2011年7月11日月曜日

公正ではなく 迅速ではなく 申請させない 公務災害補償


山城貞治( みなさんへの通信 32)
「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)
 政策「労働安全衛生対策について」はどれだけ実現したのか(その13)


労災補償と基本的に異なった制度にされた公務災害補償

 労災保険と基本的に異なった不公正さが、公務災害補償にはある、と書いた。
 労災保険料は、使用者が保険料を労働基準監督署に支払い、その運用で労災補償が行われている。
 もともと、地方公務員も労災保険制度に組み込まれていた。
 しかし、それが意図的に分離されたとき、使用者であるそれぞれの地方公務組織が、労災保険料と同様に地方公務員災害補償の基金に支払い、それが積み立てられ公務災害補償として支払われるようになった。
 
京都府の地方公務員災害補償基金(以下基金)は、
知事部局等、 教育委員会 、 警察本部、大学(府立大学後に法人)、市町村等などを対象とし、

 「地方公共団体の職員が公務災害又は通勤災害を受けた場合に、受けた災害に対する補償を迅速かつ公正に行い、併せて職員の社会復帰の促進、職員及びその遺族の援護、公務上の災害の防止に関する活動に対する援助などの福祉事業を行うことにより、職員及びその遺族の生活の安定と福祉の向上に寄与することを目的とする地方共同法人で、都道府県及び政令市に支部が設置されています。」

とされている。
 しかし、「補償を迅速」「 公正」「公務上の災害の防止に関する活動に対する援助などの福祉事業」などが行われているとはとうてい考えられない事が多すぎす。

 名ばかり「補償を迅速」「 公正」

 府高の「公務災害不認定」で裁判にいたるまででも非常な時間がかかったし、異議申し立てをしても「今は中央レベルで検討しているから答えようがない」など被災している人に対する応えとはとうてい思えない、高圧的な応えがなされてきた。
 そして、公務災害認定裁判を「基金」に対して起こしたが、この対応は、
「職員及びその遺族の生活の安定と福祉の向上に寄与する」
どころから、真っ向から「否定する」態度に出てきた。
 「基金」が不認定のために使った費用は莫大で、弁護士もわざわざ東京から呼ぶなどの公費の無駄使いを行い、教職員を威圧した。
 そればかりではない、京都府の地方公務員災害補償基金の事務局は、知事の直轄である「京都府人事課」におかれ、知事が直接の責任者の下に置かれている。

教職員の人事を長く行った基金京都府支部長が
      「公正」だと言うが

 京都府高が、公務災害の裁判二例を起こしたとき前後の地方公務員災害補償基金京都府支部長は、元教育長であった。
 かれは、教職員人事を長く行い、教職員課長になり、教育長になった人物で、「天下り」で地方公務員災害補償基金京都府支部長になったとさえ言われていた。
 自分が人事を行い、教職員の健康や安全、生命を守る人事をしていないと教職員から批判され続けてきた人物である。
 この人物が、地方公務員災害補償基金京都府支部長になったから、こころを改めて「公務災害認定」を「補償を迅速」「 公正」「公務上の災害の防止に関する活動に対する援助などの福祉事業」などを行うとはとうてい考えられなかった。
 
府高委員長 「京都府支部長」を変更 
      を強く要求したのは当然のことだった


 そのため府高委員長は、京都府知事及び地方公務員災害補償基金京都府支部にたいして、

「京都府支部長」

を変更し、

「府民や誰が見ても、補償を迅速、 公正、公務上の災害の防止に関する活動に対する援助などの福祉事業などを行い、公務上の災害の防止に関する活動に対する援助などの福祉事業」

などを行うようにすべきだと強く申し入れをした。
 だが、京都府知事及び地方公務員災害補償基金京都府支部は、話すらまともに聞こうとしなかったのである。

労働基準監督署は建前は、「第三者機関」とされた組織

 労災補償(労災保険の適用)の窓口は、いろいろ問題があるが、労働基準監督署で建前は、「第三者機関とされ組織的に「公正さ」を保つようにされている。

 しかし、「基金」は、事業者・使用者が公務災害を認めるかどうかの窓口であり、「審査会」はもうけられているものの直接被災した人々の上級管理職とされ、見かけ上も「第三者機関とされ組織的に「公正さ」を保つようになっていないのである。

 「府教委としては関知できない」
    という府教委のウソと証拠隠滅

 府教委は、地方公務員災害補償基金京都府支部が知事部局の「人事課」に置かれていることを理由にして、「府教委としては関知できない」と言い続けた。
 ところが、府高委員長を先頭に労働安全衛生委員会ののメンバーが詳しく調べた結果、教職員の公務災害については「基金」が書類を見るだけではなく、府教委に聴取したり意見を聞いていいることが判明したが、「証拠書類は処分」していた。
 それは、情報公開で公文書の開示請求が出来ることが可能になる前に行っていた。

府高 労働安全衛生政策は
   行政としても通常感覚で対処できるもの

 また地方公務員災害補償基金京都府支部(審査会を含む)には、公正な判断をさせるために教育委員会関係者を加えないなどをはじめ、不当な制度を改めさせる。
(9)公務災害は、本人申請を妨害することなく、管理職が責任と役割を持って公正に対処させる。
 また公務災害の手続きを簡素化し、認定時期をいたずらにのばすことなく早急に手だてを打つこと、実態に応じて現行法制度にない災害でも救済措置をとることを要求する。民間の労働災害がすでに適用されているケースは、無条件で公務災害を適用すること。
 また公務災害適用後も本人救済、健康管理、リハビリなどの援助措置を行い、府教委としての責任を果たさせる。

だからこそ、以上の労働安全衛生政策は重要な意味を持っていた。

 部分でには改善され、地方公務員災害補償基金京都府支部の高圧的態度は少なくなってきたが、基本的な改善はまだなされていない。

公務災害申請を大量に
  金庫に隠した校長の行動の行方

 近畿のある県では、公務災害申請をした教職員がいつまで待っても「認定の可否」が通知されないので、校長に聞きにい言ったが、「中央の地方公務員災害補償基金本部待ち」と言い続けた。
 実際には校長が、「公務災害申請書」を校長室の金庫に大量に隠して、申請手続きをしていなかったことが発覚した事があった。

 公務災害申請、認定はおよそ「公正」「迅速」な組織になっていないばかりか、申請前に「潰される」事があまりもい多い。

2011年7月10日日曜日

教職員には 教育上の事があり 公務災害申請を出しにくい制度にされている 申請をすれば膨大な数にもなるだろう


山城貞治(みなさんへの通信32)

