろその遅れを感じた。」

「かけ算は高等学校段階の微分・積分に通じる入り口となる内容であり、つまりは青年期の発達を自らのものとする一里塚でもあるがゆえに、どの子どもにおいても非常に高いハードルとなって現れるのである。」

などのように、ひとりの子どもの状態を把握しつつも教育全体の課題をも見出している。
 この西氏の教育全体と子どもひとりひとりの両側面から把握し、研究することは、当然といえばそれまでであるが、今日の教育状況から考えてそう簡単ではないことが窺える。
 彼の研究は、極めて実践研究である、と言えるが、今日の教育を語る研究者が机上の空論と共に教育の現実を見ない、「ことば遊び」「いわゆるうけねらい」「笑いとり」「その場しのぎの一時的感動を与える講演方法」などなどに終始していることから考えても、教育実践する人々は、もっと西氏の論拠を知り、その具体的提起に注目すべきである。

曖昧さを貫く発達障害児が
     増えているかどうかの論拠

西氏の診方に対して窪島氏は、滋賀大キッズカレッジ「発達障害教育研究所」で、次のような考えを出している。

 発達障害児が増えているのかどうかという問題に関しては、3つの可能性が考えられる。
 「増えているかどうか」という点では、学校で問題となる子どもとしては確実に増えている。
 しかし、それは、元もとそうした子どもはいたのであって、何らかの事情でその子どもたちの問題が表面化しだしたに過ぎない、という議論もある。

として、三点をあげているが、学校に関わる部分は、

 第二に指摘されるのは、学校における教師の多忙化、教育内容の過密と一貫性のなさによる混乱の結果、子どもたちの落ち着きがなくなり、教師もそれに対応する余裕がなくなっているために、これらの子どもの問題行動が吹き出してきたというものである。

としている。ここでも窪島氏は、
1、「学校における教師の多忙化」の原因とその解明
2、「教育内容の過密と一貫性のなさによる混乱の結果、子どもたちの落ち着き  がなくなり」の責任とその原因と解明
3、「教師もそれに対応する余裕がなくなっている」ことへの方策と対応
を述べるのではなく、「あるがまま」書いているだけで、「発達障害児が増えているのかどうかという問題」に対することを曖昧にしているのである。

 何度もくり返すが、窪島氏の考えがあると推定されるのにそれを書かないで、読み手にその解釈を委ねるという手法が使われている。

適切な教育とはなにかを
  鋭く研究しようとする西氏

 西氏は、窪島氏と違う。                  

 彼は、二つの事例をあげて以下のことを論じる。

 「適切な教育」
など、
「適切」ということばが頻出するが、
しかしはたしてどのような教育が「適切」なのか、
この問題が実は核心部分をなしている。

 「適切」を担保する人的条件の整備拡充ということで、文部科学省は2007年度から通級指導担当教員の増員(全国で250人を上回る規模) や、教員志望の大学生を活用する「支援員」制度を導入するなどの施策を講じる。
 しかしながら、たとえばM市の場合、以前から小・中学校に市の独自予算によって特殊学級介助員、特別支援教育指導員、通級指導教室指導員、就学支援専門相談員を配置している。
 制度的には手厚い施策ではあるが、正規採用の教員のほかに、職種や雇用形態、さらには経験や専門性などにおいても多様な関係者が連携を保ちながら、それぞれの子どものニーズの把握にはじまる具体的な「特別支援」をどのように展開していくのか、実践的な課題はなお多く残されている。
 「適切」ということばの響きは望ましく不可欠ではあるが、
 その具体化には、
 教員免許状を所持することの有無は別として、
確かに高度の専門性が要求されるであろう。

と「適切な教育」の内容を論じ、彼の研究をはじめる決意を示している。
 特に、
「適切」ということばの響きは望ましく不可欠ではあるが、その具体化には、教員免許状を所持することの有無は別として、確かに高度の専門性が要求されるであろう。

という提起は、重要な意味を持っている。
 しかし、西氏の提起は、窪島氏が高度な専門性も制度も文化もまったく異なる国からの導入を論じるのとはまったく違う。

日本での教育創造か
  外国からの輸入を適合させる教育か

 西氏は、
 日本の教育の状態や彼が取り組んでいる地域の教育状況から
 提起しているからである。
 解りやすく書けば、
 窪島氏の主張は、「教育の他国からの輸入」
 であるが、
 西氏は、「教育をさらに日本で創造する」
 主張なのである。 

