2011年4月30日土曜日

「 ぼく、字が書けないだけど、さぼってなんかいない」 を出版し、 読み書き障害の子どもは ぼく、字が書けない と断定し、 さぼってなんかいない とする教育展望と滋賀大学教育学部窪島務氏の巨像と実像(4)



 「正しい」「正しくない」「書字エラー」「錯読・錯書」とする根拠は不鮮明と書いたが、このことは窪島氏の本質を現していない。
 根拠は別のところにある。
 なぜそこまで、書くのか。
 なぜそこまで書かざるを得ないのか。
 は、次のことが明らかになったからである。

子どもの言葉を借りて本音を現す

  2010年2月に
NPO法人滋賀大キッズカレッジ手記編集委員会編 編集代表として、窪島務は、
「 ぼく、字が書けないだけど、さぼってなんかいない」
(文理閣)を出した。
 この本を、
「読み書き障害のことをもっと知ってほしい」「わたしの思いを聞いてほしい」これまで注目されることが少なかった「読み書き障害」について、その特徴や学校での対応を保護者と子どもたちが本音で綴りました。
と紹介している。
 だがこの本のタイトルは、すでに述べてきた読み書き障害の「書字エラー」「錯読・錯書」などとまったく異なった表題となっている。

字が書けない、と決めつける心情

 すなわち、子どもたちは「書字エラー」「錯読・錯書」でもなく「字が書けない」としていることにある。
 しかも、子どもたちが言っているかのような表題にして、
「ぼく」「さぼってなんかいない」
としている。
 子どもたちは、
「字が書けない」
と言っているのだろうか。

 例えそう思っていても、それはそうではないのだ、と子どもたちに知らせることが必要だと窪島氏らの主張ではないのか。
 子どもたちの言葉として、窪島氏らが
「字が書けない」
としている部分を誇張しているのではないか。

 切実な思いで書いている親たちの思いを窪島氏らは、
「書けない」
ということで括ってしまっているのである。

 ここには、子どもたちが字を書いているが、それを「エラー」(誤り?過失?)「錯読・錯書」(まじるった読み・書き?入れ混じった読み書き?・乱れた読み書き?」と表記していたことはまったく現されていない。

 字が書けない。

と窪島氏らが、断定し、認識していることを「教師が解ってくれない。」「傷つけられた」「人権を認めていない。」などの気持ちを表面に出していながら心底考えているのは、

字が書けていない

のではなく、

字が書けない。

と言う断定的固定概念があることが浮き彫りにしているのである。

子どもや親の気持ちを代弁するようで
自分たちの本音を本の表題にするひどさ

 様々なところで様々な言い様をしているが、窪島らは、

子どもたちが
「字が書けていない」
と考えているのである。

 これは、窪島氏らの指導を受けている子どもたちや子どもたちの親や彼の書いた文章を読んでいる人々への窪島氏の本音であると考えざるを得ないだろう。

 子どもたちが、字が書けない。
 ということと、
 字を書いているけれど国語の字と違う字でとなっている。


ということは見方や考え方で本質的な違いがある。

 子どもたちの状況についての事実とまったく異なった「事実」が書かれていることになる。

 「ぼくは、字を書いているけど、さぼってなんかいない」

という本の表題にしてはいないのである。


 読み書き障害の子どもたちは、「書けてない」。
    これが、窪島氏の本意である。


こんなひどいことが、あっていいのだろうか。
私の子どもを壊さないでください。
先生、もっとLDのことを理解してください。
どうしよう?
学校の理解の遅れに追い詰められて。
等々の対して、理解するようで、応えるようで、こころの底では、それらに応えていなことを基本のところで自ら告白しているのである。
「本当のことを言えば書けてないが、努力すれば何とかなるだろう」
などの本質的な考えが見え隠れする。
 なぜなら、読み書き障害の原因や問題解決の具体的科学的方途を示さず、ただ現状の自己統計に終始している事を見ても明らかである。
 これらのことは教育学研究者、大学教授と言うよりも人間として許されることだろうか。 
 教育学研究者、大学教授と言われる人のすることであるとは信じがたいが、以上の事は平然となされている。

親や子どもたちのねがいを全面否定


 「本の題名」は、「本の中味を表してつけられる」のが普通であるが、窪島氏は充分そのことを知ってきた。」それにも関わらす、、「本の中味を表してつけられる」ことなく、逆に本の中味を否定する本の題名をつける。

 僕は書けてない、と。


 滋賀大キッズカレッジの指導法(SKCメソッド)を「安心と自尊心」としながら、窪島氏は、子どもたちの「安心と自尊心」を完全に否定して社会的に公表しているのでいるのである。
 読み書き障害の子どもは、書けないのだ、と。
 この本を出された時は、驚き、誤植ではないか出版元にまで確かめたほどである。
 だが、誤植ではなかった……。
 読み書き障害の子どもは、書けないのだ、と断定されていた。
 
研究者としての「良識や恥」以前の人間性は

 窪島氏は、編集代表としてこのような表題を付けたことを今だ何ら恥じてはいないし、研究者として事実に基づくことから研究をするという常識を「非常識」なものにしているのである。

 それが証拠に、この本の題名は改題することなく出されている。

2011年4月28日木曜日

基準なしに「正しい」「正しくない」「エラー」「錯読・錯書」と言うが  教育展望と滋賀大学教育学部窪島務氏の巨像と実像(3)

では、窪島氏が、読み書き障害の子どもたちにどのように対応しているのかを見てみると、滋賀大キッズカレッジ学習室のボランティアを募集に次のようなことが書かれている。

自らはマンツーマンの教育法をもちているのに
             他の少人数学級を否定

 滋賀大キッズカレッジは、読み書き障害(学習障害)のある子どもの学習室を(略)開いています。  学習室への参加希望は多数有りますが、一対一の指導を基本にしているため、多くの子どもたちに待機していただいている状況です。
 しかし、子どもたちのつまづきと悩みは深刻です。すぐに対応していきたい気持ちはいっぱいですが、読み書き障害のある子どもの指導は、通常の教育方法とは異なる指導が必要であり誰でも出来るというものではありません。
と、「一対一の指導を基本にしている」と明確に書いている。
 では、彼がそれまで述べて来た少人数学級の否定的ともとれる文章は何だったのだろうか。
 自分たちは、読み書き障害(学習障害)のある子どもに一対一の指導をしながら、多人数学級を受け持つ教師たちにいろいろとクレームをつける。このような主張は正当だろうか。
  すでに述べて来たところで窪島氏の一貫したところは以下の点にあるとも言える。
 
新しくない文字や読みを
          分解して教える弊害

1、彼は、読みか書き障害という読み書きとは、ひとつひとつの文字であり、ひとつひとつのはなし言葉を言っている。

 だから言語としての読み書き障害とは書かないでいる。すなわち、文字をひとつ、ひとつ、見ているのであって繋がりとしての文字を見ていないのである。文章として子どもたちがどのように表現するなどを事例にあげていないところを見てもそれは明らかであるし、エラー、注意しましょう、とするひとつの漢字を転載していることからも窺える。
 さらに他の論文なるものや彼が指導した論文とされる指導方法には、漢字を分解して組み合わせたり、カード化して指導する方法が掲載されている。
 だがこの方法は、決して新しい方法でもなく教育現場では幾多同様な方法が試みられてきたことを知らないだけである。
 さらに、このひとつひとつの文字を分解させて指導する方法は、子どもの発達に大きな弊害を引き起こすという論議があったことも承知していないようである。

生かされないユニセフなどの
           識字運動の教訓

 しかも窪島氏の指導法は、漢字などのもともとの表意・表音文字が簡略化されたことを承知しないで、分解した文字に「自分たちなりの意味づけ」「思い込みの意味づけ」をして、子どもたちにイメージ化させようとするのである。
例えば、窪島氏は、漢字の表意文字と表音文字の特性を何ら研究することなく「親」という文字の意味合いを「ドラマで使われた表現」を批判検討することなく、解釈している。
 しかし、親は、「祖」とも書くなどさまざまな表現形態と意味合いを承知しないで、文字をイメージ化させている。しかし、これでは子どもに文字を教えるだけの手段としてのイメージ化でしかなく、漢字ドリルの変形でしかないと言われても答えようがないだろう。
 文字をひとつ、ひとつ、見ているのであって繋がりとしての文字を見ていないが所以に、文章として指導していない。
 自己の内面を表現する手段として、文章を指導できるだけの力量がないのかもしれない。
 窪島氏は、「読み書き障害」の「特性」に拘るあまり、ユニセフの国際的識字運動や日本の識字の取り組みの教訓をベースにすることはないのである。
 そのため日本の識字の取り組みの中で、文字を書くことを獲得した女性が、それまで何となく見ていた夕陽が、あまりに美しいことを知って感動した記述があることすらも知らないでいるらしい。
 文字の獲得だけを目標にする指導は、教育といえるだろうか。
 子どもの発達や子どもたちの豊かな認識を高めていこう、というような目標などは書かれていない。

何がエラーで、何を注意するのかを
           不鮮明にしたままに

2、窪島氏らは、読みか書き障害の子どもたちの書いた文字が、「エラー、注意しましょう、」とする基準を何ら明らかにしていない。
 そして次のようなことを書いている。
 正しい場合でも正しいという確信がない。正しい字を書いている場合でもあるいは正しい読み方をしている場合でも、自分が正しいという確信がない、自信がないのです。ですから、ちょっとした相手の反応に対して、正しいのにそれを直して間違った字にしてしまうのです。この子どもたちは知的には低くありません。むしろ高い子どもが多く、理解はいいのです。周りの反応を見て、すぐに自分のやったことが間違っていると思ってすぐに修正します。それは常に間違う可能性があるという不安からそうするのです。正しい場合でも正しいという自信がないのです。(読み書き障害の新しい概念と滋賀大キッズカレッジの教育的指導─発達主体の定位と「障害」の位置づけを中心に─)
 窪島氏の言う「正しい字」「間違った字」とはどういう字が「正しい字」であるのかの基準にしているのかが、まったく書かれていない。

「正しい」「正しくない」「書字エラー」
    「錯読・錯書」とする根拠は不鮮明

彼らは、発達性読み書き障害(dyslexia)児の錯読・錯書に関する研究などの「錯読・錯書」も「書字エラーにおける漢字文字特性の役割について」などの「エラー」も共にその基準が明らかにされていない。
 ちなみに、「錯」とエラーの文字の意味には日本語表記として違いがあることも承知しているのかどうか疑問が多々ある。
基準を明らかにしていないと一例をあげておくと、窪島氏が「書字エラー」と決めつけている子どもたちが書いた文字の中には、以前はそのように書かれていた文字があるからである。その子の書き方のほうが、人間の身体機能にマッチした書き方であることすら分析もしないで「書字エラー」と決めつけているのである。
 「書字エラー」と決めつけと、そうやね。こういう書き方もあるよ。昔の人はあなたのように書いていたんんだけれどね……などの会話はそこに存在しなくなるし、その子どもが、自分なりに書いたことに対する努力を褒めることもなくなってしまう。このような取り組みは窪島氏以外ではやられていないのだろうか。
 親が、子どものことで心配になり、吐露されている信頼関係の記述を同じ取り組みをしている人の書いた文章に綴られているのだが。
 彼はそれらを知らないでいることに驚きを覚える。

マス目に書けない子どもたちの
            原因と教育教訓は

 日本での漢字表現と漢字の読みは、多くの変遷をたどってきたが、正方形の枠内に漢字を書くことを強要されてきたのは近代になってからであり、国によって強制的に変えられ、強要されてきた。
 マス目に書けない障害を持った子どもたちが、揶揄された教育を改革してきた日本の教育を障害児教育学専門であった窪島氏が、知らなかったですまされない重大な問題がある。
 彼は、脳と身体能力の問題について書いているが、それらが密接不可分であることを知らなかったとでも言うのだろうか。
 窪島氏には、「読み書き」の歴史を踏まえて、子どもたちに自由な自己表現手段としての読み書きを獲得させるという教育的目的はなく、学校教育で、学習指導要領で定められている「読み書き」を基準にそれに適応できているかどうか、で「正しい字」「間違った字」と決めつけているとしか考えられない。

2011年4月26日火曜日

エラー・注意とする「不注意論」に子どもを巻き込む方向か   教育展望と滋賀大学教育学部窪島務氏の巨像と実像(2)

 窪島氏は、滋賀大学教育学部教授であり、NPO法人滋賀大キッズカレッジとの代表者を兼ねている。
 彼はしばしば、滋賀大キッズカレッジで得たことを基に文章を書いたり、滋賀大キッズカレッジで書いたりしている。

国立大学でなくなり
「独立法人」となった大学で

 国立大学でなくなった滋賀大学がこのようなことが出来るのも不可思議なことだが、他の旧国立大学の産学協同などを見ていると旧国立大学の変貌と旧国立大学の研究者が充分な研究が出来る時間と研究を裏付ける保障があるのかなど疑問に想うことが多々ある。さらにそれよりも旧国立大学になって逆に国に従属した研究が評価されているのではないかという危惧さえ抱く。
 窪島氏は、まさにその危惧を現してくれているようである。
 
「エラー」「注意しましょう」と曝す

今まで彼が書いてきたことについて述べたが、では彼は、LDなど読み、書き、計算困難・障害のある子どもと保護者、学校関係者に対する専門的サポートを行う「滋賀大キッズカレッジ」でどのような実践を行っているのかを垣間見たい。
 「滋賀大キッズカレッジ」のホームページを見たとたん驚かされることが多々ある。
   滋賀大キッズカレッジは、LD(学習障害)・読み書き・計算障害、多動(ADHD)、アスペルガー障害児のための教育的・発達的相談と学習指導の場です。
学習困難には、さまざまな理由による学習不振、低学力などがあります。その中の特に著しい困難で、読みや書きの基礎となっている認知的諸能力に弱さがある場合を学習障害、読み書き・計算障害といいます。
 外国語(日本では英語)に大きなつまずきが生じることもあります。
 通常の学習方法、繰り返し反復学習は、かえって有害な場合が多く見ら
 れます。
 として、 滋賀大キッズカレッジの指導法(SKCメソッド)を「安心と自尊心」に基づく読み、書き、計算の指導、としている。
 そして、書字エラーとして、画像などで子どもたちが書いたであろう文字が掲載されている。たぶん「六つ」「飲む」「光」「町」「百」などのエラーと言いたいのだろうと思われる。
 さらに、注意しましょう、として、子どもたちが書いたであろう文字が掲載されている。たぶん「雪」をこのように書いていると言うことをいいたいのであろう。


平然と子どもの気持ちを
              踏みにじる

 だが、まさにこの掲載そのものが、窪島氏の言う、
 「数秒後には忘れている子どもや, 文字や漢字がどうしても書けない子どもに短期記億に障害があり, 3つの音節までは記憶できるが, それ以上は記億できず勘に頼って行動しているなどということがある。
 そういう子どもが内心でどれほどの不安と自信のなさに耐えているかということに想いが向かずに」
を窪島氏自身が否定して、自分たちは子どもの内心の不安に対してまったく無理解であると表明していることの現れである。

なぜ 書いた子どもたちの持ちを
                 踏みにじる

 すなわち、不特定多数の人々が見るインターネットの表に、自分の書いたものが、「書字エラー」「注意しましょう」と掲載された子どもたちは自己の「内心」に「安定と自信」を持つとでも言いたいのだろうか。
 この字は間違った字です、として教室の黒板に張り出される以上に子どもの気持ちを蔑ろにして平然としている、とも言われても仕方がないだろう。