「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)
 政策「労働安全衛生対策について」はどれだけ実現したのか(その13)

1998年12月「教職員のいのちと健康」
      公務災害申請顛末記( ひとまづ 完 )

痛いめをしただけで終わるのは癪

 「公務災害補償のしおり」にある「医療機関へのお願い」のところに、「すでに共済組合員証を使用した場合」の説明もあるのでそこを示し、医院から基金支部に問い合わせてもらうことにして「補償のしおり」ごと預けて帰ってくる。
 翌12月25日夕方に証明ができたという電話が医院からあった。翌日に取りに行くことにした。
 「顛末記」を書き出した手前、年内に済ませておきたかった。
 また、私と同じころに、すでに書いたもう一人の先生も公務災害認定がなされた。          
 僕が公務災害認定を申請する気になったのは、痛いめをしただけで終わるのは癪だったこともあるが、公務災害認定を申請することを通して問題を投げかけ、今後の労働安全衛生につながることがあればいいという気持ちもあった。
 その点、いち早く生徒部長が職員会議で事故の経過を説明し、

「学校施設の全日制・定時制の使い回しの基本にかかわることの検討をする」

と見解を明らかにしたのは、僕としてもありがたかった。

 それに続いて学校長も、事故の謝罪と、二度と同様の事故が起こらない努力をすること、定時制の教育活動に支障がないようにすることの表明があったので、まあ、一歩前進だといえる。
 そのため、職員室に掲示板が新設され、全日制と定時制が連絡を取り合い、全日制の予定が書かれるようになった。
 例えばこんなふうに。
「○月○日○曜日に卓球の公立高校大会が本校で実施されます。本校体育館を終日使用しますのでご了解下さい。」
                                   
同期採用の先生が 奇跡的に助かったが  せつない

 昨年末から今年の1999年にかけて、脳溢血で二人の教職員が倒れたと聞く。
  一人は現職死亡。
 もう一人は僕と同期の採用の先生だが、集中治療室からやっと一般病棟へ移れたそうである。
 風呂に入っていて無意識のうちに風呂の栓を抜いていて、家族があまりにも長い風呂なので見に行くと風呂がまの中で意識を失っていた。
 救急病院、集中治療、リハビリ。どうなることか心配である。
 倒れたのは冬期休暇に入ってからでも、その原因は、毎日の過酷な勤務の実態を無視しては考えられない。
 奇跡的に助かったと本人は言っていたが、真面目な彼が言うとよけいに切なくなる。

 僕のように原因がはっきりした事故でも、組合や職場の仲間が支援をしてくれていることがわかるから、安心して認定請求ができるのである。
 それでも結構面倒な事が出て来る。
 まして、脳溢血のように因果関係を争わねばならないことになると、府高本部・分会の支えはもっと必要である。
 府高のO先生、N先生が公務災害不認定の決定を受け、再審査の請求も却下され、裁判で闘っている事など知っていたので、これはもう、大変な事である。
                                   
痛みに対する補償もなく
    6,670円の公務災害補償とは

 僕は、最初、公務災害申請をする手順を書き留めておくことも意義があると思って書き出した。
 ところが、今までの報告のような面倒なことをこなしてきて、僕に支払われるのは、診療費と診断書料だけ、合わせて6,670円である。

 こんなに面倒なことをしてきて、痛みに対する補償は何もないのである。
 それでも、思いがけない危険が明らかになり、職場で安全に気をつけようという動きが出てきたことに満足できる。
 O先生やN先生が、裁判闘争にまで踏み出せたのは、自分のことに加えて、今後職場で同じような苦しみをする人が出ないようにという願いがあったからだと心の底から思う。

公務災害申請請求に詳しい人をつくることより
          公務災害を出さない職場にしてこそ


 結局、職場に公務災害申請請求に詳しい人をつくることが大切なのではなくて、公務災害を出さない職場にしていくことが大切であるとつくづく思った。

 先般、府高から全組合員に配られた『学校がよみがえる労働安全衛生』(文理閣)には、そのような立場から基本的な考え方や問題提起がされている。
 みんなが読み、できれば分会単位で学習会の工夫をしていくことが大切なのではないだろうか。
 いや、すべての教職員にも読んでほしい。

残るのは  公務災害補償制度への腹立ち

 公務災害認定の申請をし、認められて残るのは喜びではなく、むしろ公務災害補償制度の不十分さから来る腹立ちが残る。
 面倒な手続きは、認定請求を抑えるためのものだと思えてくる。
 公務災害が認定されたときに手わたされた「公務災害 通勤災害 補償のしおり」には、「治ゆの報告」などの項目に
「認定された傷病が『治ゆ報告』を所属長の認定を得て速やかに提出してください。(この報告には、診断書を添付する必要はありません。)傷病が治ゆした場合には、基金の療養補償は終了」
などと書かれている。
 公務災害を受けるときは、手間な手続きをしなければならないのに、
本人が補償を受けないという状況になった場合は、本人の報告書一枚ですむ。

 ところが、基金の思いとは別に本人が治療を引き続き受ける場合は、さらに多くの証明が必要になり、
本人が引き続き治療をすすめようとしても認められないこともあることが書かれている。
 ようするに、公務災害を「認めてやっている」と言わんばかりの公務災害制度になっているように思えてならない。
 公務災害認定に詳しくなった知識は二度と使わずにすむことを願っている。
 私の立て替えた、これだけでいいのだろうかと、つくづく思う、6,670円は(1999年1月20日段階で)、まだ僕の手元には帰ってきていない。

「治ゆ」とは、どんなことを言うのか疑問

公務災害申請顛末記には、「軽傷だとされる労働災害」でも、これだけの問題がある。
 彼が、「治ゆ」したとは、書かれた段階では解らない。また補償の金額を見て、これだけ努力して申請したのに「補償はたったこれだけ。」と驚く同僚も多かった。

労働安全衛生対策について
(8)公務災害を取り扱う、地方公務員災害補償基金京都府支部などの諸制度を基本的に改善させる。


には、手続きの簡略化と被災者や遺族の負担をなくし、事業者責任ですべきと言う意味もあった。

手続きの簡略化と被災者や遺族の負担をなくせ

 渡された書類を見て、すらすら書ける教職員はいないだろう。
 非常に複雑で、何を、ドノヨウに書いたらいいのかも解りづらい。
 事務部長も「こんな大変な手続きを学校でするようにすることに矛盾を感じる。」と言うほどだった。
 その事務部長も書類作成・公務員災害補償基金のやりとりで休日返上、残業をしていた。
 公務員災害補償基金は、災害補償請求をしにくくしているのである。