一省の一課が発達障害の概念を指示する「奇異」  島根大学教育学部西信高氏の論文から見えてくる滋賀大学教育学部窪島務氏の「旋回方向」(5)





































学校で日常的に
「ADHD」の
ことばが行き交う

 次に西氏は、「障害の定義と診断」について論じているが、彼が文部科学省等の通達等の引用している部分は、省略して述べる。
 西氏氏は、
 
 すでにみたように、特殊教育から特別支援教育への転換をもたらす契機の一つに、LDやADHDへの対応があった。
 実際、「ADHD」は、学校現場ではごく日常的にこのことばが行き交うほどに急速に普及した用語である。
 そして学校において、多動であったり落ち着きがなかったり、あるいはまた行動が粗暴であったりすると、この子どもはADHDではなかろうかと考え、保護者に医療機関の受診を勧め、そして、ADHDなどの診断名がつくとむしろ「やはり…」と納得する、今やそのような例は珍しくない。

学校の状況を把握している西氏
  教師の意見を無視する窪島氏


 学校の状況を把握している。この点でも、教師が、そのような子どもを放置している、人権蹂躙しているとする窪島氏と対照的な論述をしている。
 西氏が

 時折、障害児学校の教員から、小・中学校の教員は障害児学校についての理解が乏しいとする批判も聞くが、今後はそれは障害児学校側の努力不足によるのであるという点にむしろ重きが置かれることになる。
 また、具体的な授業場面では、一対一かあるいはそれに類似する手厚い教員組織の障害児学校で長年過ごした教員が、一人の担任が複数の障害児と向き合う障害児学級の担任に、あるいは通常学級の担任にいかなる「支援」をおこなうのか。こうした課題がまもなく現実のものとなろうとしているのであるが

と指摘していることはすべに述べた。
 だが、窪島氏は、西氏氏の指摘とは真逆に「一対一か」「あるいはそれに類似する手厚い」対応で接した子どもへの「支援」から「通常学級の担任」に「支援」をおこなうのではない。
  「批判」を行っているところに彼の特徴があり、教育の現場や教師をより深刻に追い込んでいる。
 この点では、窪島氏の「考え」には一貫性が見られる。

発達障害の概念規定に
疑問を発した教師の意見を否定


 窪島氏に文部科学省の打ち出してきた「発達障害」の概念に、
「極めて不正確ところがあり、教育をすすめる教師としてはこのような規定の仕方では混乱が生じる。」
という意見を出した教師に
「そんなことはない。文部科学省の概念規定は極めて正確で、LDやADHDの区分は明確である。」
と述べた。
 だが、質問した教師は、
「LDやADHDの生徒を教室や学校で教育することを考えると、文部科学省の規定では区別出来ない。文章を読んでもLDやADHDの生徒の状態が、重なり合っている部分も多く、現実に生徒と接していて、文部科学省の区別とは違う状況がある。」と言ったところ、窪島氏は、
「そんなことはない。きちんと区別されている。かってないほど文部科学省は適切な規定を出している。」
と言いきり、その教師と決別状況になった。
 そのことを想起して、西氏の論述を読み進めていきたい。

学校の情報提供がなければ
「判断」出来ない基準

 西氏は、2003年3月28日の『今後の特別支援教育の在り方について(最終報告)』の、参考資料の3として「定義と判断基準(試案) 等」。高機能自閉症も含めての「定義、判断基準についての留意事項」などを分析・検討して次のように論じている。