 子どもが必死で書いた「字」を
          エラー、注意しましょう、とする 

 注意したら、このような間違いをしませんよ、とホームページで主張している責任者がまさに窪島氏なのである。
 子どもたちが書いた「字」を「晒しもの」にしていないだろうか。
自分たちが研究するため撮ったであろう子どもたちの「字」をなぜあえてそのママ不特定多数に広げるのかは理解が出来ない。
 さまざまな理由で、例示するならば子どもが書いた「字」を書きうつすだけでもいいはずである。
 子どもの気持ちと言い、内面を言い、人権蹂躙を言う窪島氏が、真逆のことをしていることは、ホームページで証明されている。
 でもこれは哀しすぎることである。

教育に知能検査導入を暗示 そして実際に奨励する  教育展望と滋賀大学教育学部窪島務氏の巨像と実像(1)



 さて、教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』(2002年12月季刊)で窪島務氏が発表されたものとして、「教育実践学の再構築と しての臨床教育学「特別ニーズ教育」の観点から」という文章についてすくなくない問題点を明らかにしてきた。しかし、それは、文章ののごく一部である。

 ここで彼の実践とはどういうことを具体的言っているのかを検討し、彼の「主張」の背景にある問題を述べる。

教師に対する断定は 鮮やかに投影するが

 窪島氏の論理がないので文章としたが、彼は、日本語の表現があまりにも分散的で一定の筋道とそれを裏付ける根拠が何ら明らかにされないまま、曖昧文と断定文をくり返しているのが特徴的としている。
 特に彼が断定的に書くのは、教師に対するクレームであってこれは極めて辛辣である。
 だが、彼も教師であると言うことを喪失しているため自体はさらに深刻な問題を抱え込んでいく。
窪島氏は読み手が読める文章を綴れているだろうか。
 窪島氏は次のように「聞く」「話す」「書く」ことについて書いている。

 しかし,聴くとはどういうことかが深められなければならない。
 教育において,教師が言語的に「聴く」ことから始まることは当然であるが,子どもとの関係における言語の過剰が問題となる。いわゆる教師がしゃべりすぎるという問題,子どもの言葉の表面に直接的に反応するという問題がある。
 その背景に, 子どもが分かってくれない, 分かっていないという脅迫的不安が潜んでいるかもしれない。
 したがって, 「聴く」ことの強調には意義があるが,子どもとの関係においては聴くことを含めて子どもの行動のさまざまな次元に注意を向けなければならない。時には心理的アセスメントを利用することも必要となる。
 教師の指示を聞けなかったり, 数秒後には忘れている子どもや, 文字や漢字がどうしても書けない子どもに短期記億に障害があり, 3つの音節までは記憶できるが, それ以上は記億できず勘に頼って行動しているなどということがある。
 そういう子どもが内心でどれほどの不安と自信のなさに耐えているかということに想いが向かずに,逆に直感が優れている子どもという認識ですまされている場合などは決して少なくない。
 継次的な認知処理プロセスに困難があるため約束が守れなかったり,行動の手順がうまく理解できないなどということが起きることもある。こういう子どもが教師の指示を聞かず,約束を守らず, 「自己チュウ」 であると非難され生徒指導の対象とされるというシーンは, 幾度となく観察され繰り返されている事象である。
以上の文章は、非常に主観的意図に貫かれている。また文章としての態をなしていないとも言えよう。

カタカナと専門用語と「的」が部分的に織り込まれ

 彼や彼の周辺の人々は、「アセスメント」というカタカナを好んで用いる。
 英語におけるassessmentは、通常「評価」「物事・性質・能力などの良し悪しや美醜などを調べて価値を定めること。」と訳されるが、 あえて、アセスメントを「教育の場面における成果の判断」と窪島氏の意図に沿った日本語訳にしてみると、「心理的アセスメント」は、「心理的な教育の成果の判断」となる。
 従って、「時には心理的アセスメントを利用することも必要となる。」は、「時には心理的な教育の成果の判断を使用することも必要となる。」と言う日本文になるが、この文章だけを見ても意味が通じないことになる。
 ここで窪島氏は、「教育心理」という言葉を使わないのだろうかと訝しくなる。彼は、教育心理ではない言いたいのかもしれないが、彼の述べていることは教育心理学の範疇にある。


知能検査による評価が必要と主張

 だが、窪島氏の本心は別なところにある。「心理的アセスメントを利用する」とことを他の彼の文章で調べて、窪島氏らの実行していることを調べると彼の主張は次のようになる。
 教師は、知能検査をする方法を身につけるか、利用せよ。
 そこから得たデータを基に子どもにアプローチせよと言いたいのである。しかし、このようなことを教育学の紙面で書くと、戦後初等教育で頻繁に導入され、知能検査によるIQの数値で子供たちがランキングされたりIQで教育対象外とされた教育の問題から知能検査に対する数多くの批判が出され、知能検査が初等教育から導入されたことを窪島氏知っているのだろうか。
 いや、彼は充分そのことをよく知っている。
 戦後、障害児はIQで「白痴」「魯鈍」などなど「断定され」教育対象外にされてきたこと。そういうことを批判して発達や発達診断が形成されてきたこと。また、窪島氏は、そのことに積極的に参画してきたこと。
 彼は、なぜかそのことについて触れず、IQの「再来」を強力にすすめている。彼の研究を知る人々は、あまりの変貌に驚いている。彼はかっての知能検査批判を克服したIQを提示していると言いたいのだろうか。それにしても、理解が出来ない。
 だから、知能検査とは書かないで心理的と曖昧に書いている、としか考えようがない。
 くり返すが、昔の知能検査とは格段の相違があると彼は考えているかもしれない。しかし、知能検査は知能検査である。
 検査で知能を推し測ろうとしていることは彼の他の文章で頻繁に書かれている。そして、窪島氏らは知能検査の講習をしていることは隠しようのない事実なのである。
 彼の知能と書く部分は、知能検査による、と解釈しなければならないのである。

言語としての日本語を研究しているのか疑問

 さらに、彼は好んで「的」を使う。「教育的ニーズ」などもその例であるが、この的は、教育におけるニーズなのか、教育に関わるニーズなのか、教育周辺の問題も含めたニーズなのか。極めて不正確な文章であろう。
 ようするに彼は、日本文として綴ることが出来ないで、子どもの読み書き問題を論じようとするところに原因があると思わざるを得ない。また彼と歩調を共にする人々にはその傾向は極めて濃厚である。
 言語の範疇に文字やはなしことばが含まれたり 切り離されたり
 「聴く」と「聞く」を使い分けたつもりであろうが、
教師が言語的に「聴く」ことから始まることは当然であるが,子どもとの関係における言語の過剰が問題となる。
という文章を読むと、
 教師は子どもとの関係における言語が過剰であるため、言語的に「聴く」ことからはじまることを行っていないことが問題となる、としか読みようがないのである。
 このように書くのは、窪島氏は言語の定義が曖昧で、その常識的理解が出来ていないと思われるからである。

言語の定義を明らかにしてこそ 読み書き問題が

 言語とは、通常「人間が音声または文字を用いて思想・感情・意志などを伝達したり、理解したりするために用いる記号体系。また、それを用いる行為。ことば。」「ある特定の集団が用いる個別の言語体系。日本語・英語の類。」を言うが、言語が過剰になるとは、「人間が音声または文字を用いて思想・感情・意志などを伝達したり、理解したりするために用いる記号体系。」が多すぎるということになる。
彼は、音声言語、文字言語という日本語表記を知らないでいるとしか考えようがない。
 そうでないと子どもとのコミュニケーションが多すぎるとも理解できて、では、少なくすればいいのかと言うことにもなる。
 この未整理な文章を書くことが、彼の専門的表現であるとしているならば、大きな誤りであろう。
 言語に対する規定や言語の意味合いについては、教育の分野では戦前から論じられてきた多くの成果(日本語教育とするか国定語教育とするか、アイヌ語を認めるか、共通語か標準語か、等々を無数うの論議と蓄積も含めて)がある。でも彼はそのことすらも知らないようである。
 教育における読み書き問題とするならば日本語の体系の中での位置づけを明確にして論じるのが必須事項であるが、彼はそのことをしないのである。いや、出来ないのかもしれない、と思わせる部分が多々ありすぎるためあえてこの部分で触れておきたい。
 
読めない文章を描く背景

 彼は、
 教師は授業では、しゃべりすぎで、子どもの「深層」を把握しないで、上辺だけの「ことば」だけに対処することがありすぎる。その背景には、教師が、 子どもが分かってくれない、 分かっていないという脅迫的不安が潜んでいるかもしれない。だから知能検査やその結果などを学習して、子どもを多元的に把握していかなければならない。
教師は、教師の話を聞けなかったり、聞いても数秒後には忘れている子どもや 文字や漢字がどうしても書けない子どもに対しては、短期記億に障害があり、 3つの音節までは記憶できるが、 それ以上は記億できず勘に頼って行動しているなどということがあるなどのことを充分理解しておかなければならない。
 なぜなら、そういう障害がある子どもは、内心で多くの不安と自信のなさに耐えているからである。そのことを理解せずに、直感が優れている子どもという認識ですまされている場合が多くある。
 さらに、継次的な認知処理プロセスに困難があるため約束が守れなかったり,行動の手順がうまく理解できないなどということが起きることもある。こういう子どもを教師は、指導を聞かず、約束を守らず、回りの生徒や人間関係を考えないで行動してトラブルを起こす 「自己中心」 である生徒と非難し、生徒指導の対象とされるなどのことは、幾度となく観察され繰り返されている、
と言いたいのだろう。

間違いを間違いと教えることの放棄を容認

 ところが、近年、文部科学省や各教育委員会や学校における特別支援委員会や各種会議では発達障害の生徒をそのように見るのは誤りだ、として問題行動を不問にしたり、暴力行為やそれに類似する行為を容認する傾向が増えて来ていることは把握されていないようである。
 どのような状況であっても、間違った行為は十分な配慮をしながらも、間違いは間違いと生徒に諭すことはその生徒のためでもある。
 だが、窪島氏らのこれらの一面の強調は、それらの行為をも否定している。
 あるがままに、と。
 だが、それでは生徒たちは自らの誤りや行為に気づくことなく、エスカレートし、犯罪行為まで犯してしまう場合がある。
 残念ながら、そういう事態になった時に、保護者から先生が発達障害のことを理解していなかったから子どもをそこまで追い込んだのだと非難されることは年々増え続けている。
 そのため生徒指導や教科の評価では、発達障害の生徒を他の生徒とと違って、「特別扱い」する傾向のが日増しに多くなってきている。
 生徒指導では、どのような生徒でも充分な配慮を前提とするのは当然であるが、窪島氏の事例とはまったく異なった事例が多く見られる。
 しかし、生徒に対する適切な働きかけを「放棄」する点でどちらも共通点がある。
 詳しくは後ほど述べてみたい。

教育学研究者として教育実践証明は「生命線」

 彼の文章を校正しなければ、日本語の意味が通じなくなり、繰り返し書いてきたが、「主語」「主体」が書かれていないために、読む側に知らせることなく、窪島氏の主観的感情をカタカナや専門用語の一部を使って粉飾しているとしか理解できない。
 窪島氏の文章を読む限りにおいて、彼が授業をすると生徒は窪島氏の言うことが理解できなくて混乱し、内心で不安が渦巻くだろうと推測出来る。
 教育学は、実践そのものであるとする窪島氏は、読み書き障害の子どもたちがいるクラスを担任し、せめて学期間を通してその典型授業を示してもらうことが、教師が理解できる一番の近道だろう。
 そして、窪島氏が読み書き障害の子どもたちがいるクラスを担任し、学期間を通してかれの主張する典型授業を公開する、それでこそ教育はまさに実践なのだと言える。
 かって北大教育学部は、そのような取り組みをした。
 私は教育を指示する側、あなたは指示通りに実践する側。
 そういう時代は終焉を迎えている。

2011年4月24日日曜日

不可能を教師に求める二重性  滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(12)

 以降、窪島氏は、個人と集団の教育を論じようとしているが、彼自身の考えの混戦のためか、文章として成立していないので省略するが、以下の部分は問題が多い。

婉曲表現に包まれた
        教師の自己責任追及

 担任ひとりが多様で,多次元的な子どもの課題やニーズに応えることはできない。
 このように考えてくると,教育実践の多次元的な対応の構造を考えるとき,その根拠としてのニーズを構造的に把握することが重要である。学校における教育相談と子どもに対する教育サービスの関係を筆者はニーズに対する多次元・多段階構造としてモデル化して提示した。
  同時にそれは, 本来教職専門性が基礎的・初歩的な教育相談機能を有していることを強調する意図からでもあった。
 教師は, 日常的に子どもと接しているが故に, 潜在的可能性として教育相談においても個別相談よりもはるかに大きな成果を生む可能性を手にしているはずである。
 教育実践は今日的な実践性の要請に応えようとするならば,教育の場における心理臨床的相談ではなく, 臨床を内に含んだこどもとの関係性を構築し, 人格発達に焦点を据えて, 発達の源泉 (社会的形成と教育) と発達の原動力の矛盾を含んだ力動的関係に見通しを持って対峙することでなければならない。

教師は板挟みの二重性が
         要求されるとするが……

 窪島氏は、断定と婉曲をくり返す文章を書く。そのため彼の意図を読み取ることは出来ないが、彼が書いてきた文章を通して読むと、
「教師は,」「潜在的可能性」として「教育相談においても個別相談よりも」はるかに大きな成果を生む「可能性を手にしているはず」である。として、可能性を手にしている教師が、その可能性を発揮していないと言いたいようである。
さらに続けて窪島氏は、

  同時にそれは,すべてを教育的関係に包摂しようという欲求を抑制し,教育作用の限界を踏まえて,学校教育の外部における福祉、心理,医療の専門家との連携を追求することになろう。異分野との連携は,境界を強調することではなく,重なりを重視し,重なり合う部分を協同,連携の場として活動することを中心に構想すべきである。

 このことは, 教師に二重性を要求し,実践的ジレンマの中におくことになる。 このジレンマは,単に「見方」「子ども観」の問題ではなく,実践的,現実的ジレンマである。

と書いている。彼の他の文章などを読むと「教師の専門性に対するもう一つの専門性を持つこと」を強調している主張が、朧げに考えられる。
 窪島氏は、教師はすべてを教育だけではなく、他の領域と重なり合う部分を中心に考える二重性があることを「要求」し、教師がその実践の中で、「相反する二つの事の板ばさみになって、どちらとも決めかねる状態。」「抜きさしならない羽目」に身を置くことである。(彼の言うジレンマを日本文にするとこのようになる。)
 ようは、教師もジレンマに陥ることで、子どものジレンマが理解できるのだと言いたいいようである。
 このように書くと、radical(過激な)な意見とされるので、彼は教師に要求される二重性を曖昧に表現して、自己主張を覆い隠している。

27年前の主張とはまったく異質

 ここで、「27年余前の主張と最近の主張のあまりにも大きな落差はどこから…」の項で引用した彼自身の書いた文章を再録する。

「これまでのように自己の狭く限定された分野での専門性でなく、他分野との結合を進める力量をも専門性の中身と考えることは重要である。そこには当然社会科学的認識と洞察の力量が含まれるであろろう。」(障害児教育妨害者の「理論」批判 完全参加を目指す教育 全障研出版 1983年8月1日)
とはまったく異なった主張として立ち現れている。

