2011年8月16日火曜日

22歳の府立工業高校卒業生の過労死 教職員は黙ってはいられない


山城貞治(みなさんへの通信62)
「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)
政策「労働安全衛生対策について」はどれだけ実現したのか(その42)


(21)工業課程を置く学校では、特に工業用の安全衛生基準と安全衛生マニュアルをつくり十分な安全対策を講じさせる。

  について、はアスベストのところでも明らかにしたが、工業課程では学科があり、さまざまな機器が設置されていた。学校はまさに「工場」であり、そこで学ぶ生徒も教職員も安全対策は最優先のことであったが、安全対策は極めて不充分であった。
 労働安全衛生対策委員会のメンバーや府高労働安全衛生学習会で得たことを基にひとつひとつ安全対策が要求され、大規模改善も行われるようになっていく。
   例えば府立G府立工業課程で、京都府人事委員会の立入調査で「アーク溶接によるじん肺対策が行われていない。」ということを「教職員のためのいのちと健康と労働」紙上で掲載したところ、「アーク溶接によるじん肺」について知りたいとの問い合わせがあった。
 そこで、「アーク溶接によるじん肺対策」を「教職員のためのいのちと健康と労働」紙上で掲載するなどしたところ、次第に工業課程における危険性と安全対策が理解され、取り組みが大きく広がった。
 そんな時、卒業生が死んだのは「過労死ではないか」との報告がされ、府高委員長はすぐ取り組むよう指示。
 その問題を70歳を超えようとする今も取り組んでいるので紹介したい。
 なぜなら京都府高は「学校がよみがえる労働安全衛生」(文理閣発行)を作成し、教職員の労働安全衛生は、生徒の労働安全衛生に直結していたからである。
 
22歳の府立工業卒業生の過労死
         教職員は黙ってはいられない

 現在この中田過労死事件は、裁判で争われているが、その概要を紹介するために弁護士宮本平一氏の文章を紹介させていただく。

22歳の若者の死亡(中田過労死事件)提訴 弁護士宮本平一
 事案の概要
 故中田衛一君(1978年(昭和53)年生)は、1997(平成9)年3月、福知山市内の京都府立工業高校を卒業して、4月からトステム綾部株式会社(住宅建築用内装資材の製造及び販売等を目的)に勤務した。
 そして、製品検査の仕事を経て、1998(平成10)年10月から、DSジャストカットライン(ドア枠加工のラインの中の受注生産ライン)の作業に従事していた。衛一君は、昼夜勤の勤務を継続していたが、2001(平成13)年6月16日、夜勤明けにて自宅で就寝中のところ、母がその異変に気付き、救急車にて福知山市民病院に搬送したものの、同日午後6時30分、同病院にて急性心不全により、22才の若さで死亡した。

 提訴までの経過

 衛一君の両親は、2002(平成14)年4月9日、福知山労働基準監督署に対し、過労死として労災補償請求をしたが、翌2003(平成15)年3月28日業務外とされた。 そこで京都労災補償保険審査会に審査請求をしたが、同年11月26日同審査請求は棄却された。
 そのため再審査請求をなしているが、未だ決定は出ていない。
 本件は、災害発生から既に9年間経過していること、被告には労働契約上の安全配慮義務違反(二交替勤務制の下での長時間労働、過酷な職場環境、緊張する作業内容等)の過失があるので、本年6月12日、京都地方裁判所福知山支部に、金1億0143万1200円の損害賠償請求の提訴となった。

 両親の思い

 長男である衛一君は、「若者の職場」と言われていた被告会社に入社した。
 子供の頃から優しく穏やかな性格で、お年寄りにその荷物を持ってあげたり、わざわざ車を降りて、危ないからと道路を渡らせてあげたりして感謝された。又真面目かつ責任感が強く、職場の同僚からも、壊れた機械を一生懸命修理、仕事のミスも、「大丈夫ですよ」と声をかけてもらったとの話しもあった。
 衛一君の生産ラインは、受注生産による即納体制にあり、「残業はあって当然」「その日のうちに帰宅できれば良い方」という長時間理労働が恒常化しており、複数の親からの訴えで、監督署も再三立ち入り調査に入っていた。
 又、職場は、切り粉が舞い、冷暖房は定時に切れ、立ちっぱなしで、力とスピードと精密さを問われ、又派遣社員を指導しながらの能率アップが必要であった。
 辞めていく同僚もある中、衛一君は、休みたくても、同僚や自分への負担を考え「やっぱり休めん」と言って出勤し、自分の体を酷使して働いていた。
 楽しみにしていたスノーボードに行く気力もなくなり、淡い恋心を抱いていたメル友のゆうさんへのメールさえ、打ちながら眠ってしまう有様だった。
 そして、入社時に90キロあった体重も、死亡当時には72キロまで激減していた。
 さらに2000年秋頃から胸に異常な感覚を訴えるようになり、又爪の色が紫色になったり、足の感覚が無くしびれているようになったりしていた。
 そして帰宅後も胸を抱え込んでぐったりして動かない事や、ふさぎこむ事しばしばあり、食事もとらないで、自室に閉じこもる事も多くなっていた。
 会社の同僚も、痩せて青い顔をしている衛一君に対し、「まじ、やばいんちゃう」という話までするようになった。
 看護士でもある母親が、「そんな働きかたしていたら過労死するで」とまで言っていた矢先の死亡であった。
 冷たくなっている息子に、半信半疑で、「あのとき言っておけば」と自問自答しながら息を吹き込む親の気持ちを考えてほしい。
 一時も手を握って看てやることもなく、大切なかけがえの無い息子を奪われ、本当に無念でたまらない。
 会社側は、一言の謝罪も無く使い捨ての様に終わらせようとした。22歳の息子の死を決して無駄にはしないでほしい。