公務災害申請をすると
保護者・生徒・教職員の対立が増大するシステム

 さらに今回のような場合は、第三者被害と言って加害者が特定できる場合は、加害者に公務員災害補償基金が災害補償金額を請求することになっている。
 加害者。
 それは生徒である。そうなると、生徒と保護者と被災者の間でしばしば対立と争いが起きる。
 金額が多ければ多いほど、そのもめ事は増大し、生徒と教師、教師間の対立へと広がる。
 だから教職員が公務災害申請をあきらめることが非常に多すぎるのである。
 今回の場合は、「第三者被害請求をするな」と公務員災害補償基金に申し入れをした。
 このことがあるから、生徒や保護者からの暴力や被害を受けた教職員が公務災害申請をしない場合が非常に多い。もし申請していたら数千件どころではないほどである。
 教育という状況は、公務災害補償には加味されていない。

 さらに、労災保険と基本的に異なった不公正さが、公務災害補償にはある。

2011年7月9日土曜日

手間・時間・複雑な手続きの上に まだ手続きが必要な公務災害申請 管理職も 申請方法など 具体的なことは何も知らない中で


山城貞治(みなさんへの通信32)

「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)

1998年12月「教職員のいのちと健康」
                                              公務災害申請顛末記(2)

『学校がよみがえる労働安全衛生』を読み直して反省

 我が職場には、府高の労働安全対策委員会の委員長が勤務しているから、聞きつけた彼が、すぐ分会役員に呼びかけ管理職に交渉したものと思う。
 学校へ帰ると、教頭が、診断の結果を聞きにきた。僕は「二日後に再診だということですが、異常は無いようです」と答え、クラスの試合がある間、そばにいて応援をしたり選手交代の指示をしていた。
 瞳孔は開いたままだから、焦点が合わず、照明灯はキラキラ光り、試合が終わるころには頭痛が激しくなった。
                                   
 府高から組合員に配られた『学校がよみがえる労働安全衛生』(文理閣)には、次のような記述がある。

「第一に、事業者は労働者が安全で健康で働くことを確保しなければなりませんから、ケガが治っていない人、病者や不健康な人を働かせてはなりません。 体調の悪い人も放置してはいけないし、母体をそこなうおそれのある人も同様です。また、ケガや病気をした人が再発しないように気をつける義務があります。
 労働者は自分の健康状態を事業者に申告し、適当な措置を行わせる権利があります。配転時や特別な責任のある仕事への配置のときの配慮は、とくに必要です。
 第二に、労働者はケガや病気の発生防止のための最低基準を事業者に守らせるだけでなく、快適な職場環境を要求する権利を有しています。」

 今になって思うと、医院に行く前にまずすべきことは、校長、または教頭に連絡し、まだ続いている危険な状態を解消するためにクラブを止めさせることと、僕が眼科医へ行くためと、その後の体制を作るために、労働安全衛生に責任を持つ管理職として対応させることであった。     

素早く動いた分会 質問状 
            府高委員長からの見舞い

 僕が怪我をした翌日(18日)は、体育祭2日目であったが、わが職場勤務の分会役員が相談のうえ、学校長に対し、分会委員会として質問状を提出した。
 本来、分会長名で出すものだが、自分のことは言いにくいだろうということで、分会委員会名とし、副分会長、書記長を中心に、役員のみんなが、学校長と話し合ってくれた。
 その質問状は以下のとおりである。
 
   茶谷茶山先生の労働災害に関する質問 
                                                  
 去る9月17日(木)、体育祭を準備していた茶谷茶山先生がボールを顔面にうけ負傷するという労働災害を受けました。そのことに関して、以下数点にわたり質問しますので、早急に文書でお答えくださるよう申し入れます。 
1 茶谷茶山先生の労働災害は、明らかに公務災害として処置されるべきものと考えますが、その点についての管理職の考えはどのようなものであるか。    
2 茶谷茶山先生の労働災害時、本人への救急措置、緊急医療のための手だておよび二次災害の予防の措置を、管理職としてどのように講じられたのか。
 また、本人が治療に専念するための校務代行などの措置を管理職としてどのように講じられたのか。   

3 今回の労働災害の原因についての認識、および今後、教職員への安全配慮についてはどのようなお考えをもっておられるのか。                                    
     
 僕としては、質問状の2の項目について、眼科医から帰ってからすすんで勤務に復帰していたのだから、傍腹痛い思いがないではなかった。
 しかし、考えてみると、薬で左目の瞳孔が開いたまま片目状態になっている者を球技をしている場で勤務させることは、引用した『学校がよみがえる労働安全衛生』(文理閣)の記述からしても、管理職の責任が問われていることになる。
 質問状の3項目を納得し、分会役員の皆さんに提出してもらうことにした。
 実は、体育祭当日もう一人怪我をした人があった。
 クラス指導をしていた担任の先生が、足の腱を痛め、通院されていた。
 その先生は、組合員ではないので、分会の質問状では触れなかったのだが、僕と同様、公務災害として処置すべきであることを口頭で伝えてもらっていた。
 当日の申し入れに加えて、分会が府高本部へ「いのちと健康緊急報告書」を事故当日に送っていたことや、質問状を提出し、学校長に素早く基本的な考えを示してきたことが、管理職の誠意ある対応を引き出していったのだと思う。
 質問状提出後に、学校長から謝罪があり、公務災害の手続きを進めるよう教頭に話していること、今後同様の事故がないようにしたいと思っていることが僕に伝えられた。
 また、「報告書」を読んだ府高委員長から見舞いの電話があった。

公務災害の申請は初めてなので、と管理職

 その後、教頭に会うと、「私も公務災害の申請は初めてなので……、今、事務で調べてもらっているので、書類はもう少し待ってほしい」という話であった。

 このことから考えても、大方の職場では、管理職に労働安全衛生の知識があって、公務災害の手続きが自動的に進めてもらえるとは、必ずしも期待できないということだろう。
 やはり、本人の意志と、職場が素早く支援体制を組むことが大切だと思う。
 結局、公務災害認定請求用紙ほか、書類の一式を受け取ったのは9月22日のことであった。
 ここで、教頭へ提出した28日までの動きを紹介しておく。
 