教師が責任が持てないことまで
          責任をもてとする二重性
 
 教師の二重性は, 部分的に役割分担として分離され異なる人格に担われることが必要である。
 たとえば,学校の中に子どもが安心して自分の時間を持ち,休息や緊張を解くことができる空間を用意すること, そこで子どもを見守り, 時に話し相手になる大人を配置すること (この大人は,小中学校において臨床心理士や学校心理士などである必要はないが, 学校と子どもの発達および学習と行動の両面をよく知っている人でなければならない)、この空間と大人は,教職員全体の共通認識の下で, 学校教育の一部として学校全体の中に位置づいていなければならない。

  さらには, 学校の周辺に必要な時に直ちにコンサルテーションを受けることができる医療や心理及び教育学の専門家とのネットワークを形成しておくことなどである。
 学校教育はその役割が縮小するどころか、子どもの人格発達を保障する社会的機関としてますますその役割が大きくなっていく。

と窪島氏は断定するのである。

 ここには彼が好んで使う「欧米では、」という言葉はまったく打ち消されている。
 回りくどくなるので、先に書いておく。
窪島氏の主張は、欧米ではNOと言われる
 欧米の多くの国々では、教師の仕事(労働)は、教育であり、それ以外の仕事(労働)は、他の領域の人々の仕事(労働)である、と明確にされている。
 ところが、窪島氏は、日本の教師の仕事(労働)として権限が与えられていない、「子どもが安心して自分の時間」を持ち、「休息や緊張を解くことができる空間」を用意する、 そこで子どもを見守り, 時に「話し相手になる大人を配置すること」そして、「それを学校教育の一部として学校全体の中に位置づいていなければならない。」とまで言い切るのである。

 彼が、日本の教育制度を充分知った上で書いているのなら、この教師の二重性なるものは、子どもの問題の責任をすべて教師に求める考えのなにものでもない。そして、国や行政・教育行政等々を免罪していると言われてもやむを得ないだろう。
 各都道府県や教育委員会や校長などの管理職などが持っている権限の下で、働かされている教師に、各都道府県や教育委員会や校長などの管理職などが持っている権限を持ってやるべきだ、とするのが窪島氏の考えである。
 ようは、何もかも含めて教師がやりなさい、それまでの教師の仕事と決めていたものの上にさらにもう一つ権限のない仕事と仕事として考えることが、子どもの教育なのだ。
このようなことを平然と書くのなら、窪島氏は、過去に自己が書き、述べて来たことをどのように考えているのかを、まず精算すべきだろう。
 窪島氏の教師の二重性なるものは、彼が例としてあげている国々では、すべて否定されている。
 教師は、教育に専念し、子どものことに関わる教育以外の領域はそれぞれの専門職が対応するなどの基本を、窪島氏は充分承知しているはずであるにもかかわらず、あえて、日本で、教師の二重性を言うのはなぜだろうか。

明確な
 ILO・ユネスコ教員の地位に関する勧告

 参考に彼が引用したユネスコも関わった文章の一部を掲載しておく。
ILO・ユネスコ教員の地位に関する勧告
(1966年9月21日-10月5日 ユネスコにおける特別政府間会議)

8 教員の権利と責任職業上の自由
61 教育職は専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するための格別に資格を認められたものであるから、承認された計画の枠内で、教育当局の援助を受けて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割を与えられるべきである。
63 一切の視学、あるいは監督制度は、 教員がその職業上の任務を果たすのを励まし、援助するように計画されるものでなければならず、教員の自由、創造性、責任感をそこなうようなものであっては ならない。
67 生徒の利益となるような、教員と父母の密接な協力を促進するために、あらゆる可能な努力が払われなければならないが、しかし、教員は、本来教員の専門職上の責任である問題について、父母に よる不公正または不当な干渉から保護されなければならない。
70 すべての教員は、専門職としての地位が教員自身に大きくかかっていることを認識し、そのすべての専門職活動のなかで最高の水準を達成するよう努力しな ればならない。
85 教員は価値のある専門家であるから、教員の仕事は、教員の時間と労力が 浪費されないように組織され援助されな ければならない。

2011年4月23日土曜日

特別支援で「強要」された教師の死    滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(11)

 窪島氏は、人間の身体と精神の問題に次のように書いている。
 たとえば, 人間の自然的,歴史的制約としての側面である,いわゆる受苦的存在として。これは,人間的自由の根拠をなす。 また, 生命体としての人間の存在を静的な状態において支えるいわゆる植物的存在として。 これは生物の生命維持装置としてホメオスタシスを保持する主として自律神経系や内分泌系が司る。このバランスが崩れるとさまざまな神経症や生体の全身の疲はいを引き起こし,死滅に至ることさえあることをストレス理論は教えている。
 社会関係においてもおなじことが言いうる。自立(自律)の根拠でありその源は依存と安心, すなわち信頼にある。積極的な能動性を支えるのは静かな自己意識と自尊感情である。 活動性は休息によってこそ高められる。

一面的な人間の身体と精神のメカニズム

だが彼の書いていることはあまりも一面的すぎないのではないか。
 人間の生命維持装置のバランスが崩れると、「疲はいを引き起こし,死滅に至ることさえあることをストレス理論は教えている。」としながら、このストレスの論理を社会関係でも言えるのであり、「安心」「信頼」「静かな自己意識と自尊心」であり、活動は「休息によってこそ」高められるとしている。
 窪島氏は、休息こそがストレスを取り除く要因であると認識しているようであり、彼は繰り返しこのことを書いている。
 だが、この点でも彼は教育現場や教育の実状を見ていないばかりか、今日の日本における社会を直視していないことが解る。

教職員の過労死・過労自殺を学ばず教育を言う

 karosiなどという表記が国際語となっていることは広く知られるようになったことは悲しむべきことであるが、この表記は日本語の読みに応じて世界各地の言語で表記されている。
 この過労死が労働災害や公務災害として認定されなかった原因のひとつに過労死した人が「休息」「休日」であったことを知る必要がある。
 「疲憊」「死滅」と言いながら、彼は、人間の身体と精神との関わりのメカニズムを理解していない。
 このことは彼の「発達障害」や近年特に強調している「読み書き障害」の精神・神経活動とも関連するので書き留めておきたい。
 発達障害や特別支援教育などをすすめる窪島氏は、次のようなことを承知しているのだろか。

絶対くり返してはならない
特別支援の名の下に死に追いやられた悲劇

 2009年10月27日、最高裁判所第3小法廷(藤田宙靖裁判長)は、地公災基金静岡県支部長の上告を裁判長以下5名全員一致の意見で棄却しました。これで東京高等裁判所の勝利判決が確定しました。
 2000年1月、静岡県小笠郡(現掛川市)の小学校に勤務していた尾崎善子先生(当時48歳)は養護学級担任中、養護学校から養護学級へ転入したいと希望した(教育委員会の就学指導では養護学校がふさわしいとされていた)多動性障害のA君の2週間にもわたる長期の「体験入学」を受け入れました。

( ※ 注 本文にはないが、教育委員会の指導に対して、養護学級の担任は、体験してくる生徒と元学級の生徒との関係をよく知っていて、教育上よくないと強く異議申し立てをしたが、教育委員会が強要した。
 そのため結果的に多動性障害のA君の2週間にもわたる長期の「体験入学」を受け入れました、という文章になっている。

 生徒の状況をよく知る教師の意見をまったく無視して、指導する側の責任者は、教師は殺んでもやりなさいという結果を招いた。
 過労死・過労自殺を引き起こした責任者は公務災害や労災では裁かれず、認定だけを争われる現行法律に問題がある。
  そのため各地で安全配慮義務違反の裁判が行われ少なくない勝利を得ているが、欧米と異なって、日本では過労死・過労自殺に追い込んだ使用者・事業者が殺人の罪を犯したとされないことに最大の問題がある。彼らは殺人者なのである。日本では、このように捉えられないでいる悲惨な現実がある。
 
 この裁判では、うつ病との因果関係や自殺との関わり、養護学級教師の担任の負担を公務災害支払基金側が問題にしたためこのような記述になっている。
 しかし、一番の基本問題は、教育実践をすすめている教師の意見を充分聞かなかったことであるのは明白である。
 これと同様の問題が各地で起きているが、これは文部科学省が、特別支援教育を打ち出したことと関係している。)

 ところがこの「体験入学」により、今までスムーズに出来ていた授業が成立しなくなり、在籍児童と築き上げてきた学級体制が崩されてしまったことから、著しい心身の負荷により「うつ病」を発症しました。
 その後、症状が回復しないため、2000年4月から休職、症状の回復に専念しました。しかし、8月、志を半ばにして「苦しい。もうこれ以上生きていけない」と自ら命を絶たれました。
 ご両親は「公務災害」の認定申請をしたものの、基金支部・支部審査会・基金再審査はいずれも公務災害とは認めず、2004年8月、静岡地方裁判所に「公務外認定処分の取り消し」を求めて提訴。2年半で14回の口頭弁論を重ね、公務災害認定を訴えましたが、2007年3月22日、「原告の請求を棄却する」との不当な判決が下されました。
原告は、東京高裁に控訴し、4回の口頭弁論を経て、2008年4月24日に逆転勝訴の判決が出されました。東京高裁で出された「原判決(公務外災害認定処分)を取り消す」という判決は、画期的なものでした。
 「質的・精神的な過重性」を認めるその内容は、「教員として20年間勤務をした実績ある先生が、うつ病を発症し、自殺にまで追い込まれてしまった本件体験入学の実施の公務としての過重性は優に肯定できる」というように、働く者の立場に立ったものであり、過労死・過労自殺について、今までは『時間量』を中心に判断されていましたが、判決は体験入学など「質的・精神的な過重性」を正しく捉え、「うつ病は、普通の体の病気である。うつ病になりやすい性格とは問題のある性格傾向という意味でなく、むしろ適応力のある誠実な気質と関係している」というものでした。
 それは、教育現場で子どもたちの成長を願い、精神的にも肉体的にもギリギリのところで頑張っている教員にとって、大きな励ましとなるものでした。
 この東京高裁判決に対して基金側は上告を決め、判決を覆そうとしました。
 高裁判決以後、「尾崎裁判」は全国各地から大きな注目をうけ、支援されてきました。
 教員の過労自殺裁判で基金が最高裁まで争い、公務災害と認められたのは全国で初めてです。
働くもののいのちと健康を守る全国センター通信No.126(通巻136号) 2009年12月1日

生徒と教師が健康で安全であってこそ
                教育は成立する

 この事案のすべての経過と教師が死に至った原因と裁判での論争を知るならば、窪島氏が書く「自立(自律)の根拠でありその源は依存と安心, すなわち信頼にある。積極的な能動性を支えるのは静かな自己意識と自尊感情である。 活動性は休息によってこそ高められる。」などとは軽々に言えないはずである。
 しかし、彼はこれらの問題をまったく承知していない。そして、特別支援教育や発達障害についての教師の役割を縷々書きつけているのである。
 
窪島氏の眼中には、
教職員のストレスなどの労働安全衛生はないのか

 かれは、教職員を排除したストレス等の問題を書く。
 教育学において臨床が強調される所以は個々の子どもの自由と安心や信頼に基づく自己意識,自尊感情,自己肯定感などとして語られるその基盤(深層といってもいい)への着目である。教育学にとって必要なことはこれまで教育実践がそれを苦手にしていたという事実の承認と自己批判的省察である。その上で, 臨床教育学の求める教育実践像は,教師の指導性を引き下ろすことではなく,教師と子どもとの新たな関係性を構築する教師の指導性を一層求めることになる。
 この論理は、静岡における養護学級教師の過労自殺事件の公務災害不認定の論理とまったく同一線上にある。
それは、「個々の子どもの自由と安心や信頼に基づく自己意識,自尊感情,自己肯定感などとして語られるその基盤(深層といってもいい)への着目」を教師の指導性に求めているところにあるからである。
 
教師も子どもも「疲憊」「死滅」しない学校

教師も子どもも「疲憊」「死滅」しない学校環境が合ってこそ、教育は成立するとは書かなくなっている。
 いや、書かなくなったのが窪島氏の特徴である。

2011年4月22日金曜日

教師批判をしながら教師を養成している自己はどこへ  滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(10)


さらに彼は、次のようなことを述べている。

 不登校・登校拒否児童生徒に対して, 「学校は来るべきもの」 という教師の常識が鋭く対立した。学校批判の多くは, 「学校は来るべきもの」 という教育(学)の常識が不当であるという外在的批判が中心をなし,教師の願いと苦悩にわけいってその根本における理解を深めるものではなかった。  その根拠ははなはだ情緒的であり, なぜ, 何が不当なのかについての理論的な説明は説得的にはおこなわれなかった。教師のこだわりについて, 教員文化, 学校文化という視点からの教育社会学的研究の成果は制度ないしシステムとしての教師の行動特性の説明として重要であった。
 しかし, 身体的不調を訴える不登校・登校拒否児童生徒を前にして, 「頑張って登校しなさい」 「登校してくれなければ何もできない」 という子どもに対する教師の言動や学校の息苦しさに対して教師の人間的感性,感受性がなにゆえ作動しなかったのかということについての説明としては不十分である。なにより,教師がどのように変わりうるのかということについての見通しを示せなかった。

教師の責任を追求し人間性や感受性を疑う

窪島氏は、「学校は来るべきもの」 という教師の常識を批判し、その根拠ははなはだ情緒的であると決めつける。さらに、「教師のこだわりについて, 教員文化, 学校文化という視点からの教育社会学的研究の成果は制度ないしシステムとしての教師の行動特性の説明として重要」であることする。
 だがこの文章で指摘されるのは、

1、窪島氏は、このような部分のみ実に主語を明確に書くという特徴がある。

すなわち、他は極めて曖昧で、日本語の構文として成り立たないところが数多くある。

2、教師が生徒の登校を前提とするのは、教師の人間的感性,感受性がないとまで言い切り、教師が不登校・登校拒否児童生徒から「学び」「変わって」いないかのようにも書く。

3、だが、少なくとも教育学研究者を名乗るなら日本の義務教育制度や教育制度の「出席」という問題を知らなければならない。日本の義務教育制度では、学校に登校して授業を受けなければ就学したとは見なされないものになっている。

 ここで、窪島氏のためにあえて説明しておくが、義務教育段階の授業を受けることは、すべての授業に出席しないと授業を受けたと見なされないわけではない。


文部省(旧)の出した「おおむね授業の半分以上に出ていないと授業を受けたということにはならない。」という通達があるからである。

そういうことがあるから、教師は生徒たちが登校するよう、出席するように生徒に働きかけるのである。
 これには、生徒の状況を配慮して援助が必要であると窪島氏は言わない。

だだ彼は教師を批判をするだけである。これは彼の批判と言うより非難と言ったほうが適切かもしれない。

4、教師はそのような状況におかれているが、義務教育段階では校長に大きな権限があることも彼は知らない。
 校長が、出席が不足しているとなるとその生徒を卒業させない、原級留置にすることも出来るし、全欠席であっても卒業させる権限を持っていると言うことである。
 これらの校長の権限の行使如何によって、教師が振り回される制度上の問題やそこから生じる現実を彼は見ようともしていない。

義務教育で学ばなくても
終了したと見なす教育制度の是認


5,さらに窪島氏は、「不登校・登校拒否児童生徒に対して, 「学校は来るべきもの」 という教師の常識が鋭く対立した。」時期をいつの時期だとするのだろうか。

 数十年前ならいざ知らず、現在では何らかの民間機関やさまざまな取り組みによって「見なし登校」「見なし出席」がなされ、まったく義務教育を受けない生徒も卒業したとされている。