第1審は負けたが 高裁判決めざして

 ところが、2011年5月25日死亡は過労死として同社に損害賠償を求めた訴訟の判決が25日、京都地裁であり、大島眞一裁判長は、原告の請求を退ける判決を下した。
  このことに対して府高元委員長は、次のような文章を京都職対連顧問として投稿している。

いつも怒りを覚える
 過労死した子どもを 
なぜ遺族がなぜ証明しなければならないのか

不当判決
 5月25日、京都地裁で、「中田過労死裁判」の判決があった。
 中田君のお母さんは、遺影を胸にしっかりと抱きしめ、判決を待ったが、判決内容は「原告の請求を棄却する」という心も凍る冷たい不当判決だった。
 それにしても、この種の裁判で、いつも怒りを覚えるのは、過労死をした遺族がその働き方を証明しなければならないことだ。
 今度の判決でも、裁判所は、正規のタイムカードもなく、会社側が、管理職にこっそりとメモ程度に記録させておいた、それも残業時間をごまかしているような労働時間を採用して判断した。
 私に言わせれば、タイムカードも設置せず、労働者に無定量の働かせ方をしている企業に対しては、それだけでも裁判所は、企業の不当性を断罪すべきである。
 報告集会では、佐藤弁護士や村山弁護士をはじめ担当弁護士、支援する方々、中田君のご両親が不当判決に対する怒りとともに、裁判の展望を語っておられたが、私たちは、京都地裁で負けても、大阪高裁で逆転勝利判決を勝ち取った「大日本印刷 中居過労死裁判」勝利の歴史を持っている。

「あきらめたらあかん」を読み直してみたら
  瓜二つの裁判 許されない

 16年の裁判記録「あきらめたらあかん」を読み直してみたが、相手が大独占であったことといい、企業側が労働実態を隠し続けたことといい、また、2交代制の勤務であったことといい、瓜二つの裁判である。
 この判決内容を逆転負けした京都地裁の裁判長に知らぬとは言わせない。
 「中田裁判」の医学的な解明に加えて、「中居裁判」における「吉中証言」など、判決内容に裁判官が一度でも目を通す良心があったのなら、こんな判決文は書けるはずがない。
 過去の「判決」に逆行するという点でも、今回の京都地裁判決は二重に不当判決といえる。
 しかし、私たちは、司法の反動化が進む中でも、「中居裁判」では、大阪高裁で、京都地裁の不当判決を見事に覆した。
 中田君のご両親は、即、控訴されたという。

花々が咲き誇る時期に 判決に負けない決意
 と徹底した労働安全衛生を誓う 

 今年の6月16日は、中田君の10回目の命日である。

 私たちは「中居勝利判決」に学ぶとともに、京都地裁の不当判決なんかに負けるわけにはいかない。
 4月に入ると、個人のお宅の玄関先や各地の畑でもチューリップが見られ、小さいものや大きい花びらを持つものなど、どれも心を和ませてくれた。
 このチューリップ、気温の変化には敏感で、気温が20度以上だと花は大きく開き、気温が10度以下になってしまうと閉じてしまう。
 二~三日暖かい日が続いたかと思うと、急に冬に逆戻りしたかのような寒い日があると、チューリップは花を閉じてしまう。
 一日単位でも、温度差がある日だと、開いたり閉じたりということになる。
 チューリップが面白いのは、温度差で開いたり閉じたりするのであって、日中は開いて夜間は閉じているなどということではないことだ。
 夜間でも20度以上だと花は開いている。ただ、今年のように暖かいのか、寒いのか良くわからない日が続くと、開いていいのか、閉じなければならないのか、チューリップも大いに悩んだのかもしれない。

 さらに、元府高委員長は全教(全日本教職員組合)に対してもズバリ過労死をなくす取り組みの弱点を指摘していた。