19日(土)
・午前中眼科医で再検査(異常なし、点眼は3日続ける)。
・ 眼科医で改めて公務災害の申請をすることを伝える。申請が認可された時点で処理をするから一応共済保険による支払いをするようにとのこと。   
・ 学校に寄り学校長に再検査の結果を伝える。
     学校長より今日の夜の勤務は振り替えるとのこと。              
20日(日) 
・ 定時制通信制総合体育大会のため仕事。
21日(月) 
・定時制通信制総合体育大会の代休
22日(火) 
・僕の話により、教頭より申請書類ほかを受け取る。この日は台風8号により臨時休校となったので、早速書類の下書きを始める。
23日(水) 祝日
24日(木)                             
25日(金) 
・ 臨時職員会議、生徒部長より「体育祭準備中の事故について」の見解表明がある。                     
26日(土) 休日                          
27日(日) 休日                          
28日(月) 
・ 公務災害認定請求書を教頭へ提出。

 以上のように、休日をはさんでいるとはいえ、提出にこぎ着けたのは事故から11日後である。
 書類を受け取った22日からの僕の行動、職場の動きを次号で紹介していきたい。

公務災害認定請求書の手続きは
  大変ややこしくて手間と時間ががかかる


 僕のように勤務時間中の公務災害の場合、申請に必要な書類は、
①「公務災害認定請求書」と添付書類として、
②「診断書」 ③「現認書又は事実証明書」 ④「現場見取り図及び被災状況図」の4つで、必要に応じて、⑤「所属長意見書」を添付するとされている。
1988年9月22日に教頭より受け取った書類は、上記の5つ全部と①~④の記載例を書いたもののコピーであった。
 「所属長意見書」や「診断書」や「現認書又は事実証明書」まで渡されたのだが、僕はいつから所属長になったのだろうかと、一瞬思った。
 それまで渡すところ、いかにも初めて対応(?)する教頭らしい。
 でも、書類の表記を読んでいないことは、間違いない。

 早速、僕は記載例のコピーを参考に書き始めたが、ここで詳しい人にアドバイスを受けておいた方がよかったと思っている。
 共済(健康保険)で支払を済ませていることなどは、教頭から伝わっていなかったことが後になってわかる。
                                   
 ともかく、僕が書くのは①「公務災害認定請求書」と②「現場見取り図及び被災状況図」の2つである。「その二」でも書いたように、書類を受け取った9月22日は台風8号により、臨時休校となった日であったので、たっぷり時間があった。
 災害発生の状況や現場見取り図や被災状況図は、まとまった時間が取れないと書けないものだ。
 僕の場合も下書きをするのに、集中して1時間は要したから、「授業の合間を積み重ねて」というようなことはとてもできない。
 被災状況図など、絵心のない僕には苦痛そのものである。自画像はどんな表情にしたらいいのかなどと考えてしまうが、考えても腕の方がついていかないので、結局針金人間で描いてしまった。
 清書して教頭に提出したのは9月28日(月)であった。
 
どうなったのだろうか
 「現認書又は事実確認書」を管理職が認めなかったら


 「『現認書又は事実確認書』は教頭先生の方でお願いします」と言ったのだが、もしこれが、管理職が認ないケースだったら、事実を証明してくれる人を自分でさがさなくてはならなかった。
 10月7日(水)の午前中(定時制では勤務時間外のことであった)に、教頭より「あと診断書をつければすべての書類がそろう」との電話があった。
 その日は、勤務するまでに予定があったので、そんな話をすると、「僕の方でもらってきましょう」と教頭が言ってくれた。
 地方公務員災害補償基金京都支部へは、その直後に認定請求書が提出されたものと思う。
 災害発生の9月17日から、ちょうど3週間後であった。
 
公務災害認定が遅い、と思うのに これは早いとは……

 12月15日(火)に「公務災害認定」の書類を教頭より受け取った。
 12月4日付けの文書で、「平成10年10月8日付けをもって認定請求のあった下記の災害については、地方公務員災害補償法の規定に基づき、審査の結果、公務上の災害と認定したので、通知します」として、氏名、発生日時、傷病名などが書かれてある。
 請求から約2か月足らずで認定された。「これは早い」との、公務災害のことをよく知っている分会の労働安全衛生担当者から聞かされたのでおどろいた。
 僕としては、忘れたころの認定で、長かったという思いがあったので、何人かに聞いたところでは、「他の事例に比べたら早い」という意見が多かった。分会・職場で原則的な対応をして、管理職も公務災害と認めて進められたからだろうか。

公務災害認定されてからの手続きも大変

 認定後にすることは、「医療補償請求書」を提出するのだが、何しろ受け取ったのが12月15日である。
 テストの採点や成績表の提出、通知表をつけて発送という学期末の仕事をどうしても優先せざるを得なかった。
 一緒にもらった地方公務員災害補償基金京都支部「公務災害 通勤災害 補償のしおり」や請求書の記載項目をゆっくり見たのは、通知表の発送をすませた21日(月)の夜であった。
 書き出すと、診断書料の請求をどこに書いたらいいのかわからない。
 教頭に聞いてもわからず事務の人に聞くことにしたが、担当は全日制の事務職員だから夜はいない。結局年休にしていた24日に学校に行くことにした。
 24日に書き上げ、眼科医院へ請求額の証明をもらいにいった。

 ここでもまた、「公務員の災害補償請求をするのは初めてなので」という答えが返ってきた。
 事故が起きて治療をしてもらった時に「公務災害認定の請求をします」と伝えたのだが、「認定が下りたら処理しますので、一応共済で支払って下さい」と言った人である。
                                                                                                                                   (  つづく  )

公立学校の教職員の労働災害は 公務災害認定  だけでなく 労災認定 の二つであることが忘れられている


山城貞治(みなさんへの通信31)

「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)
 政策「労働安全衛生対策について」はどれだけ実現したのか(その12)

労働安全衛生対策について
(8)公務災害を取り扱う、地方公務員災害補償基金京都府支部などの諸制度を基本的に改善させる。また地方公務員災害補償基金京都府支部(審査会を含む)には、公正な判断をさせるために教育委員会関係者を加えないなどをはじめ、不当な制度を改めさせる。
(9)公務災害は、本人申請を妨害することなく、管理職が責任と役割を持って公正に対処させる。また公務災害の手続きを簡素化し、認定時期をいたずらにのばすことなく早急に手だてを打つこと、実態に応じて現行法制度にない災害でも救済措置をとることを要求する。民間の労働災害がすでに適用されているケースは、無条件で公務災害を適用すること。
 また公務災害適用後も本人救済、健康管理、リハビリなどの援助措置を行い、府教委としての責任を果たさせる。


について、当時、京都府高は養護学校の教諭のけいわん・腰痛公務災害認定をめぐって、裁判を行っていた。
 前者は、1999年7月9日京都地裁で全面勝利、後者は1999年12月8日京都地裁で全面勝利を勝ち取ることになるが、京都府高としても大変な取り組みをしたが多くの問題も残す結果になった。