 窪島氏が責任者となるキッズ○○も学校出席にカウントされるし、深夜の零時前に校門に入り、零時を過ぎると校門を出ると2日間の出席とカウントされるなど現在の義務教育学校では、「学校は来るべきもの」となっていないことを承知していない。
 文部科学省が上記のようなことでも義務教育を受けたと承認してもいいとしたからである。

6,読み書き障害や発達障害などを主張する窪島氏は、これらの事実を知っているのだろうか。

また、このようなことで子どもたちが、義務教育を終了したと見なすことを是認するのだろうか。
 彼は、教育学研究者でありながら、これらのことを一切無視し、教師を批判することに終始している。

方法のみを求める教師を養成した教育学部の責任は

 また彼は、

 教育相談の過程で教師の心性としての壁を感じることはままある。
 教師が,多動(AD /HD) の子どもに対して, なぜ子どもが動き回り, トラブルを起こすのかを理解する前に,すなわち,子どもの状態をよく理解することよりもまず「どうしたらいいか」を知りたがるのはなぜか。

学力は中位であるにもかかわらず, 左右の方向や時間が分からず,友達と約束ができなかったり,鏡文字を書き,言葉や漢字を造語してしまうことで悩んでいる LD傾向のある子どもが高校生になるまで学校で一度として気づかれなかったのはなぜか。

どうしてもアルファベットが書けない中学生が3年生の中頃まで一度もきちんとした教育相談を受けていないのはなぜだったのか(高機能自閉症かLDが疑われる)。

いずれの場合も子どものニーズは決して軽微ではないのにもかかわらず, 教師からの指摘はまったくなされていない。


とまたまた断定する。
 
窪島氏は、「教師からの指摘はまったくなされていない。」とする根拠はどこにあるのだろうか。
 彼は、数十年前からこのような子どものことの相談を受け、アメリカでは「微細脳損傷と呼ばれる子どもたちの状況と一致しているが……」だけでことを済ませていた自己責任をここで頬被りする。
 そして、なぜ多動(AD /HD)などの子どもを究明し、その原因と解決策を提起しないのか。

 それが、窪島氏の研究者としての仕事ではないのか。

 たしかに、近年の教師の中に生徒の行動の原因や教育方法を思考しない傾向は年々強まりつつある。だから教育実践センターの教授の意見を拝聴するのだろう。

 教師自身が、原因と対策を考える能力を持っていたら教育実践センターが行う研修や校内研修に参加はしないだろう。
 窪島氏は、教育実践センターが行う研修や校内研修で教師の主体的判断能力の大切さを話しているのだろうか、それとも「教師からの指摘はまったくなされていない。」を取り上げ、教師の自己責任を問題にし、人権問題としているのだろうか。
 文章からは、後者であるとしか理解できない。

だが、そうではないようである。

先に述べた医療関係者や保護者や教師などに対する「使い分け」をしていることが、講演に参加した人々の話から伺える。
 窪島氏は、なぜ子どもが動き回り、 トラブルを起こすのかを理解する前に、すなわち、子どもの状態をよく理解することよりもまず「どうしたらいいか」を知りたがる彼の県の教師の多くが、彼の所属している教育学部を卒業していることに触れようともしないでいる。
 彼が大学で、教え、養成した生徒が卒業して彼の大学がある県で教師になっている。その教師を批判すれば、自分自身の責任が問われることになる。
 でも、窪島氏の文章には、教育学部の教授として教員を養成した自己責任・自己反省は一切書かれていない。

 このこともまた不可思議なことである。
 
 無責任極まりないとも言える。

2011年4月21日木曜日

少人数学級は生徒・教師を息苦しくさせるか    滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(9)

 ここで、窪島氏は学級編成について述べるが、彼の教育に対する姿勢が如実にに書かれている。

少人数学級の幻想と決めつける

 窪島氏は、
 今, 少人数学級の必要性が語られ, いくつかの自治体で独自に30人学級が実現しつつある。 少しだけ言及しておきたいのは, 少人数学級の実現が現在の教育問題を大幅に解決するかの幻想がしばしば語られていることに関連してである。少人数学級の実現は, 教育問題解決の必要条件ではあるが, 十分条件ではない。
 この部分は、たしかにそうだろう。学級人数は、必ずしも教育内容と同一線上で結ばれない問題があるからである。彼もそのことを充分承知している。
 が、しかし、次のように断言する。
 
 それどころか, 少人数学級はこれまでの日本の学校の教育観と矛盾を呈することになる可能性さえ有している。旧態依然とした関係で子どもに臨むならば,子どもだけでなく教師もともに一層息苦しくなるであろう。少人数学級への懸念として,学級集団と学習集団がことなることを理由にその教育的意味に疑問が呈されることがある。
  しかし, それは, 表面的な違いにすぎない。 6歳の子どもの有する柔軟性は学級集団と学習集団を交代する程度の変化には十分対応可能である。根本的問題は, その際の指導のあり方や日常の学習指導における子どもとの関係の取り方にある。
  単純化していえば, 「学級崩壊」, 不登校・登校拒否,いじめなど今日の教育問題のほとんどすべてが児童生徒数10人から20人の少人数学級であっても生起する可能性はちいさくない。
 このように書くならば前述の部分で彼は、「少人数学級の実現は, 教育問題解決の必要条件ではあるが, 十分条件ではない。 少人数学級の実現が現在の教育問題を大幅に解決するかの幻想である。」と書くべきなのである。

少人数学級になると管理主義が
システム化すると主張

 学級の生徒が多くても、少なくても「指導のあり方や日常の学習指導における子どもとの関係の取り方」が問題となると言うのである。ここでは、なぜか、彼の好んで使うドイツ・オーストリア・イギリス・アメリカの学級人数がまったく引用されない。それは、これらの国では、日本と比べものにならない程の少人数で学級編成がなされているからである。いや、むしろ、先進国と呼ばれている国々で日本ほど過密クラスはない。
 しかし、窪島氏は、この学級数問題で、かれの引用するドイツ・オーストリア・イギリス・アメリカなどを引き合いに出すと「指導のあり方や日常の学習指導における子どもとの関係の取り方」が強調できないため意図的に引き合いに出すことを止めているとしか考えようがない。
 問題は、量ではなく質なんだ。
と彼は言いたいのだろう。
 では、無定量な学級数でも質の高い教育が出来るというのだろうか。
 日本では、ドイツ・オーストリア・イギリス・アメリカと異なって、生徒数やクラス数で教職員定数が毎年変更される教育制度ののイロハを彼は知らないのだろうか。
 しかも、ドイツ・オーストリア・イギリス・アメリカなどの教育行財政は、日本と根本的に違い教育予算は、行政予算とは別立てでつくられていることなども知らないのであろうか。しかもこれらの国では、障害児学校を廃校にしても普通校に入学した障害のある生徒のために障害児学校に使われていた教育予算を投入し、教師以外のスタッフや教育条件を整えていることも知らないのであろうか。
 以降、述べるためにもっと具体的に説明しておかなければならないのは、障害児学校1校を廃校にした予算が約100億であるとすれば、普通校に入学した障害のある生徒のために約100億円が使われるのである。
 この点では、日本の教育行財政制度とは根本的に異なる。日本では、障害児学校1校を廃校にした予算が約100億であるとすれば、約100億円が削減・節約できたとする。
 このようなことを知ると、 彼が先進例と出す国々とのインクルージョン教育、インクルーシブを日本に機械的に当てはめられないことは明確であり、機械的に当てはめられることによって障害児教育予算が削減されることは明白なのに窪島氏はそれは教育学の分野ではないと言い逃れをするのであろうか。まったく、触れようともしていないのである。
 教育では、常識である教育形態と教育内容の関係を彼はあえて切り離して述べる。
 それは、以下のことを書いていることからも解る。

 「特別ニーズ教育」を有する子どもを含むすべての子どもの内面的ニーズや自我の充実に基づく学習と発達の援助的指導を実現することがなければ,少人数学級はまだマシどころか,多人数ゆえの管理の目こぼしさえなくなり,硬軟両面の管理主義をいままでの多人数学級以上に格段に強める危険をはらむという点である。この管理主義は, 事実関係としてのシステム的なもので,個々の教師の主観から独立して作動する。

 すなわち、彼は特別ニーズを有する子どもからすれば、小人数学級になると管理主義がさらに強まり、多人数であるが所以に管理されなかった特別ニーズを有する子どもたちの「目こぼしさえなくなる」とするのである。
 彼は、大人数学級のほうが、特別ニーズの子どもたちが、「見のがされ」ていいと言いたいらしい。 

少人数学級になると
生徒も教師も息苦しくなるとするが

さらに、少人数学級が実現されれば, 「丁寧な指導ができる」 と表現されるその 「丁寧さ」 の中に潜む危険性である。この「丁寧さ」は,子どもの内面,自我,発達的矛盾,信頼などの媒介項を意図して教育的かかわりの中に措定しないならば,子どもだけでなく,教師をも息苦しくさせる。
とまで言い切る。
 それなら、先にあげた彼の国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-( 医学評論 2010年7月 ※ 欧米の例を絶えずあげる窪島氏が、ここでなぜ日本在住者を含まないで国籍を有する国民と限定して他民族、多言語を排除するナショナリズムのテーマを出しているのか大いに疑問であるが。)で、
担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度を人権蹂躙とまで決めつけるのであろうか。担任が、「目こぼし」しているからそれでいい。
 丁寧な指導に潜む危険性がないから、となぜ書かないのだろうか。
 これでは、不確実性の中の確実性としての窪島氏の主張に従うことが、「子どもの内面,自我,発達的矛盾,信頼などの媒介項を意図して教育的かかわりの中に措定」すると言っているしかとりようがない。

教育実践に依拠しない研究を自認

さらに窪島氏は、
  筆者は, 80年代の教育学は決して生産的とは言えない教育学の概念の再検討に向かったととらえている。その一つの特徴は,教育実践から距離を置くという傾向であった。それを,かつて「教育学の危機」 と表現したことがある。その背景に, 子どもの変化とそれに対応し得ない学校教育へのいらだち, 絶望が教育学研究者の中にもあったように思われる。
と彼の教育学が実践から距離を置いていた。もっとあからさまに言えば彼自身の教育学なるものが教育実践と乖離していたということだろう。
 それを教育学一般にすり替えるのはあまりにも問題が多い。
 事実、彼が取り組んできた障害障害児教育に対する研究は、教師にあまり受け入れられることはなかったし、批判も多かった。
 彼は、そのことを素直に認めようとはしないし、批判を迂回したことに対する批判は数多くある。
 しかし、彼は、そこからの脱却を「発達障害」という「新しい用語」に飛びつくことで自らの活路を見出したということが過去の彼の文章と近年の文章をよく読むと推定できる。

40人を越える学級人数をそのままにしてという
 国際的文書や具体例はない、
           と言っていたはずだが

 このことについて、ここでくどくど書くよりかって窪島氏が書いていたことを引用するだけで充分だろう。

教育的統合における"在籍"の問題
 社会生活イコール学校教育ではないのであるから、教育的統合が固有の性格をもつことは当然のことである。
 にもかかわらず、障害児教育ではこの〃あたりまえ"のことが看過されて、地域では子どもも大人も老人もいろいろな人びとがいっしょにともに生活しているのがあたりまえなのだから、学校教育でも、障害のどんな重度の子も健常児もともに学ぶことがあたりまえであるという短絡した議論がすべての障害児を普通学級に在籍させるべきであるということの論拠としていとも粗雑に出されている。
 もう一つその有力な論拠としてもち出されてくるのが国際的動向とやらである。
 ところが主要な国際的動向を概括してみると、教育的統合と社会的統合を混同することやすべての障害児を普通学級へなどという暴論を唱え、障害児教育の意義を否定する傾向が、根本のところで国際的動向に反していたり誤っていることが明らかになる。
 まず次のような問いからはじめるのがよいだろう
。"すべての障害児を校区の普通学級に在籍させねぼならない"と主張する者は誰でもよいが、障害児にたいする医療や教育やリハビリテーシヨンの必要性を否定し、40人を越える学級人数をそのままにして"ともかく普通学級に在籍させることが第一義的に重要である"ことを論証してくれるような国際的文書や具体例を提出してみたまえ、と。

イタリアは20人以下の学級
          でなければならないと

 もっともラディカルなイタリアでさえ障害児を受け入れる学級は20人以下でなければならないという条件をはじめ、多くの条件づくりをその要件としている。
 わが国の場合、「在籍」こそが問題となっていることに注目する必要がある。
 1983年1月の日教組教研集会の障害児教育分科会で、ある県のレポーターは"どう教育するかでなく、どこにいるかが重要なのだ"と主張した。
 学習の可能性と教育的指導の否定、「在籍すること」の第一義的主張は諸外国の議論ではあまりおめにかかることのないものである。
 
ノルウェーは、
普通学級・スペシャルグループ・特殊学級
  で教育されているのが決定的な基準ではないと

ノルウェーでも次のように言われている。「しかしながら、児童が普通学級やスペシャルグループで教育されているかあるいは特殊学級で教育されているかということはインテグレーションの決定的な基準と見なされない。
 インテグレーションは同じ学校ですべての児童を教育させるということでの同一性を必ずしも意味するものでもない。
 インテグレーションの実現にふれて、委員会は、次のように述べた。第一義的関心は児童が彼らの要求にふさわしい教育を得ているかどうか、かつ彼らが積極的で活発な社会的文脈で受容され、参加が認められ、快適さを感じることができるかどうかということである」
(ノルウェーの義務教育における障害児の統合 1982年)。

27年余前の主張と
 最近の主張の
       あまりにも大きな落差はどこから…

さらに窪島氏は、別の項目で、

近年、障害児といわれない子どもたちの中にも特別の教育的配慮を必要とする子どもが増加している。
 障害をもつ子どもはより多くの"特別な教育的二ーズ"をもっている。障害と発達あるいは地域的特殊性などからその"二ーズ"の内容はきわめて多様であるし、また障害児教育にかぎられない一般的教育要求につながるものも少なくない。
 たとえば、小・中学校の一学級児童・生徒数の標準を減少させることなどはそういう類いのものである。
 イギリスにおいては現状において普通初等学校で1学級30人前後であり、かつ補助教員をおいているところもあるが、教員組合は障害児を普通学級に受け入れるにあたってさらに教育諸条件の充実を強く求めている。
 ノルウェーでは初等教育では、1学校が120~250人規模、1学級20~23人が普通とされている。
 わが国においては障害児教育諸学校や学級の人的・物的教育条件はきわめて不十分である。
 障害児の教育は障害や健康へのとりくみと不可分である。
 障害と健康上の問題に適切にこたえることができるように、学校の中で医療的、福祉的機能を強めると同時に、地域における医療的・福祉的社会資源を充実しそれらとの連携を強めることが重要である。
 統合には一般に理解されているように、障害児を健常児の中へ統合することだけでなく、いわゆる縦割行政の克服を含んで諸制度、諸サービスの統合、諸分野の専門家の統合(連帯ないし相互協力)ということを含んでいる。
 関係者がこうした統合を実現する力量をもつことが、諸外国のインテグレーション論議の中で強く主張されている点でもある。
 これまでのように自己の狭く限定された分野での専門性でなく、他分野との結合を進める力量をも専門性の中身と考えることは重要である。
 そこには当然社会科学的認識と洞察の力量が含まれるであろろう。
 他との連関を欠いた狭い「専門」的技術は克服されねばならないが、それへの反発のあまり、専門的力量ないし専門家の存在を否定し、それに"素人"を絶対化して対置することは誤っている。
 専門職(の力量)とは何かということを前述の諸点とのかかわりで明らかにすることこそが重要なのである。
 (以上、障害児教育妨害者の「理論」批判 完全参加を目指す教育 全障研出版 1983年8月1日)