 この基準をみるとき、はたしてどれほどの医学的知識や技能・技術が必要であるのか。否、むしろ学校からの情報提供がなければ「判断」がつかない性質のものも多数である。
 そして、これらの「基準に該当する場合は、教育的、心理学的、医学的な観点からの詳細な調査が必要である」とされる。
 列挙して記述する順番に過度に拘泥することもないが、ここでの順番は、
まず「教育」、となっている。
として、養護学校の義務制実施を控えた前年、1978年(昭和53年) 10月6日付けの文部省初等中等教育局長通達「教育上特別な取り扱いを要する児童・生徒の教育措置について」(分初特第309号)では、本文冒頭に以下のような記述がある。
 第1 教育上特別な取り扱いを要する児童・生徒の教育措置及び心身の故障の判断に当たっての留意事項
 教育上特別な取り扱いを要する児童・生徒の教育措置及び心身の故障の判断に当たっての留意事項は、次に掲げるところによることとし、特に心身の故障の判断に当たっては、医学的、心理学的、教育的な観点から総合的かつ慎重に行い、その適正を期すること
 このように、最近に至るまで医学が筆頭に配置され、教育は最後尾に位置していたのである。
と1978年文部省初等中等教育局長通達と比較・検討する。この点では繰り返し述べてきたが、窪島氏も1978年当時は障害児教育としてさかんに研究していたのに、西氏のように比較検討しないところ、比較しないところに特徴がある。

揺れ動く特別支援の用語

西氏氏は、

 「教育『学』的」となっていない点は教育学がいまだそのレベルにまで達していないという評価の反映であろうが、いずれにせよとりあえずは、むしろ最近注目されているADHD等は教育が一層の重責を担うべき障害であることを示していると理解できる。
 しかしながら、「特別支援」もそうであったが、これらの用語に関してはいまだ流動的な点が多い。
 2007年(平成19年) 3月15日付け文部科学省初等中等教育局特別支援教育課の文書「『発達障害』の用語の使用について」において、以下のように述べられている。
 今般、当課においては、これまでの『LD、ADHD、高機能自閉症等』との表記について、国民のわかりやすさや、他省庁との連携のしやすさ等の理由から、下記のとおり整理した上で、発達障害者支援法の定義による『発達障害』との表記に換えることとしましたのでお知らせします。
        記
1. 今後、当課の文書で使用する用語については、原則として「発達障害」と表記する。
また、その用語の示す障害の範囲は、発達障害者支援法の定義による。
2. 上記1の「発達障害」の範囲は、以前から「LD、ADHD、高機能自閉症等」と表現していた障害の範囲と比較すると、高機能のみならず自閉症全般を含むなどより広いものとなるが、高機能以外の自閉症者については、以前から、また今後とも特別支援教育の対象であることに変化はない。
3. 上記により「発達障害」のある幼児児童生徒は、通常の学級以外にも在籍することとなるが、当該幼児児童生徒が、どの学校種、学級に就学すべきかについては、法令に基づき適切に判断されるべきものである。
4. 「軽度発達障害」の表記は、その意味する範囲が必ずしも明確ではないこと等の理由から、今後当課においては原則として使用しない。
5. 学術的な発達障害と行政政策上の発達障害とは一致しない。また、調査の対象など正確さが求められる場合には、必要に応じて障害種を列記することなどを妨げるものではない。

「一省の一課」の「一片の文書」
が日本の教育を統制

この部分は、窪島氏がさかんに引用する文部科学省の文章であるが、西氏の意見は窪島氏と異なり、次のように問題点を述べる。

 政府の一省の一課が特に第4項や第5項のような内容を一片の文書で処理することに奇異な印象を持つ。
 因みにここで触れられている発達障害者支援法などの定義を挙げておく。
○発達障害者支援法(2004年-平成16年12月10日法律第167号) (抄)
(定義)
第2条この法律において「発達障害」とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう。
( 以下略 )

まさに西氏は、「奇異な印象」と述べているが、この議員立法でつくられた「発達障害者支援法」は、問題が多すぎる。
 窪島氏は、「発達障害」の文部科学省の規定を全面肯定する以前に、発達について随所で発表し、文章も書いている。


その中には、「発達障害」とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害という限定は見受けられない。
 それどころか、発達はすべての人間が関わることであり、障害児はその発達の中でどのような課題を持っているかを書いてもいた。
 それなのに、発達に障害があることを限定することに肯定しているのは、それまでの窪島氏の研究を否定したことにも繋がるのではないか。
 かれは、これら自らの変遷を明らかにしようともしないでいる。


一連の教育改革は政治的意図のもと

 日本の国会で、議員の発案に基づく議員立法と政府提案立法の両者があるが、発達障害者支援法は極めて政治的意図のもとに成立した法律であることは知られている。
愛知教育大学の都築繁幸氏が、「一連の教育改革は、政府の財政改革の一環であり、政治主導によってなされた。」とする根拠もここにもある。