公務災害認定の勝利の喜びよりも
           その教訓が生かされる喜びに

 当時の府高委員長は、

「裁判までに至る経過、裁判闘争、公務災害認定を勝ち取る一心での取り組み、。裁判勝利。その喜び。
 で終わっていたが、問題はその後だった。
 公務災害認定を裁判で勝利しても府教委は何の関心も示さない。
 裁判に負けた事すら知らないで、そのことを言うと、負けたのは公務災害支払基金であって府教委は関係ない、という。
 これでは裁判の勝利の意味が生きて来ない。
 公務災害認定を勝ち取るための膨大な時間と苦労と汗と涙とその費用。
 それらを度外視しても、裁判の結果を教職員のいのちと健康に生かし続けないと公務災害を防ぐことが出来ない。」

と決意を新たにして公務災害制度の問題点とその改善方法のみならず、臨時教職員の労働災害を労働安全衛生委員と共に調べに回る。

府教委は労災保険料をごまかして
支払っているのではないか 労働局は甘すぎる

 そこで、定数内や常勤の教職員以外の臨時教職員は、京都府教委があらかじめ予測した京都府下の義務教育学校と府立学校の臨時教職員の労災保険料を京都労働局(かっては労働基準局という名称であった。)に支払っていることが判明した。

 そのため、京都労働局の幹部に会って、府教委が4月当初、労災保険料を何人分払っているかと質問した。
 すると労働局は「ほぼ毎年500人ぐらいですね。」という答えだったので、府高委員長は、
「京教組調べでも京都府下で労災保険の対象になる教職員は、6000人を超えている。労働局は労災保険の未納を問題にしているときに府教委への対応は甘いのではないか。」
と言うと労働局の担当者は黙るだけだった。

 帰路。府高委員長は、教職員の職場は「公務災害だけを問題にしてはいけない。公務災害・労災の二つだ。」と言い続けた。
 その時から上記の労働安全衛生政策の具体化が一層加速するが、その前後、例え軽傷であっても公務災害認定には多くの問題があると府高の茶谷茶山さんから投稿依頼があった。
 そのため労働安全衛生対策委員会ニュース「教職員のいのちと健康」に掲載したが、長文になるので分割して掲載する。

公務災害申請顛末記の投稿で
  さらに明らかになった公務災害の問題

1998年12月「教職員のいのちと健康」 公務災害申請顛末記

 9月28日、「公務災害認定請求書」を教頭へ提出した。
 まさか自分が公務災害を受けるとは思ってもいなかった。だから、被災直後からの僕の行動を振り返ってみると、「まずい対応をしていたな」と思うところがある。
 それは、労働安全衛生にかかわる基礎知識に照らしてということであるのだが、知識のあるなしではなく、むしろセンスとでも言っていいような、事態に直面して、とっさのときにとっている行動に現れてくることについての思いなのである。
 今、振り返り、これまでに公務災害の認定請求をした人も、おそらく僕のような少々まずい対応も含みながら、周りの人達の協力も得て、請求を行ってきたのではないだろうか……とも思った。

突然に自分がそんな事態に立っと

 今後、公務災害の認定請求をすることになる人だって、知識も心の準備も整えて、などということはないだろう。
 たいがい、突然に自分がそんな事態に立っているのである。
 こう考えると、僕のまずい対応も含めて、報告をしておくことは意味のあることだと思えてきた。
 僕は今、職場の皆さんに推されて分会長をしている。職場要求のための校長交渉に備えて少しは勉強もしてきたつもりだが、いざ自分のことになると、周りの人の助けも助言も必要であったのである。
 そのへんのところも恥を隠さず綴ってみたいと思っている。
 
生徒が蹴ったボールが眼球に直撃

 9月17日は、定時制の体育祭であった。
 この日は、グランドでラケットベースボールをすることになっており、4時から教職員で4面のコートを描くための作業に入った。
 このような行事のときは、全日制・定時制の生徒部が自主的に連絡を取り合い、関係のクラブの練習はグランドから切り上げることになっていた。
 ところがこの日は、全日制のあるクラブから試合が近いため、練習の延長要請があり、定時制生徒部は、支障のない場所での延長練習を認める回答をしていた。
 しかし、全教職員にその連絡が十分ではなかったため、僕は「あえて止めさせんと」と思いながら描けたダイヤモンドにトンボをかけていた。
 その時のことだった。生徒が蹴ったボールが直撃した。
 眼鏡がふっ飛んでボールが左目に当たったのであるが、不思議なことに眼鏡は無傷であった。
 僕は頭がボーッとした状態のまましばらく立っていた。
 気がつくと、誰かが「大丈夫ですか」と声をかけて眼鏡を渡してくれたのであるが、それが誰だったのかは覚えていない。
 保健室に行くよう促してくれた人があって歩き出したのであるが、それも誰だったか思い出せない。
 ともかく自分でその場を離れ、水道で目を洗ってから保健室へ行った。
 
公務災害の申請をした方がいい、と言われて
                                   
 保健室には、養護の先生と保健部長さんがいた。
 養護の先生は、すぐに目の洗浄をし眼球に傷がないかを見てくれた。
 傷は無いように思うが眼科医に診てもらった方がいいということで、保健部長さんが車を出してくれて、養護の先生がつき添ってくれた。
 出発前、僕は、車を出すのを待ってもらって、同じ学年の先生と生徒部の先生に、当日の体育祭の自分のクラスの準備と段取りを依頼している。怪我で職場を離れるとき、第一にしておかねばならないと思ったのはこのことだったのである。

 眼科医の診断の結果は、充血は眼球の圧迫によるもので傷は無いだろうとのこと。
 僕のように強度の近視は網膜剥離を起こしやすいからその検査もしておくとのことで、薬で瞳孔を目一杯広げ、中を診てもらった。「網膜も異常ない」ということで一応安心はしたが、二日後に再診をするということだった。
ある先生から「仕事中のことだから公務災害の申請をした方がいい」と言われていたので、医院にはその旨を告げて帰った。
                                                                           ( つづく )

2011年7月8日金曜日

複雑にして 病気や職業病の教職員を追い込む仕組みが強められ それと闘わなくなった教職員組合のため 泣き寝入りして退職する教職員が


山城貞治(みなさんへの通信31)

「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)
 政策「労働安全衛生対策について」はどれだけ実現したのか(その12)