恣意的・主観・曖昧が貫かれているが   滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(8)

 滋賀大学教育学部窪島務氏が、日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』(2002年12月季刊)で書いた「LD・読み書き障害の発達的理解・アセスメント及び指導法の探求」について考察してきたが、彼の文章には論旨・論拠もなく、ただ思いつきの文章を書き、組み合わせているだけにすぎない。
そのため、研究者としての節度ある文章として考えられない部分が多々あることを明らかにしてきた。

自己不安を転化する考え

 これは、彼だけに見られる傾向ではなく「日本特別ニーズ教育学会」に参画しているいわゆる研究者と言われる少なくない人々にも見受けられる。そのため窪島氏は、自説に安心感を抱いているのであろうか。
 安心感は、不安感と表裏一体のものであることが多く、窪島氏は自説の不確かさに不安感を抱いているが所以に分散的な文章を綴っているとしか考えようがない。そのため以降、彼の言わんとする不確かさの本質に迫ってみたい。

子どもを取り巻く環境を無視した「ニーズ」

窪島氏は教育に困難や問題があるのは、

 単純化すれば, 困難や問題が生じるのは, 教育作用が子どものニーズに合っていないからであり, 子どもはニーズに即してあるべき教育を要求する権利を持っている,
ということである。

と決めつける。そして彼の言う「子どものニーズ」に合っていれば、教育に困難や問題が生じないと決めつける。
 では、今日の教育における困難は、子どものニーズに合っていないから生じるのだろうか。
教育内容や教育そのものに問題を抱えていることも事実だが、彼は、子どもたちの生活基盤や社会基盤をまったく軽視している。また、触れようともしない。
 そして、ユネスコのサラマンカ声明を持ち出してくる。このユネスコのサラマンカ声明についての評価は、別にして窪島氏らはしばしば自己主張に都合のいい国際的なと入り組みを引き合いに出す。
 ユネスコのサラマンカ声明は、国連加盟国の約半数の参加での声明であることやサラマンカ声明に反対した国々の取り組みなど窪島氏の眼中にはない。
 それどころか, 国際的な人権宣言,教育権宣言, 権利条約を想起していることも,権利性の主張を内包していることを示している

として彼の手中にある国際的動向を主張するのはより客観的な国際動向の把握とはとうてい言えないことだけをここで指摘しておきたい。

綴られている具体性のない文章から見えるもの

 さらに彼は、ユネスコのサラマンカ声明の一面を捉えて、

  日本の学校はそれに加えて, 行動形成, 「人格形成」 に特別のアクセントをおいている。その意味で,社会化としての人間形成学校としての性格を色濃く有している。「特別ニーズ教育」はそれを否定するものではなく, その枠組みを広げ,子どもの全体性を視野に入れ, それを子どものニーズから再構成しようというものである。それは,これまでの学校教育観を相対化し, 子どもの内面, 情動, 自我のあり様へ関心を向け 「教科と行動を教える」 という学校教育のイメージを大幅に乗り越えることを主張することになる。

と書いているが、このことは具体的に何をさして、書いているのかまったく不明である。彼は、具体的例として次のようなことが、書かいたつもりのようである。

 最近話題になっている「小1プロブレム」を例にとれば,学校教育がすでに形成されていることを前提として想定してきた学習レディネスや対人的関係や距離のとりかた,集団への参加の方法と能力の形成そのものを学校教育の課題とすることになる。 6歳で, それは当然成立しているべきものであるという観念を前提とすれば,そうでないものに対する対応は治療教育的である。 しかし, 多くの子どもがそれを必要とし, それへの対応なくしては学校教育がたちゆかなくなっているとすれば, それは単に治療教育的ではなく, 標準的で正統的な学校教育の課題である。

ここでは、彼はいかに今日の学校の現状を見ていないかを露呈している。
マスコミなどでさわがれている「小1プロブレム」なるものは、小1だけに生じているのではない。今日の小学校では、「学級崩壊」に伴い教職員の精神衛生(メンタルヘルス)が問題になっているが、それは、教師個人の教育力や実践力だけに責めることは出来ない問題である。

いのちがけで学級崩壊に
       立ち向かわされている教師

 教師が、黒板に向かうとさまざまなものが投げつけられ、ケガをする等々のことが絶えずあなどなどの学級崩壊が教師個人の責任とされ、精神疾患を患うばかりか、早期退職する教職員の数は年々増加の一途をたどっている。
 また過労死、過労自殺する教職員も増加の一途をたどり、少なくない事案が裁判で争われている。この裁判の中で、担任教師や管理職がいわゆる「発達障害生徒」や特別支援教育の名の下に極度な責任追及と負担を強いられていることは裁判例や判決文の中で明らかにされている。
 ある府県の10年前の調査で、早期退職する教師のほとんどがこれらの被害を受け、その被害を明らかにすると教え方が悪いのだとされやむを得ず早期退職している実態が報告されている。
 調査によると女性教師の早期退職が一番多く、その平均年齢は48歳であった。
 これらの教職員の労働衛生の実態から想起できるのは、生徒も教職員も過酷な状況に置かれている、教職員や生徒集団の連帯や協力が希薄になっているという事実であり、マスコミが取り上げる「小1プロブレム」は、問題の一角でしかないことは明白である。
 窪島氏は、これらの実態に対してあまりにも淡泊でありすぎる。むしろ、まったく考えようとしないで、書いている。
 しかも、もともと日本の教育制度が入学準備の段階以前に多くの問題があることを以前から指摘されてきたことが、より深刻な状況として捉えていくべきなのが、この「小1プロブレム」なのであろう。

教育の移行期に生じる問題もより深刻
            だが背景の分析はしない

 小学校6年生から中学校1年生への移行の時期。中学校3年生から高校1年生(高校に入学出来ない生徒も多くいるが。)への移行の時期。高校3年生から大学1年生(大学に入学出来ない生徒も多くいるが。)への移行の時期。
 この時期の時期の短さは、9月入学の欧米と比べて以前から問題になっていたはずである。
 窪島氏の言葉を借りるならば、、最近話題になっている「大学1プロブレム」は、大学が、学校教育がすでに形成されていることを前提として想定してきた学習レディネスや対人的関係や距離のとりかた、集団への参加の方法と能力の形成そのものを大学教育の課題とすることになる。
 ここでも、彼は自らの属する教育学部で抱えている深刻な課題を脇に置いて文章を書き、自らの大学で解決してきたことを例示しえないでいる。
 彼は、自分自身が、大学教授であり、教育実践者であることを忘れているのかもしれない。

インクルージョンなどの意味を真に知っているか   滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(7)

 続けて窪島氏は、
 すなわち,障害を有していたり,その他の特別な教育的ニーズを有する多くの子どもが通常学級にいるということである。この異質集団をあるべき学級として理念化したものが, インクルージョン教育,インクルーシブ学級である。
 しかしながらインクルーシブ教育のハイライトは制度問題ではなく,カリキュラム問題,教育課程程問題である。すなわち, 重度の知的障害(「すべて」のという修飾語を冠するかどうかも問題である)を包摂(インクルード)してすべての子どもの学習と発達を保障するカリキュラム教授方法はいかなるものであるのか,またそれは可能であるのか, 実践上の争点となっている。もちろん, そのことが直接に一斉授業の否定につながるものではない。一斉授業が悪であるという評価が一斉授業=画一的であるという誤った観念の上に形成されている疑いがある。

教育制度と教育内容に対する無知識の危険


彼は、ここでも集団の概念を曖昧にしている。それは、学校内に障害児学級が設置されていた場合には、基礎単位集団として障害児学級を捉えることが出来るし、学校集団を基礎集団として捉えたならば、異質集団とも捉えることが出来る。
 それらの基準を何ら明確にすることなく異質集団を論じようとしている。そればかりか、「インクルーシブ教育のハイライトは制度問題ではなく,カリキュラム問題,教育課程程問題である。」とも書いている。
 彼は、日本では教育制度上の問題が、カリキュラム、教育課程と同一線上に置かれて取り扱われていることも知らないのである。カリキュラムとカリキュラム教授法などの言い方をしているが、言いたいことは教育内容と教育方法なのではないかと考えられる。日本の教師たちは、学習指導要領の法的拘束性という縛りの中で教育課程を編成せざるを得ない現実に置かれてきた。だが、その教育課程の下で、創造的な教育実践が行われ、法的拘束性の名の下の非科学的教育方法が行われてきたことは承知していないようである。

今日までの教育実践を
全面否定する危険な主張

 ここで明らかに出来ることは、窪島氏の硬直した思考である。
 彼は
1、「障害を有していたり,その他の特別な教育的ニーズを有する多くの子どもが通常学級」で教育を受けてきていたと事実をまったく見ようとしない。
2、「障害を有していたり,その他の特別な教育的ニーズを有する多くの子どもが通常学級」で教育を受けてきていたのは、戦前、戦後に数多く見られるが、その教育保障のほとんどが行政的裏付けなしに教職員の努力によってすすめられてきた。
3、そのため教職員から、子どもたちの教育を保障するためのさまざまな改善・改革提案がなされ、少ない改善・改革を教育行政が受けとめざるを得なかった。
 などのことをまったく考えていない。彼の思考は、ドイツやアメリカやイギリスやユネスコから日本の教育を見る外国輸入教育思考であるとも言えよう。さらに、その思考は、外国輸入と同様に文部科学省からみた思考形態で一致している。

教師の責任と人権蹂躙を主張することが
すべての子どものニーズの配慮に繋がるか

 以下、彼は同様に教育実践が行われている学校現場からの視点は見受けられない。
だから以下のように断定したことを彼は書いている。
  ユネスコのインクルージョン教育の提唱は,単に学校理念の提示にとどまらず,教育方法にまで踏み込んでいることが特徴である。いかなる一斉授業であってもそれだけでは特別な教育的ニーズを持っている子どもの学習保障には不十分であることが含意されている。
 日本の学級は実は異質集団であるにもかかわらず, 等質あるいは同質であるという虚構の上に構築された教育実践と教育学によって, 質の差を問わない 「ちがい」 に押し込められてきた。少なくても, 今日の日本の学校が, すべての子どもの 「ニーズに応じる」 ことができる歴史的段階になく, 限られた行財政制度の中で様々な教育施策に優先順位が必要とされる歴史的に制約された社会状況にあって, 「特別なニーズ」 の強調はさけがたい。逆に, 特別なニーズに対する社会的合意が成立するところで, すべての子どものニーズに対する配慮が広がる可能性がうみだされる。

行政改革の名の下に
教育荒廃を引き起こす理屈と符号


窪島氏は、
1、ユネスコは、一斉授業であってもそれだけでは特別な教育的ニーズを持っている子どもの学習保障には不十分であると提唱している。
2、日本の学級は、等質あるいは同質であるという虚構の上に構築された教育実践と教育学によって押し込まれてきた。
3,逆に, 特別なニーズに対する社会的合意が成立するところで, すべての子どものニーズに対する配慮が広がる可能性がうみだされる。
という硬直した思考である。彼は、質の差を問わない 「ちがい」 に押し込められてきた責任を教師に求め、教師の人権蹂躙と断定するのは、このような思考から生み出されている。
彼は、過去の教師の実践的蓄積と成果や教訓を評価する土台のうえに「特別なニーズ」論なるものを書くのではなく、過去の教師の実践的蓄積と成果や教訓を全否定して、自らの主張する「特別なニーズ」を進めることで「すべての子どものニーズ」も配慮されるのだという。
 窪島氏の「特別ニーズ」による「一点突破」で子どのたちの配慮がなされるという背景には、それまでの教育実践を否定して新たに作り直すという破壊して新たなものを創造するという考えが見られ、まさにそれは日本政府の「行政改革路線」と符号が一致する。

2011年4月20日水曜日

国際比較の前提を整えない比較   滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(6)

 1979年の養護学校義務制に向けて激しい論争が日本で行われた。
 当時の論争における養護学校を否定するか否かはともかくとしても、ある府県の調査によるとさまざまな問題があるが、就学適正委員会が「障害児学校」としても障害児学校にも障害児学級にも入学・入級しなかった子どもたちの人数が障害児学校・障害児学級の3倍以上であったことも窪島氏は承知していない。
 さらにそれらの子どもたちの学習状況をも把握していないのである。

比較する国々の基礎条件を整えないで
「比較」する「研究」

 国際比較としながら窪島氏は、最低限それぞれの国の概念基準にそろえて比較検討するのが研究者として常識事項だろう。だが、彼は、アメリカやドイツやイギリス。ユネスコの統計を見ても文部科学省の障害児学校・学級の項目しか眼中にないと考えられる。
 毎年、5月1日の全国の生徒の在籍調査などを含めた基本統計を読みこなせば、少なくとも普通学級(彼は文部科学省が通常学級という通達を出したとたんに普通学級という用語を自ら投げ捨ていた。日本の教育制度には、通常学級という用語はない。)で、アメリカやドイツやイギリスで対象とされる障害児がどれくらいの比率で教育を受けていたか把握できる。
 特に保健調査や各種学校調査をクロスさせれば、さらに詳細に把握できるし、彼の得意分野であるとするドイツの概念に変換して比較することも可能である。
 文部科学省の統計のあやふやさを問題にするのなら、文部科学省の「発達障害」の概念を肯定するのは納得のいかないことである。

調査方法に潜む
大問題も知らずに単純比較する

「教育とはもともと実践以外のなにものではないのであるから,教育が実践性を有するのは当然のことではな,いのか, という疑念が呈されよう。理論上はその通りなのである。」と窪島氏が主張していることは先に述べた。彼が、実践以外のなにものでもない、とするならば、文部科学省統計の基本調査である学校やその調査にあたった教師にその調査の実状を聞いたことがあるだろうか。
  聞きもしていないで、文部科学省の調査結果だで判断していることが窺える。なぜなら、ある県の教育学部の教授は文部科学省の統計や各種結果が発表された時に、必ず学校の教師たちに尋ね、調査結果と照合していると報告されている。そのことから、この教授は、学校と充分密接な関係を持っていることが解る。
 なぜなら、文部科学省の統計や調査資料報告を鵜呑みに出来ないことは、学校教育の実践者たちは充分承知しているからである。
トップダウン方式の調査に学校の教師は振り回されている
 文部科学省の調査書などは、文部科学省から各都道府県教委。各都道府県教委から各都道府県教委・各市町村教委。それから、学校長へ行き、各学校の担当者か、他の管理職が記入する。
 記入され結果は、逆のルートを通ってまず府県レベルで集約され、文部科学省に報告される。その集約結果を文部科学省が発表される。
 このルートの中では、幾重にもチエックがかかり、訂正・改変されることが非常に多い。このことを、ある県の教育学部の教授は知っているが所以に調査の基本単位である学校の教師たちに尋ね、文部科学省の統計の信憑性を確かめて研究論文を書いている。
 少なくともこのような調査の実状を知っているならば、文部科学省の調査結果だけでことを論じることはないはずである。
 トップダウン・ダウンアップの調査方法には、大きな矛盾がある。ある問題に絞った調査は、チエックがかかるが、その他ではチエックがかからないということことがある。そのため調査報告の整合性と矛盾をクロスさせると意外に実態が把握できるということがある。