(7)京都府公立学校教職員疾病審査会の全容(構成メンバーも含む)を明らかにし、今日までの取り組み状況を報告するよう要求する。同時に審査会そのものを根本的に改めるよう要求する。
 当面、組合代表の審査会への参加や組合の推薦する複数の医師を入れさせる。
 休職から職場復帰した教職員には、リハビリ勤務をはじめきめの細かい対策をおこうなう。なお、職場復帰やリハビリ勤務については、教職員の主治医の意見を尊重し、本人、主治医、産業医、府教委・学校、組合の合意を前提とする。


民主的、かつ能率的に処理の目的と裏腹な疾病審査会

 京都府公立学校教職員疾病審査会は、「公立学校教職員(以下「教職員」という。)の結核以外の疾病に関する事務を民主的、かつ能率的に処理するために必要な内部組織を定めることを目的とする。」とされているが、
 その審査会の仕事は、教職員の

(1) 休職、復職の適否および事後処置に関すること。
(2) あらたに採用しようとする者の疾病についての適否に関すること。
(3) その他保健衛生に関すること。

であるが、このことに関して実に不可解な決定がされることが多くあった。

非公開 問答無用と言ってもいいような扱い

 「事務を民主的、かつ能率的に処理する」とされているが、あくまでも書類選考で
「休職が認められない教職員」さらに「休職していても職場復帰が認められない教職員」「不採用にされた人」
などなど、審査会の内容は非公開で、本人意見や本人に直接説明するなど「インフォームドコンセプト」はなかった。

なぜ主治医の意見を尊重しないで
 国立・公立病院の医師証明がいるのか

 また、医師の意見書や証明は主治医だけではなく、「国立・府立病院などの公立病院の医師」の意見書や証明の二つがないとされていた。

 一つの例をあげると、ある開業医が出した意見書ではダメダとされた教職員が相談に行くと、その開業医は公立病院でも働いていたので、わざわざその病院に行って意見書を書いてもらった。
 そうすると、同じ医師なので他の医師の意見書をもらうようにと審査会から教職員へ連絡があった。
 医師も
「何のために、国立・府立病院などの公立病院の医師の意見書がいるのか解らない。」
「公立病院なら患者をひいきしない、とでも言いたいのか。」
「主治医だからこそよく患者の病状が解るのに」
と言った事例がある。
 ともかく、審査会が、「休職」「復帰」「不採用」を決め、その理由や内容を本人に知らせないという問題があまりにも多すぎた。

なぜ 専門主治医の意見を尊重しないのか

  「教職員の主治医の意見を尊重」するのは当然のことであるが、それすらもされていない。
 そのため「休職」「復帰」が認められずに退職した教職員は少なくない。
 また不採用になった人数も公表されていない。

国立・府立病院などの公立病院は
    ほとんどなく 法人化しているのに

 3年前に再雇用を願い出た教職員に「国立・府立病院などの公立病院」で健康診断を受けるようにと審査会から連絡があった。

 そのため「国立・府立病院などの公立病院で健康診断をしている病院を教えてください。」と審査会に問い合わせたところ審査会は、答えられなかったと言う事実がある。
 ほとんどが独立法人化していたことを承知しないで、審査会の規則を変えていなかったためである。

どこかの病院でも結構です、と審査会

 結果的に「どこかの病院でも結構です。」という連絡がなされたが、それでは、今までの主治医と「国立・府立病院などの公立病院の医師」の二つの意見書や証明が必要だったのは、何の意味があったのか。
 またそのことで「休職」「復帰」が認められずに退職、不採用になった人々のことを考えると京都府公立学校教職員疾病審査会の決めることは、府教委の意向に沿った不公正非民主的であったことが推測される。
 これらの事は、改善されていない。

労働安全衛生政策を出したときより一層悪化したのに
 近年、以前のように強く教職員組合が追求しなくなった


 それどころか、公務災害と関わって不認定で争いになった場合や裁判で争うことになった場合に教職員は病休も認められず、休職も認められず、退職して公務災害認定を争わなければならないという深刻な状況に追い込まれる仕組みが強められている。

 職業病なのに、退職で終わり。

とされる既成事実の仕組みが作られているが、これらの行政組織対応があまりにも複雑で、煩瑣であるため問題解明と改善が強められていない。
 特に、この問題について、近年、教職員組合が学習・熟知して、要求したり、府教委・審査会を追求しなくなったため「泣き寝入り」する教職員は少なくない。

 非常に残念である。

金よりいのち優先と 高塚高校女生徒校門圧死事件を防ぐ ひとつであった門扉の安全対策


山城貞治(みなさんへの通信30)
「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)
 政策「労働安全衛生対策について」はどれだけ実現したのか(その11)


労働安全衛生対策について
(6)安全衛生教育は、憲法と労働基準法・労働安全衛生法にもとづき「その最低基準」を教えるのではなく、その最低基準を上回る方向を教えること。
 また講師などは、組合との合意にもとづき選定し、使用者側の一方的な教育にならないように要求する。労働安全衛生に対する理解や意見の違いがある場合は、両方の講師を迎え安全衛生教育をすすめるよう要求する。

 このことは、いまだ府教委は実施していない。

生徒のためにも
 教職員のためにも  安全対策をと言い続けたが

 安全衛生教育は、「子どもの安全を守るため」にも「教職員の安全を守るため」にも重要な課題であると労働安全衛生対策委員会ニュース「教職員のいのちと健康」NO1(1997年7月8日)からも幾度も取り上げてきた。

 また、府高の要求でも幾度も主張したが、府教委はまったく受け入れようともしなかった。
  1997年7月8日以降でも、学校の安全問題や安全対策の不備が多くの問題を起こし、尊い人命が多く失われた。
 そのため、2009年(平成21年)4月1日、国・文部科学省は、学校保健法の名称を学校保健安全法に改題し、学校における安全管理に関する条項が加えられた。

金がかかる安全対策はしない府教委 いのちの大切さは

 学校が安全な環境になっていない、安全にすべきだと言うことは早くから府高労働安全衛生対策委員会は取り上げ、10年間で数え切れない程の学校安全対策を具体的に実現してきた。
 しかし、このことは、人間が学ぶ場で最も基本的で常識的な事なのだが、今だ、採用時の安全衛生教育も通常の安全衛生教育も行わない府教委は、安全軽視どころか、命の軽視をしていると言われても仕方がないことだろう。

 注意事項や情報や地域の協力による安全対策は、幾度となく強調しているが、学校現場からあがる安全対策は費用がかかるとしてことごとく退けられてきた。

神戸高塚高校女生徒校門圧死事件を
労働安全衛生法の安全対策から考えても
     との指摘を受けて

 京教組養護教員部で話し合いが積み重ねられ、1990年に細川汀先生と垰田和史先生に講演をしてもらい、学習してそれを「教職員のための労働安全衛生入門」として、自主出版したことがことのはじまりだった、とすでに書いてきた。