アメリカの数値を基準に
近づけようとする無謀な考え

 窪島氏は、文部科学省の発達障害の数値の把握がアメリカなどとあまりにもかけ離れている。普通校では、発達障害児はもっと多いはずだと決めつける。
 それなら、文部科学省がどのような方法で発達障害児の調査をしたのかを各学校の教師たちに聞いてみるべきだろう。
 どのような調査項目で、どのような中味であったのかを。現在では、情報開示がされているのでそれらの資料を入手出来るはずである。それらのことをしないで上辺だけの調査結果で論じるのは、科学的とは言えない。では、これらの調査上の問題は、日本だけかも考えておく必要があるだろう。
 比較できないもので、比較する。この記述は窪島氏の文章に貫かれている。
 研究者が、研究しないで文部科学省の調査結果だけで論じる自らの立場に恥じることもないようである。

普通校で学ぶ障害児の実状すらも
見ていなかった「障害児教育学」

 今や障害児学校と障害児学級に在籍する障害児より普通校に在籍する障害児のほうが圧倒的に多い、と書くと、窪島氏は、それは単に在籍しているだけにすぎないと断定するだろう。
 だが、それは学校で悪戦苦闘しながら教育実践している教職員への侮蔑でしかない。
 彼の過去の研究報告には、これらの研究がないだけであって、普通学級に在籍していた障害児の教育実践は、障害児学校・学級での教育実践よりはるかに多い。
 それは、窪島氏は、教育学とか障害児教育学とかを自分の専門分野と自負していた頃に、障害児学校や障害児学級だけに目が行き、全体の教育の中で障害児がどのような教育を受けていたかすら知らなかったという自己証明でしかない。

文部科学省を批判しているが
内実は評価・賞賛する

 窪島氏は、
  文部科学省は一貫して障害を有する子どもが通常学級に在籍することを否定しているが, これらの数字は, 日本が障害児に対して「分離的」 であるという一般的通念に反して, この国の障害児教育は量的な面ではきわめて「未発達」であること,逆にもっとも素朴で未発達な形態でのインテグレーション,インクルージョンが支配的な国であることを示している。
 
 と書き、「文部科学省は一貫して障害を有する子どもが通常学級に在籍することを否定している。」と断定するが、文部科学省の資料に普通学級に在籍している障害を有する生徒が都道府県別に集約されていることも知らないである。
 さらに文部科学省の研究報告には、障害を有する子どもが通常学級に在籍する教育報告も少なくない。
 もしも、彼の言うように文部科学省が障害を有する子どもが普通学級に在籍することを一貫して否定していたとするならば、1960年代半ばから文部省(当時)が取り組んだインテグレーションを彼はどのように説明するのだろうか。
 彼は文部科学省の硬直した姿勢を批判するようでいて、現実的には「ではそれならば、文部科学省は、障害を有する子どもを障害児学校や障害児学級で教育出来る条件整備をしてきたのか。すべての障害児を受け入れる学校や学級をつくってきたのか」という問題には答えきれないだろう。
 なぜなら、文部科学省は障害児学校や障害児学級の設置には、一貫して消極的であった現実がある。
 文部科学省は多くの障害児が普通校に在籍していることを黙視してきたのが現実だろう。
 彼は、文部科学省の硬直した姿勢を批判しているようで、現実には障害児学校・学級設置に極めて消極的だった文部科学省を、まるで積極的に障害児を受け入れる教育上の条件整備をしてきたかのように「美化」しているのである。
 だから、彼の大学のある県で、障害児学校の統廃合がすすめられている現実を直視し、書きもしないのである。

2011年4月18日月曜日

国際・国内論議を見極めと主張していたのが…   滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(5)

さらに窪島氏は、
 先取りして指摘するならば,一つに,ニーズという子どもの主体的視点を提供すること,二つに,「不登校・登校拒否にはこうしてください」, 「LDには…」, 「ADHDには…」などというように様々な「特別ニーズ教育」の諸領域がばらばらにその個別的要請を通常学級(教師)に突きつけるという現状から, 「特別ニーズ教育」 として共通する基礎的な教育的配慮の内容・水準を明らかにすることである。
「特別ニーズ教育」 の基本は, すべての個別的ニーズに通底するということはわれわれの最近の発見であった。
と書いているが、彼の最近の文章には、「特別ニーズ教育 として共通する基礎的な教育的配慮の内容・水準を明らかにする」ものはなく、逆に「諸領域がばらばらにその個別的要請を通常学級(教師)に突きつけるという現状。」が突出している。
まずここでそのことを明らかにしておきたい。

虐待・人権蹂躙を「御旗」に担任を苛む

 彼は、次のようなことを書いている。
滋賀大キッズカレッジのアセスメントでは、音韻意識にも蹟きが認められた。すなわち、ひらがなの読み、書きでも特殊音節で困難が起きる程度の重度の読み書き障害である。対人関係に問題のない学習障害である。
 ところが、そうした保護者に対して、担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度で保護者は相談のしょうがないと考え滋賀大キッズカレッジにたどり着いた。
 こうした事例が今年に入ってから相次いでいる。
子どもの困難さと保護者の心配に対するこうした「否認ネグレクト」は決してまれな例ではないが虐待の一形態であるとするなら、子どもの困難と保護者の心配のネグレクトはまさに虐待というべきものであり、子どもの人権の蹂躙に他ならない。
(国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に- 医学評論 2010年7月)

 彼は、担任する生徒が「重度の読み書き障害」があることを知らないでいることに対して、保護者の相談をネグレクトしたとして、ネグレクトは虐待であり、子どもの人権蹂躙であると結論づけている。
  「お母さん、気にしすぎです」と担任が、どのような話のやりとりの中で言ったのか、どのような場面で言ったのか。
 人権蹂躙であるとするならば、担任とどのような連絡と話をしたのか、また担任にどのような教育実践上のアドバイスをしたのか等々がまったく書かれていない。
 すなわち、保護者との会話で担任の言った、「ひとこと」、を保護者から聞き、その「ひとこと」は、虐待であり、人権蹂躙であるとしているのである。

人権蹂躙を教師に突きつけ
支配し、従わせる手法

 このようなことでは、教師は保護者と自由にものが言えないばかりか、保護者や子どもたちと自由に会話することで、自らの過ちに気がついたり、反省したり、学校内や専門機関に相談する余地さえ与えないことになる。
 教師を「もの言えない状況」にしておいて、読み書き障害の理解を追求するという姿勢が見受けられる。
 窪島氏らは、人権を守る旗手であり、その下に従わなければならないということまで言いたげな文章を、医療関係者などには知らせているのである。
「個別的要請を通常学級(教師)に突きつける」ことをしていたり、考えていながら他方では、『個別的要請を通常学級(教師)に突きつけるという現状から, 「特別ニーズ教育」 として共通する基礎的な教育的配慮の内容・水準を明らかにする』などの考えを書いているのである。
 だが、一方窪島氏は教師などが読む季刊「ひろば・京都の教育」第130号(2002年5月)で、

 この場合の「特別なニーズ」は、一人ひとりの個別的ニーズと言い換えてもいいでしょう。
 問題の核心は、子どもたちがそこからくるさまざまな困難から、学習や友だち関係などで深刻に苦しみ悩んでいる、ということです。
 子どもはわからない、伝わらない、思っているようにできない、わかってもらえない、ということをさけるため、はしゃいだり、ちゃかしたり、暴れたり、学校に行くことをいやがる、という行動をとることがあります。
 その表面的な現れにとらわれることなく、行動に込められた子どもの悩みや苦しみ、発達要求を読みとってあげなければなりません。ここをしっかりとらえることが重要です。
 しかしまた、この問題は教師だけでは十分な対応をすることができません。
 教育相談、医療など学校外の専門機関との連携をしっかり作っていくことが大切です。

と「問題は教師だけでは十分な対応をすることができません。」と書き、「教育相談、医療など学校外の専門機関との連携をしっかり作っていくことが大切」としているのである。
 医療関係者などと教師たちに対する主張の大きな落差は、彼が研究者の信念に基づく考えを説明していないことはこの対比だけを見ても明らかであろう。
 季刊「ひろば・京都の教育」第130号(2002年5月)で書いていることから考えるならば、滋賀大キッズカレッジにやって来た保護者に対して、担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度から、担任をなじらず、教育相談、医療など学校外の専門機関との連携をしっかり作っていくこととして書けるはずである。
 だが、そうではない。
 ここに彼が、学校や教師と保護者を必要以上に対立させようとする扇動があるのではないかと考えざるを得ない。

比較する基礎が異なる「諸外国比較」

 さらに彼は、
第1に, 日本の通常の学級は,一般に意識されているように,等質集団あるいは同質集団で組織されているのではない, ということである。特別な教育的ニーズという視点から見たとき、端的に日本の学級は異質集団から成り立っているという認識から出発しなければならない。 日本の学級が異質集団であることの概略は国際的な統計の比較としても示される。
と書いているが、それは彼自身が「意識」していることであって、「一般」化するところにすり替えがある。等質集団・同質集団とは、具体的にどのようなことを言うのか。彼は、教育における「質」とはなにかを一切定義づけない。
 もしも、日本の学級が同レベルやそれに近い学力集団として、一般的に「意識」されているとするならば、窪島氏の日本の普通学級に対する見識があまりにも欠如していることにもなるし、学級集団が一定の学力水準を維持できていないことに対して教育実践上の研鑽を重ねてきた教職員たちに対する「侮蔑」としかとれない。普通学級に対おする常識的知識を持ち合わせていない窪島氏は、それを日本の実状で分析するのではなく外国の資料を取り込むことで自らの非常識ぶりを粉飾する。
  彼は、国際比較を持ち出す。障害児教育 (special educaton)と書き、special educatonを障害児教育としている。なぜあえてspecial educatonと書きながら特殊教育と訳すことなく、わざわざ障害児教育とするのか。ここでも窪島氏の無数の粉飾が折り込まれている。そして、読み手に対して、諸外国ではこうなんだ、と言わんばかりの手法を取りい入れる。ここにもまた彼の不安定で不確実な主張が見てとれる。

アメリカで障害児教育 (special educaton) を受けている子どもは学齢児の約10%, ドイツで障害児学校の教育を受けている子どもは約4%,オーストラリアで障害児学校の教育を受けている子どもは約 1%, イギリスで特別の教育的ニーズを有するとされる子どもは20%, ユネスコは同 10%などであるのに対して, わが国では障害児学校の教育を受けている子どもの比率は2001年度において0.44%, 障害児学級の教育を受けている子どもが0.68%,合計で1.12%である。

 このような文章を窪島氏は至る処で書くが、アメリカの概念、ドイツの概念、イギリスの概念、ユネスコの概念がそれぞれ異なっているのに数値的比較だけで、述べようとする強引さがある。
 そしてその比較の対象として、日本の例は障害児学校と障害児学級の数値だけをあげる。この彼の非実践性に、彼の今までの障害児教育研究なるものの非科学性がある。

国際的国内的議論を
  見わけ検討するべきと言っていたのに…

 かって窪島氏は、
 一部マスコミも含めて、障害児にたいする特別の教育制度や方法を整備し、提供することを否定し、すべての障害児をまったく健常児と同じく、普通学校の普通学級に在籍させることこそが国際的な前進方向であり、わが国における養護学校教育の義務制施行や障害児の発達や健康状態や障害の様態にふさわしい教育の場と必要な条件を保障しようとする努力のすべてを国際的動向に反するものであるかのように描き出そうとする意図があるなかで、国際的動向を視野に入れながら教育的統合の意義を明らかにすることは重要なことであると思われる。
 また統合問題に関する国際的国内的議論を見わけ検討する場合の重要な視点として、社会的統合と教育的統合(教育における統合)という二つの統合を区別しかつ相互の連関において総合的にとらえることが重要であることを提起する。
 この論点は障害児教育にかぎらず、一般に子どもにたいする社会の人格形成作にたいして、教育、とくに学校教育の固有の役割を明らかにすることや両者の関係の問題と同じ領域のものであり、教育学的認識の基本をなすものの一つである。
 ところが、この点が一部の人びとの場合、障害児教育における統合問題の中であいまいにされることがじつに多いのである。(障害児教育妨害者の「理論」批判 完全参加を目指す教育 全障研出版 1983年8月1日)
としていたが、このような考えはどうなったのであろうか。

2011年4月10日日曜日

外国語を使う粉飾で自己主張   滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(4)




 さて、ブログの制約で窪島氏の問題を羅列して述べてみよう。かれは、しばしば、ドイツ語・英語・カタカナ表記を文中に導入して、さも専門的な考え化のように粉飾するが、日本語として意味がしばしば通じないことが多い。

根拠もなく
もっとも困難であると決めつける

 「教育とはもともと実践以外のなにものではないのであるから,教育が実践性を有するのは当然のことではな,いのか, という疑念が呈されよう。理論上はその通りなのである。」「もともと, この題は学校教育に限定されるものではないが, ここでは臨床教育学が主として学校教育に関連して問題になっているということを考慮して焦点を学校教育におく。」「またそれは, 臨床教育学の提起が、学校教育においてもっとも困難であると考えられることからもあえて学校教育をとりあげる。」と書いている。彼は、「学校教育においてもっとも困難であると考えられること」をどのようなことだと考えているのだろうか。
 この彼の考えには、すでにあとでの述べる矛盾がある。
 「特別ニーズ教育」 の主たる領域が通常学級であるにもかかわらず, 通常の教育(学)においてまだ十分に注目されているとは言いがたいことである。 この事情は, 海外においても同様である。こうした構図の矛盾に視線を向けることが,今日の学校教育の実態と要請を捉えるために必要である。

曖昧で変幻する窪島氏の「新造語」

 彼は、「特別ニーズ教育」という用語をしばしば使うが、この用語は正確なのであるだろうか。
 なぜ、ニーズだけ日本語にしないのであろうか。
 ニーズ【needs】を単純に訳しても「必要。要求。需要。」となる。
 では、特別要求される教育ということになるのであろうか。
 ところが彼は、ニーズ(needs,Bedarf)とは,藤野渉が指摘しているように,欠如・不足であり,それを埋め合わせようとする必然性を伴う欲求であり,要求である。とか、「特別ニーズ教育」 の基本は, すべての個別的ニーズに通底するということはわれわれの最近の発見であった。とか、「特別ニーズ教育」 の内容を構成するのは, (1) ニーズの特別さの認定, すなわち一般的な個性としてのユニークなニーズにとどまらない,特別な(special),特異的(specific)な学習上・発達上のニーズ,(2)ニーズの社会的文化的特性の認定,すなわち社会, 文化, 制度などの違いによる差異, (3)個々人の教育的ニーズへの関心, すなわち個別性, (4)インクルーシブ教育, すなわち学級集団を単位とする児童中心主義的教育課程, カリキュラム構造への挑戦, (5)障害を有する子どもの固有の教育課程や教育条件へのニーズの認定, すなわち特別教育(最近の文部科学省の新しい用語では「特別支援教育」), (6) 教育的ニーズ以外のニーズの存在の想定, すなわち教育的ニーズと福祉的, 医療的ニーズとの統一, たとえばスクール・ソウシャルワーカーなどである。とか、のべて、「特別ニーズ教育」をしばしば、粉飾の用語として使っている。ようするに、彼は、自ら使う「特別ニーズ教育」用語の概念を整理できないでいるのである。これは、先に述べた「まず、第1に、欧米の研究状況を把握し、その到達レベルを吸収すること」といった諸外国に依存した概念を日本に持ち込もうとしている帰結でもある。
 模倣とも言えるこの「教育的ニーズ」なるものは、窪島氏だけではなく、彼と同調する研究者たちにも見受けられる。

「教育における特別なニーズ」
      (Special Needs in Education)

 彼がしばしば使っている「特別ニーズ教育」という言葉は、1980年8月にイギリスの労働党が政権を奪取してから、検討され、公表された「ウォーノック委員会報告の答申」に由来していると考えられる。
  「教育における特別なニーズ」(Special Needs in Education)である。
 ところが、この言葉は日本の一部では、無制限に使われ、特殊教育から特別支援教育へという言葉で「新用語」「新教育用語」として使われているが問題はその日本語の訳し方や、使い方である。
 もともとSpecial Needs in Educationは、 Educationのことばの語源であるラテン語(ギリシャ語)に密接に由来しているが、ここではそれについては触れないでおく。
「教育における特別なニーズ」という言葉と「特別なニーズ教育」という言葉には、大きな差異が見られる。
 前者は、「教育の中にある特別な課題」と受け止められるだろう。ところが、後者は、「特別な課題がある教育」となる。
 すなわち、特別な課題を見出さなければならないということになるのである。ここに窪島務氏の主たる主張があるようである。


子どもの見えない「サイン」 は推定しない

 これは、よく子どものサインを見出さなければならないという論理とよく似ていて、子どもがサインを出すものだと決めつけて、そのサインを見出せないでいた、る、と教師を責め立てる論理とよく似ている。
 そこには、子どもたちが、サインを出さない時もあると言うことは、「想定」されていず、そういうことがあっても「想定外だった、と済まされてしまうのである。
 しかし、彼は「教育的ニーズ」ではなく「教育における特別なニーズ」という概念をも使う場合がある。
 「その共通の内容は, すべての子どもがそれぞれ固有のニーズをもっていることを前提にして, 通常の教育条件(ある一定の社会的条件における教育に関する条件整備,カリキュラム,教育方法,教師の資質などすべての要因を含む) の下では学習や発達を保障できないほどの大きな学習, 発達の困難を当該の子どもがもっているとき,その子どもは特別な教育的ニーズを有しているという。」と文章で書いている。
 
教育における全体と部分の歪曲

 この理解は正しいのだろうか。
 Special Needs in Educationから考えられるのは、「すべての子どもがそれぞれ固有のニーズをもっている」。しかし、「その子どもたちの中で特別な必要性を持つている子どもを見出し、特別な教育方法をもちいる。」というのが、「ウォーノック委員会報告の答申」であり、その答申にはそれを実現するための条件整備が付加されていないという立場からの反対意見も掲載されていた。
 だが、窪島務氏は、子どもたちに全体のニーズを把握して、特別必要とする子どもたちには教育手立てを講じるということが理解できていないのではないか。
 もっと解りやすくいうならば、全体と部分を把握して、相互関連を打ち出したイギリスの教育改革から出てきた用語を彼は、部分だけ取り出して強調することに陥っている。
 そのため、彼は教育現場に極論と混乱と対立を教育実践に持ち込むことに平然と述べ、窪島氏のことを知らない人々に対しては、自分の過去の研究と「主張」をすべて消し去っている。
 それは、つい最近まで彼が書き、使っていた障害児教育とか障害者教育とかを一切使わなくなっていることにも現れている。
 かって文部省が「特殊教育」という用語を使っていた時代に、文部省がその名称にそぐわない教育行政を行っていた。そのため「特殊教育」に対峙する用語として「障害児教育」という用語を窪島氏は、積極的に使っていたのである。
 ところが、文部科学省が「特別支援教育」と用語を変更すると彼はいち早くそれに迎合する。
 そして「新しい課題」「今まで見捨てられていた問題」「教育の新時代」と言い切る。
 教育は、生涯に渡るがゆえんに、単純に決めつけたり、一時期のひとつの方法で「成果」をおさめたとしても、それを科学的に立証・検討しなければならない。それが、窪島氏らの研究者としての仕事である。
 しかし、かれはそういうことをしないで、特別支援教育を積極的に評価し、その流れに乗って単純な「主張」をする。
 悩んでいる人々には、そのほうが受けとめやすいのであるが、それは、研究者としての立場の放棄でもあり、研究者という「権威」を笠に主張する「空洞」なるものでしかない。

2011年4月9日土曜日

自分の無力を教育学の無力に転化   滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(3)




 日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』(2002年12月季刊)で窪島務氏が発表されたものとして、「教育実践学の再構築と しての臨床教育学「特別ニーズ教育」の観点から」という文が、インターネツト上で公開されている。

教育学が無力だったのか

 以下、窪島務氏が、書いている文から、彼の教育についての問題点を簡単に述べたい。
 彼は、冒頭の文章で、
 「臨床教育学がなぜ提唱されることになったのか」 という設問に対する筆者の結論的な見通しを先に明らかにしておく。それは, とりもなおさず,教育と教育理論の実践性を問うものであるととらえる、としている。
 そして、われわれは単なる予算獲得の手法としてだけでなく,真剣に教育現場が求めているものに応えようとして,今まさに,臨床教育学の可能性としてそれが何であったのかを確かめようとしている、とも書いている。
 さらに、臨床教育学が論じられること自体,これまでの教育学に対する不信ないし異議申し立ての表明と見るならば,いったいそれはこれまでの教育学のどこに対してなのか, 教育学総体に対する全面否定であるのか, さまざまな議論が可能である。 いずれにしても,不登校・登校拒否, 学級崩壊, 「キレる」 子どもたちの問題など今日の教育の現実, 子どもの実態に対してこれまでの教育学への無力感,有効への疑念をはらんでいることは疑いない、とまで書いている。
 だが、この文以降、彼は、教育現場での実践に対する「教育学への無力感,有効への疑念」を述べるのではなく、論旨を次第に教育学から教師の専門性の欠如へと転化しはじめていく。

ファジーにする理由

 それは、文中を貫くものであると考えられるが、彼の文には、意図的か、日本語に習熟していないかはともかくとして、「主語」が多くの部分で欠落している。
 例えば、『いずれにしても,不登校・登校拒否, 学級崩壊, 「キレる」 子どもたちの問題など今日の教育の現実, 子どもの実態に対してこれまでの教育学への無力感,有効への疑念をはらんでいることは疑いない』の文章を読んでも、誰が無力感、有効性への疑念をはらんでいることは疑いがないのか不正確な表現であり、文章との脈絡がない。
 これは、彼のさまさまな文章(論述・論理がないためこのような表現しか出来ない。)を読んで、推定できるのは彼自身の教育学が、不登校・登校拒否, 学級崩壊, 「キレる」 子どもたちの問題など今日の教育の現実、 子どもの実態に対して無力であり、有効性がなかったことを自戒していると窺える。だが、自己否定に繋がるので彼はそれを認めたくないので「私は、」「私の教育学研究では、」とは書けないというディレンマの現れではないのか。
 それらのことがあってか、窪島氏の文章は、読み手側が、その文章の「主語」を教師として捉えたり、学校であると捉えたり、教育行政であると捉えたり、文部科学省であると捉えたりよく言えば変幻自在の表現になっている。
 この主語を「曖昧」にすることは、彼への批判や彼の主張の一貫性のなさを「曖昧」にすることとして書かれたとするならば、窪島務氏の述べている論旨はmaneuverであるとしか考えられない。
 
maneuverでないとするならば、「単なる予算獲得の手法としてだけでなく,真剣に教育現場が求めているものに応えようとして」という予算獲得の手段に批判的であった彼が、文部科学省などが打ち出した障害児学校の統廃合をすすめ予算削減のために意図的に出してきた「特別支援教育」を歓迎し、極めて政治的な判断の下で打ち出したいわゆる「発達障害の概念」を評価し、それを裏打ちする研究なるものを旺盛に行っていることをあまねく公表するはずがない。

2011年4月8日金曜日

変貌して行く教師のための教育実践センター 滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(2)


滋賀大学教育実践総合センターの目的として、かって京都新聞の記事に以下のような記事が掲載された。ここでは概略だけを掲載する。

教師の労働安全衛生を 考えていたようだったが……

 滋賀大 悩める先生に「駆け込み寺」
 子どもとの関係や授業の進め方に悩む学校の先生が気軽に相談できる窓口を、滋賀大教育学部(大津市平津二丁目)が4月1日から学内に設ける。同学部によると、悩みやストレスを抱える教員は増えているが、解消する受け皿が少ないといい、大学自らが教員の「駆け込み寺」になろうという計画だ。
 文部科学省初等中等教育局は「教員への相談窓口を大学で開設するのは珍しい」と話している。滋賀大教育学部は付属の教育実践総合センターで子どもの相談を行っており、以前から教員への相談も検討していた。大学の生き残り策の一つとして地域との連携を深める「ティーチャーズ・オープンキャンパス」構想も掲げ、その第一弾として相談窓口を始めることにした。
 相談窓口は「教師支援・相談室」と名付け、センターの専任教官二人を置く。電話で受け付けた後、面接で相談にのり、内容に応じて学内の他の教官を紹介する。教科の指導については専門的な立場から助言し、精神面での相談は心理学専攻の教官が対応するなど、学内の人材を生かす。大学側は教官の研究内容が分かる一覧表を、事前に県や市町村の教育委員会へ配り、相談の際の参考にしてもらう。場合によっては学校への出張相談も行うという。
 相談窓口の担当で教育実践総合センター長の窪島務教授(教育学)は「今の教員は研修や会議が多く、忙しい。悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい」と話している。

教師の悩みを受けとめるとしながら その後大きく変貌


 この記事では、
1,悩みやストレスを抱える教員は増えているが、解消する受け皿が少ないといい、大学自らが教員の「駆け込み寺」になろうという計画だ。
2,大学の生き残り策の一つとして地域との連携を深める「ティーチャーズ・オープンキャンパス」構想も掲げ、その第一弾として相談窓口を始める。
3, 相談窓口は「教師支援・相談室」と名付け、センターの専任教官二人を置く。電話で受け付けた後、面接で相談にのり、内容に応じて学内の他の教官を紹介する。教科の指導については専門的な立場から助言し、精神面での相談は心理学専攻の教官が対応するなど、学内の人材を生かす。
という理念から出発したものであり、この理念を受けて責任者であった窪島務氏(教育学の専門教官)は、「今の教員は研修や会議が多く、忙しい。悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい」と話したとされている。

 この記事を読む限りは、教育実践総合センターは主として教員のための支援センターとして発足したことになり、窪島務氏もそれを認めていたかのようにとれる。
 だが、それ以降、窪島務氏は、「今の教員は研修や会議が多く、忙しい。悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい」というはなしと裏腹に、教員の責任を追求し、教育委員会などに招かれた研修に積極的に参加。そこでは、間接的に、直接的に教員を責め立て、悩みを抱え込ませ、教員の自己責任追及をしている傾向が次第に濃厚になっていく。
 そこには、今の教員は研修や会議が多く、忙しい。悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい、と言った姿は見られない。そればかりか、保護者に教員の責任に目を向けるようにしている。

 以下順次、そのことを明らかにして行きたい。
 だが、窪島氏の「主張」で特徴的なことは、「学校長」「学校の管理職」「教育委員会」の責任は、ほとんど触れていないことに注目しておいて欲しい。 ましてや、文部科学省を批判することは、していない。
 ここで、あえてこのことを連載するのは、窪島務氏が、教育実践と言いながら、教員がとうてい教育実践出来ないことやその責任を求めて、教員個人をますます苛むことをしているのではないかと考えるからである。
 そればかりか、政府・文部科学省の意図通りに主張し・行動している。だが、一方、政府・文部科学省に批判的は紙誌には、批判はしないで、曖昧な表現で間接的に教員の責任を強調している。
 自ら教員であるのに、教員でないかのように振る舞う様子に、今日の教育課題から考えても窪島氏らの傾向の克服が急務だと考える。

2011年4月7日木曜日

外国を見て日本を見ない教育の指導法を追求   滋賀大学教育学部窪島務氏の「LD・読み書き障害の発達的理解・アセスメント及び指導法の探求」への疑問



 滋賀大学教育学部窪島務氏は、ホームページで、「LD・読み書き障害の発達的理解・アセスメント及び指導法の探求」として、以下の文章を書いている。

日本の教育から考えるのではなく
      欧米の教育を導入する基本的発想

 まず、第1に、欧米の研究状況を把握し、その到達レベルを吸収すること、
第2に、欧米の研究の欠陥というか軽視されていることを重視していくこと、特に、欧米の研究では読み研究に比べて書きの研究が甚だしく軽視されていることを批判的に検討していくこと、
第3に、したがって、日本語に特に重要な、漢字と「書き」を重視して独自の研究を行う必要性を自覚してきました。

異文化を同一レベルで書くが

だが窪島氏は、欧米ではなぜ読み研究がなされているのかを明らかにしないで、欧米とは異質な日本語で特に重要な漢字と書きを重視して独自の研究を行う必要性を強調している。

 まず第一に、氏は欧米と書いているが、欧米とはヨーロッパとアメリカをまとめて表現しているのだが、窪島氏の研究しているのはドイツ・アメリカなどの一部の研究であり、欧米全体を研究した論文ではない。
 例えば、ヨーロッパの教育システムは、各国さまざまであり、話すことと読みから文字への移行教育がかなり深く検討されている。
逆に日本の初等教育では、話すことと読みに時間をかけることなく、入学時からひらがなが書けることを前提に漢字教育がされている現実がある。
 そのことに少なくない子どもたちが、不適応があるから、窪島氏は、「欧米とは異質な日本語で特に重要な漢字と書きを重視して独自の研究」をしなければならないとしている。
 言語としての日本語を考える場合、初等教育からいきなり話し言葉と異なった漢字と漢字の読みが導入されている日本の教育に対する何らの疑問も書かれていない。
 窪島氏は、日本語の表記としての漢字が、多くの反対を押し切って、国家によってしばしば変更・追記されたり、読み書きが換えられたり、制限・強要されてきたことを是認して研究をすすめる必要性を述べているようにしか受けとめかねない危険性を感じる。

言語の自由の激しい戦いから獲得された
    多言語他民族容認の歴史への不認識

 欧米では、言語や文字の強要での激しい戦いがあり、言語の自由が勝ち取られてきた国々がほとんどと言っていいぐらいである。
 欧米と比べて日本ほど言語の国家統制が強い国はない。
そのことを踏まえないで、初等教育で子どもたちの「漢字と書き」を重視して、読み書き障害を取り上げていくというのであるから、結論が先にありきの研究であるといわれても仕方がないだろう。


これでは、「学習指導要領に則った漢字と書き」の問題点は浮上しないであろう。

2011年4月6日水曜日

野口法子氏の虚言と「学齢期の学力を考える学習会」へ事実の訂正



(転写 ※ 見出しは追記されたものです。)

 学齢期の学力を考える学習会が、「学力と発達をどうとらえるか」で学習することに何ら異存はありません。
 ただ書かせていただきました第1回の学習会は、学齢期の学力と発達――学齢期の学力を考える学習会 i n大阪―人間発達研究所-《内容》講演1 野口法子氏(元教員、 『子どもの発達と健康教育』 1~3編集委員)「田中昌人が語った子どもの発達と健康教育をめぐって」 として、あなた方が開催されたことに対して、野口氏が子どもの発達と健康教育』 1~3編集委員でなかったこと、またこの本は本の中に断りがきちんと書かれているように田中昌人先生が語ったことと大きく異なったものになっていることなどから、野口法子氏の編集員の肩書き及び「田中昌人が語った子どもの発達と健康教育をめぐって」テーマは正しくないことを指摘しました。