 この時、細川汀先生と垰田和史先生からは提起されたのは、神戸高塚高校女生徒校門圧死事件(教師がが遅刻を取り締まることを目的で、登校門限時刻に校門を閉鎖しようとした時、門限間際に校門をくぐろうとした女子生徒が門扉にはさまれ、死亡した事件)のことだった。
 生徒指導、教師のこと、学校の事はあるが、
「なぜ、あの門扉はあれだけの重量にしなければいけなかったのか。非常に重い門扉を加速させるとどうなるのかは解るはず。
 学校の門扉は、あんなに重いのか?なぜなの?軽量な門扉だったら女生徒は圧死しなくてすんだのに。」

と言われた教師が、自分の学校の門扉を調べたら開閉がままならないほどの重量だった。

工場、会社の門扉を調べて学校の門扉の改善を要求

 そこで、周辺の大工場の門扉を調べたら軽量金属門扉だったので、工場の人に聞くと、

「軽いので開閉には使いやすいし、アア見えても丈夫で、簡単に潰れないんですよ。泥棒が入って来ようとしても簡単に壊せませんよ。」

と言われた。

校長・事務部長は理解したが
      府教委は聞こうともしなかった

 そこで学校に帰って、校長・事務部長に門扉を代えるように言ったところ一笑に付された。
 でも、高塚高校のことを例にあげて、説明すると校長・事務部長はそれなりに理解して、府教委に行き門扉の全面入れ替えの話をしに言った。
 でも、府教委はまったく取り合わなかった、とのこと。
 「問題が起こると結局現場責任か。」と教師につぶやいたとのこと。

学校努力で門扉の軽量化を図ったが

 しかし、業者に来てもらい現行の門扉の軽量化を見積もってもらった。すごい金額だったし、
「今ごろこんな重い門扉ないですぜ。」
と言われたが、

「何とか出来る範囲で少しでも軽量化をおねがいした。」

と事務部長がおねがいしたとの話があり、年々門扉の重量の軽量化が進められて、当初の半分にされた。
 しかし、
「門扉入れ替えの予算は認められなかった。残念やなあ」
と事務部長は異動の時に報告した。

 安全衛生教育は、府教委全体にまずすべきだ、と思う。

2011年7月7日木曜日

労働安全衛生対策委員会ニュース「教職員のいのちと健康」が 教職員の健康を守る出来事が続出






































山城貞治(みなさんへの通信29)

「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)
 政策「労働安全衛生対策について」はどれだけ実現したのか(その10)


 府教委は、大企業のように反応はなかったが、理解しがたい「法理」があることを知ったようで、それまでの「有無を言わせない」強制異動は、大幅に減り、健康上に課題をもつ先生への少なくない配慮がなされるようになった、と書いた。

異動に対する健康配慮がないため少なくない教職員が死亡

 当時の具体的な例をあげる。

 1998年3月。例年教職員にとっては卒業・入学・進級などの問題を含めて神経をすり減らす時期でもある。
 さらに人事異動という問題がある、ある学校から別な学校にかわると様子が一変し、少なくない教師が戸惑いとさらなる蓄積が重なる。

 府高労働安全衛生対策委員会でも現職死亡の原因等を追求する中で、異動に対する健康配慮がなかったため少なくない教職員が死亡すると言うことも解ってきた。
 そんな時にTB高校全日制分会のA先生から「異動にともなういのちと健康」の問題についての投稿が寄せられた。

生死をさまよう入院中の教師
  のところに来て異動させる非人間性

 府高労働安全衛生対策委員会は、まずこのことに対して以下のような見解を持った。

 A先生の報告によると1994年春からたびたびの留任要求(今いる学校で働くこと)しても、も管理職は「ダメ」と言うだけ。
 それでは、と本人が通院可能な範囲の異動先を示したにもかかわらず、それらを無視して校長と事務部長が「異動先の書類」を入院中のA先生のところに持参するという非常識な行動が見られた。

 府教委・管理職が教職員の基本的人権を無視することは際限なく、生きるか死ぬかという瀬戸際まで追いつめられた教師に一片の書類で、労働条件・労働環境が大きくかわり、さらにいのちの危機が増加される職場に転勤せよ、とするやり方は、近代民主主義国で許されてもいいのでしょうか。
 明らかに、府教委や管理職はA先生の異動どころか、病人に対する人権尊重の気持が存在していなかった、としか言いようがありません。

安全配慮義務をはたしているのか

 また、
 学校医?(健康管理医?)がこれらの問題について労働安全衛生上のどのような指導があった
 のか?
 府教委や管理職は教職員への安全配慮義務をどうはたしたのか?
 A先生の病状から考えて、異動先は「いのちをキッチリ守る快適職場環境」であったのか?
 府教委と管理職によって、どれだけ「配慮」と「生命を守る注意」がなされたのか?
 府教委は、自分たちが支配するための教職員異動だけを考えていたのではないか?
 などなどさまざまな疑問が広がります。

( 労働安全衛生対策委員会ニュース「教職員のいのちと健康」 投稿 )
    私の健康状態と職場の実情
 
                                     TB高校全日制分会 A・K

Ⅰ.最初に、私の転任直後から現在までの健康状態について略述する。

1.約15年前、SG高校での成人病検査で高脂血症と診断され、
 精密検査の結果、家族性高コレステロール血症と判り、以後、現在に至るまで治療中。なお、1985年に自然気胸で入院(約1カ月)。

2.1990年、同じくSG高校での成人病検査時の精密検査で、
 心筋虚血性変化と診断され、以後、上記家族性高コレステロール血症の治療と同時  に虚血性心筋症の治療を、心臓専門医のもとで受けている。

3.1994年春、体調が特に優れず、春休み期間中(3月)に心臓カテーテル検査のため入院。 このため、この年4月の人事異動では勤務校での留任を強く希望したが、受け入れられず、異動を勧告された。
 最終的には、通院可能な範囲内にある北通学圏内の学校ならとの条件で異動を承諾したが、これさえも受け入れられず、入院中の病室へ学校長と事務長とが異動先の書類を持参。  それが現在の勤務校であるTB高校。全く希望の入れられなかった異動先であった。

Ⅱ.次に、このような健康状態の中での転任直後の勤務条件について述べる。

1.通勤・通院にきわめて長時間を要する(前任校の4倍)。しかも、通勤経路は国道一号線に近く、そのため大型トラックに挟まれての自家用車通勤で、ストレスはきわめて大きくならざるをえ
ない。バス通勤では、さらに長時間を要するうえ、通院を不可能にする可能性が大きい。

2.転任直後、「狭心症」との診断書を持参して現在校へ移ったが、私の職場の位置と条件は、以下のとおりである。
(1)担当の教員として私が使用する教室は、独自の教室ではなく、本来は定時制の教室であり、現在は定時制のと全日制の三者が使用している。
(2)そのうえ、この教室の位置が問題である。図を参照(略)されたいが、この教室は校舎の全日制正門からおよそバスの停留所一つぶん程離れた距離にある。

 正門や職員室から第7棟までの間には、屋根はあるが壁のない渡り廊下2ヶ所をたどることになり、3階へたどりつくためには約40数段の階段を昇ることになる。
 第1棟の大職員室から荷物を持ちながら行くと、約10分かかる。
 登校時の毎朝の職員打ち合わせは、この大職員室で行われ、そこに私の荷物をおく場所はない。
 転任直後は、心臓カテーテル検査のための鼠蹊部の内出血状態にあったため、足を引きずるようにして教室までの移動をくりかえさねばならず、内出血状態は2カ月近く続いた。
 医師の診断では、この状態は上記の歩行の無理のためとのことであった。

(3)単独の「書道準備室」がないことは言うまでもない。

(4)教室横の部屋の片隅に私の席がある。ここには一年担任団の約半数の教員(4~5名)が同居。そのため教材の置き場も、教材研究のための作品を書く場所もない。
 これが、1994年の転任直後の状態であった。

Ⅲ.その後、現在までの勤務のなかで感じている問題点について述べる。

1.上記(1)のとおりの教室なので、生徒たちも用具を授業の前後に用意したり、片付けたりしなければならない。

 そのうえ、生徒たちは次の授業のために、この教室から校舎北部の全日制棟に移動せねばならない。このため授業前後の時間的ロスは大きい。
 たとえ準備室が遅れようと、せめて授業に集中できる専用教室を全日制  棟内に設置することが早急の課題であると思う。
 この点について現在まで4年間要求し続けたが、いまなお実現の見通しさえない。

2.上記(4)の室のメンバーは、1年担任団とされているため、毎年、学年を変わる度に総入れ替えとなる。私だけがこの場所から離れない。

 「1年間よくマア通っていたものだ。」
  「久々に来てみたら遠いですね。」
とは、担任の学年が変わって、大職員室へ行かれた同僚たちの言である。私は4年間も続けている。
 年齢とともに「息切れ」もするはずである。転任直後、万歩計をつけてみると、校内だけで1日に1万歩はあった。

3.トイレが遠い。第7棟にはなんとトイレは一つもない。

 またまた階段の昇り降りと渡り廊下歩きを強いられる。
 若い「教育実習生」さえ「悲鳴」をあげていた。職員用トイレは第1棟1階だから、授業の合間に行けるはずがない。
 最短距離のトイレ(生徒用)を使用しても、7分余りはかかる。
 授業の合間は、ご存じのとおり10分。生徒たちで混んでいたらどうなる?
 我慢していて膀胱炎になったこともあった。

4.焼却炉のこと。第6棟と第7棟との間に焼却炉がある。煙突の高さは、ほぼ3階と同じ。

 焼却炉の使用中は、第7棟の職員室・書道教室・廊下などは窓を閉めておかないと悪臭と飛来する燃えかすで大変。冷房設備もない夏などなんと蒸し暑いことか。ちなみに、大職員室は冷房完備。
 もっとも、この件は、ようやく国際的にも注意され始めたダイオキシン問題で、撤去されることに決まったようだが、私は4年間もこの「公害」にさらされてきたということになる。
 ただ、喜んでばかりはいられない。書道で使った紙をどうする?生徒たちに(私も含めて)「持って帰れ」とでも言われると、これは大変である。


5.女性休養室のこと。あるにはあるが、これまた遠い。

 第1棟の2階で、しかも「更衣室」というのが「正式名称」。
 とうてい本来の女性休養室ではありえない。職員ロッカーに囲まれた奥に畳4枚が敷かれているだけ。
 ちなみに女性教職員は、非常勤も含めて38名(1997年度現在)である。

Ⅳ.最後に現在の状況について一言。

1.こんな状況にあるため、校務分掌上で教室から最も近い担当で、担任ははずしてもらっている。
 また、通院のための時間確保に少しは配慮した時間割にしてもらっている。要は、「病休」が少しは取りやすい授業時間割りになっているということ。

2.しかし、ニトロを肌身離さず持って勤務中。
  家族性高コレステロール血症と狭心症との治療のために、最低、月2回、2カ所の病院に通院し治療継続中。

3.今年も人事異動期に入った。言いたいことは種々あるが、また別の機会に譲りたい。

ニュースを出す前に
A先生の要求・ねがいをすべて実現すると校長が約束

 このA先生の投稿を含めた労働安全衛生対策委員会ニュース「教職員のいのちと健康」の印刷中に、A先生から、校長に呼び出されて次のような話があったと電話があった。
1,異動はA先生の意向を最大限尊重する。無理な異動は絶対しない。
2,A先生の教室の場所を変更する。A先生の意見を聞かせて欲しい。必ずそれ  を実現する。
3,病状を充分聞かせていただいて、通院や教科・校務分掌の配慮をする。
4,A先生の健康状況を充分理解していなかったことをおわびする。
と言うような中味だった。

 労働安全衛生対策委員会ニュース「教職員のいのちと健康」の投稿が広がらないうちに校長が今までの態度を全面的に変えてきたのである。
 事実は事実として、労働安全衛生対策委員会ニュース「教職員のいのちと健康」投稿を発行することをA先生は快諾したため印刷したものは各学校に配布した。

「教職員のいのちと健康」を分会役員よりも
   早く入手する府教委・校長の不可解な動き 

 しかし、この前後から府教委は労働安全衛生対策委員会の動きと労働安全衛生対策委員会ニュース「教職員のいのちと健康」の記事を注視するようになり、「教職員のいのちと健康、は3日以内に府教委に手に入る。」と言う府教委幹部の話が舞い込んできた。

 当初は信じられなかったが、分会役員の手元に労働安全衛生対策委員会ニュース「教職員のいのちと健康」が届かないうちからに、校長がそれを入手して分会役員を呼び出し、内容を確かめるを呼び出す、という不可解な事件が続いた。

 労働安全衛生対策委員会ニュース「教職員のいのちと健康」を発行して、8ヶ月目の出来事であった。