野口法子氏は講演テーマ
           と違う話をした。
                 肩書きも変えている

 しかし、この日の第1回の学習会は,講演2つと参加者の意見交流が内容でした。
 まず、関西福祉科学大学健康科学科の野口法子先生(元中学校養護教諭)に「田中昌人が語った子どもの発達と健康教育について」と題して「子どもの発達と健康・いまどきの中学生」という内容でお話しいただきました。さらに、野口法子氏が、と本来のテーマを今ごろになって書き換えられているではありませんか。
 しかも、二つのテーマに書き換えられています。
 さらに、関西福祉科学大学健康科学科と肩書きがかえられています。

なぜ、編集委員でないのに  さらに虚実を重ねるのか

 このブログのかたが知りようもない「野口さんは他校の養護教諭とご一緒に、『田中昌人講演記録「子どもの発達と健康教育」』(かもがわ出版)第1巻から第3巻の編集に携わられました。」と断定して書かれています。
 彼女は、第1巻から第3巻の編集に携わられていません。
 校正紙での再学習に参加しただけです。
 編集という本としてまとめあげる作業とはまったく異なります。
 乳幼児期から成人期にかけて田中昌人先生が一貫して述べられたことを編集した本はこれしかありません。
 そのため本を作成する過程で複合的な作業もなされました。
 しかし、出版に対しては多くの出版社から自社の本が売れなくなるなどさまざまなクレームがついた中で、その間に立たされた田中杉恵先生(当時田中先生の出版の窓口になっていた)の厳しい条件提示の中で、「田中昌人講演記録」として再印刷したものです。
 従って本の名称は、『子どもの発達と健康教育』ではなく、田中昌人講演記録「子どもの発達と健康教育」』(かもがわ出版その後絶版にし、クリエイツかもがわの出版にし、現在著作権・版権は京都教職員組合養護教員部が所有)ですが、この名称も何の理由も断り書きもなく変更され、自己肯定されています。 
 
田中昌人先生の善意を 踏みにじる虚言は断固許されない

 まず、野口さんは、保健室からみた今どきの中学生の、思春期真っただ中の実態を生々しく語っていただきました。の以下の文章の中で、思春期を「いろいろな悩みや矛盾の中で自分自身をどうしてよいのか分からない時期」ととらえ、中学生の実態を大人の視点でマイナス・イメージでとらえないことが重要であること。
 と野口氏が、語ったとされていますが、これは田中昌人先生の話しておられたこととはまったく違います。
 野口氏は、田中昌人氏の思春期における「矛盾の炎」の意味すらわかっていません。
 一人ひとりの生徒に寄り添って、もう一人の自分が育ってきたことを認め、一緒に確認すること、その成長を喜び合うこと、もう一歩先を要求し大人の価値観で追い込まないで、その子の中に芽生えた新しい発達の力にピントを当てて教育的に接していくことが大切と述べました。
この部分も田中先生の話していたこととまったく違います。

田中先生は、子どもに寄り添うなどのことばは、日本語として不正確で、あいまいで、誤解を生むのでそのようなことばを使われていません。
 その成長を喜び合うこと、もう一歩先を要求し大人の価値観で追い込まないで、その子の中に芽生えた新しい発達の力にピントを当てて教育的に接していくことが大切。と野口氏が言ったとすれば、田中昌人先生の発達論をまったく学習していない現れです。

充分な学習をしないで
            講演する厚顔さ

一度田中先生の講演を聞いただけで、田中先生が語ったかのように講演をする野口法子氏に対して、多くの批判があがっています。
 見識あるはずのブログの責任者が何の訂正も理由もなく、さもさも当初から記載されている講演であったとあとから自ら主催した学習会を塗り替えて記録されていることに驚くと同時に田中昌人氏の意志が、野口法子氏が踏みにじったばかりか、このブログの記事を書かれたかたも野口法子氏を擁護・追認されされていることで同様の結果を導いていることに誠に残念としか言いようもありません。
 田中昌人先生や田中杉恵先生だけでなく、本作成時の関係者が故人となったからこそ、故人の遺志を尊重するべきなのに、故人の遺志を知っている人がほとんどいない段階を承知で、野口法子氏が講演し、訂正もされないことに対して、人間性の問題が問われるものがあります。

過去の過ちを遡って  塗り替える過ち

  このブログを書かれた方は、なぜ、第1回の要項を何の断りもなくないよう変更して第1回がこのように行われたとして書かれるのでしょう。
 見識と事実に忠実な方だと想います。このような記載の仕方は、正しくないのではないでしょうか。
 発達は、発達の事実からとらえなければならない、田中昌人先生がよく言われたことです。
 また先生の文章は、吟味に吟味を重ねさらに吟味を重ねたものであり、子どもの発達と健康教育の講演も奥深く、多くの研究に裏付けられたものであり、それの膨大な研究資料を読みこなし、田中昌人先生と数え切れない程会い、意見交換し、アドバウスを受けてあの「田中昌人講演記録 子どもの発達と健康教育」の四分冊が出来ました。とくに四分冊目は、田中昌人先生の強い、強い要望を受けてつくったものです。
 この本を契機に、田中昌人先生は「こどもの発達と診断」の学童期の研究と執筆をはじめられました。非常に思い出深い本です。
 でも、野口法子氏は、これらの取り組みにまったく参加していません。校正紙を中心とした再学習会に数度参加しただけです。


※ 2011年5月1日段階 野口法子氏は、以下の二つの質問に何ら答えることなく、関西福祉科学大学のホームページに自分が書いた文章が 「田中昌人講演記録 子どもの発達と健康教育」に掲載されているとか、京都教職員組合養護教員部が編集し、著作者であるとした本に自分の著作があるとしています。






 しかし、関西福祉科学大学で、野口法子さんが、「田中昌人講演記録 子どもの発達と健康教育」が編集員であり、自分の文章が掲載されていることを実績に大学の自らのポストを「権威」づけようとするのは、大学人として恥ずべきことではないでしょうか。
 ましてや、養護教諭が多くの学校でひとりぼっちで奮闘している中で、「みんなで自分たちの実践を交流し、健康教育創造をみんなでつくろうという。」とみんなの実践を財産に子どもたちや社会に広めようという心を籠めた気持ちでつくられた「みんなの本」を自分が……と強調するのは理解できるでしょうか。
 本を創ったみんなは、みんなで創り上げた幸せを噛みしめましたし、喜び合いました。
 それが、時と共に大切にされるのではなく、自分の大学の実績として採り入れることは、あまりにも哀しいことではないでしょうか。
 もうあの頃のみんなでつくった喜びに戻れないのでしょうか。
 
 いまだに野口法子さんから、何等の訂正も「おわび」もアクションもありません。



( 参考資料 )

中野法子氏の肩書き・講演テーマに関する

主催団体・人間発達研究所からの回答
            2010年10月20日

2010年10月4日付けのご質問の件、


再度あらためて下記の通り回答申します。



        記

質問の内容1

 野口法子氏の、(元教員、『子どもの発達と健康教育』1~3編集委員)「田中昌人が語った子どもの発達と健康をめぐって」の肩書き及び内容については、貴研究所が本人の了解なしに各方面に知らされた、と一部で言われていることは、事実でしょうか。

上記ご質問に対する回答

 事実経過は下記の通りです。


 肩書き及び講演内容の了解ということに関しましては、事前に文章での確認していません。ただ、口頭でご講演をお引き頂き、当日もご講演頂いていたことから、了解を得られた者と理解しておりました。肩書き、講演内容については、口頭でお願いした後、チラシ案を作って電子メールでお送りしましたが、特にお返事はありませんでした。


質問の内容2




『子どもの発達と健康教育』は、正式名称ではありません。また野口法子さんは、編集委員ではありません。そのことをご存じだったのでしょうか?


上記ご質問に対する回答




 「 『子どもの発達と健康教育』は、正式名称ではありません。また野口法子さんは、編集委員ではありません。」という指摘があることについて、今回のご質問があるまで知りませんでした。






(参考資料) 



                       2010年11月29日

関西福祉科学大学健康福祉学部健康科学科 野口法子 様 
                     


                京都教職員組合養護教員部

 あなたが2010年1月9日に人間発達研究所主催の「学齢期の学力と発達 ――学齢期の学力を考える学習会in大阪―」で、講演1 野口法子氏(元教員、『子どもの発達と健康教育』1~3編集委員)「田中昌人が語った子どもの発達と健康教育をめぐって」という名称で講演されたことについて京都教職員組合養護教員部として、一定の調査・検討をした結果、以下のことをあなたに要求することになりました。ぜひ、誠意を持って文章による返事をお寄せください。


 「田中昌人講演記録 子どもの発達と健康教育」は、「お願い」として「本の構成や内容などすべての責任は京教組養護教員部にあります。」と記載しています。
 このことは、あなたも充分ご承知のように、田中昌人先生や田中杉恵先生と話し合い「田中昌人講演記録 子どもの発達と健康教育」を出版するための約束のうえで書かれたものです。ところが、あなたは『子どもの発達と健康教育』1~3編集委員)「田中昌人が語った子どもの発達と健康教育をめぐって」という講演をされ、本に記載されたことを守っておられませんでした。
 そこで、



1、編集委員という肩書きで講演されたこと。(当時3分冊は、京教組養護教員部として編集委員会を作っていませんし、あなたは編集委員ではありません。)



2、「田中昌人講演記録 子どもの発達と健康教育」は、「お願い」でも書かれているように田中先生が語った話ではないのにそのように講演されたこと。



 以上の2点について、多くの人々に事実に反する誤解を広げられたので、京教組養護教員部としては、あなたが謝罪をして、今後、このようなことがないようにしていただきたいと考えています。
 そのためあなたからの謝罪文を出していただきたいということになりました。
 多くの時間が経過したことから提出締め切り日は、2010年12月6日までとさせていただきますので、よろしくお願いします。
                                                  以上 


( 追加参考資料)



             2010年9月21日

関西福祉科学大学健康福祉学部健康科学科 野口法子 様

           
2010年1月9日(土)大阪市内総合生涯学習センターで講演された野口法子氏の肩書き及びテーマなどに対する公開質問

最近インターネットで調べていて、野口法子氏が2010年1月9日に人間発達研究所主催の「学齢期の学力と発達 ――学齢期の学力を考える学習会in大阪―」で、講演1 野口法子氏(元教員、『子どもの発達と健康教育』1~3編集委員)「田中昌人が語った子どもの発達と健康教育をめぐって」に基づいて、講演されたことについて驚きを禁じ得ませんでした。
 あなたもご承知のように「田中昌人講演記録子どもの発達と健康教育」は、初稿の段階から出版・改訂・増刷のすべてにわたって私が関わってきました。

 そのため本を発行するため様々なところから田中昌人先生や田中杉恵先生に抗議を含めた様々なクレームが出され、一時期出版が危ぶまれました。
 田中昌人先生や田中杉恵先生と話し合い「田中昌人講演記録子どもの発達と健康教育」(1)を出版することが出来ましたが、その後も引き続きクレームがついたため、再度田中杉恵先生からいくつかの厳しい条件が出され、それを遵守する約束と本が一定普及した段階で本を絶版にするという約束が追加され、現在ではそれを守って昨年の段階で 「田中昌人講演記録子どもの発達と健康教育」は、すべて絶版にされています。
 これらの経過は、当時京教組養護教員部の一員として、本の校正等に参加していた野口法子氏は、すべて承知していることであり、これらの状況の進展は、すべて、野口法子氏はもちろん校正にたずさわっていた養護教諭に伝え協議し、本の出版形体を変更してきました。

 そのことを踏まえて、以下の点を野口法子氏に公開質問します。

① あなたは、『子どもの発達と健康教育(名称も田中昌人講演記録が抜けている。)』1~3編集委員という肩書きでで講演されていますが、前述した経過の中で「田中昌人講演記録子どもの発達と健康教育」でもあえて断りが入れられているとおり、「田中昌人講演記録子どもの発達と健康教育」の編集・発行・著作権などはすべて京教組養護教員部にあります。(たとえ絶版にしても京教組養護教員部の著作権はあります。)
  従って、あなたは1~3編集委員でないことは、すべて、承知のことではありませんか。
   それを承知で講演されたなら編集委員という名称を詐称したことになります。この点について、あなたの見解を明らかにしてください。


② 「田中昌人講演記録子どもの発達と健康教育」は、編集委員会をとらず、再学習する意味で養護教諭があっまり、意見交流を含めた校正をしたものであり、そのことにたずさわった人々が、後書きとするのではなく、「編 集にたずさわって」という形で、再学習した感想を本の末尾に掲載したも  のであり、あなたがそのことを理由に編集委員であったと言われるならば、初稿から数十回にわたる校正紙、装丁等を示してください。
  あなたは、それを持っているとしてもそれらの一部しか持っていないでしょう。

 それは、あなたがすべての校正のための集まりに出ていなかった証明でもあります。
 それぞれの人々の努力をたたえ記録する意味で書いた 「編集にたずさわって」の一文で、持ってあなたが編集委員という肩書きを田中昌人先生と田中杉恵先生が亡くなられてから使うのは、なくなられた方に対する私たちの約束をあなただけが蔑ろにする行為ではありませんか。 
この点について、あなたの見解を明らかにしてください。


③ 田中昌人講演記録と本にあえて付け加えた経過は、あなたも充分承知のように編集・発行・著作権などの問題が生じるため田中昌人先生・田中杉恵先生から京教組養護教員部がつくったものとして問題解決を図りたいという要望を受けて、本の名称が付け加えられたものであり、そのこともあなたは充分承知していたはずです。
にもかかわらず、『子どもの発達と健康教育』という名称を使われたのでしょうか。
この点について、あなたの見解を明らかにしてください。


④ 「田中昌人講演記録子どもの発達と健康教育」は、田中先生が語った話ではなく、多くの訂正・修正・加筆が加えられています。
従って、「田中昌人が語った~」とは、とうてい言えないものです。 

   なぜ、そのようなことを演題にされたのでしょうか。
この点について、あなたの見解を明らかにしてください。


⑤ 以上のようなことで、あなたが講演されたことは、少なくない当時の関係者は、知りません。
 田中昌人先生・田中杉恵先生との約束事項の中で、「田 中昌人講演記録子どもの発達と健康教育」は、あくまでも養護教諭の健康教育の創造のために使うということで了承を得てきました。
 あなたもそのことは、知っていたはずです。
 しかし、演題を見る限りそのようなことは考えられにくく、あなたは、他の講演等では、関西福祉科学大学講師の肩 書きを使っているのに、なぜ、この講演だけは指摘した問題点を承知であえて、詐称ともいわれてもやむ得ない肩書きを使われたのでしょうか。
この点について、あなたの見解を明らかにしてください。


⑥ すでに、あなたの肩書き、講演などは、インターネットで1年近く不特定多数の人々の目に触れています。
故田中昌人先生・田中杉恵先生との約束が守れなかったことに身を切られる以上の痛みを感じています。
   あなた自身の責任において、あなた自身で不特定多数の人々への訂正をされるべきだと思います。
  この点について、あなたの見解を明らかにしてください。