2011年8月19日金曜日

「給特法」(国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)は最大の矛盾、教職員の過労死や公務災害が多発原因をつくった と元府高委員長が指摘しつづけている

 山城貞治(みなさんへの通信63)
「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項
政策「労働安全衛生対策について」はどれだけ実現したのか(その43)


 「次第に工業課程における危険性と安全対策が理解され、取り組みが大きく広がった。そんな時、卒業生が死んだのは「過労死ではないか」との報告がされ、府高委員長はすぐ取り組むよう指示。その問題を70歳を超えようとする今も取り組んでいる。」と前号で紹介した。
 しかし、その時の委員長は、退任しても
「仲間が見殺したとも言える」
を胸に刻んで京都職対連などで多彩に取り組んできた。
 しかし、元府高委員長は教員の労働時間について他の労働者とは違った形態に置かれてきた歴史的経緯を明らかにしない事には、多くの誤解と裁判での敗北を産むとしていくつかの文章を書いている。
 他にも教員の長時間過密労働が「許されている現実」に疑問の質問も寄せられてきた。
 教職員組合の中で「労働安全衛生法の活用」で、教員の長時間過密労働が食い止めらるという主張も圧倒的に多い。
 だが、前号で紹介した「22歳の府立工業卒業生の過労死」問題は、

 府立工業で労働安全衛生法のことが教えられていたら、労働安全衛生法を知っていた過労死を
 防げたのだろうか。
 労働安全衛生法にある詳細な法・法規が教えられていたら過労死は防げたのだろうか。

 元府高委員長は、自問自答し悩み続けて、労働基準法と労働安全衛生法をセットで考えつつも労働時間と労働負担(精神的にも肉体的にも)を考え、それに歯止めをかけないと過労死は防げないと考えたようで、まず教員の労働時間について解説した文章を書いている。

 長文なので一部を紹介するが、他の労働者との労働時間から考えれば理解しがたいところがあるかもしれない。
 しかし、よくよく考えれば、本質的事態は同じである。

 以下、「近畿高等学校教職員組合連絡協議会 略史 その5」に文章を寄せいた元府高委員長の文章の概略を紹介させていただく。

健康で安心して働き続けられる
  労働条件確立のたたかい

1.教職員の時短闘争の歴史

 教職員の長時間・過密労働を解消するたたかいは、幾多の困難と壁を乗り越えてきた歴史を持っている。
 永年の労働者のたたかいによって1919年、ILO第1号条約として、国際的には、8時間労働制が採択されたが、日本政府は、その批准を拒否し続けた。
 戦前は、絶対主義的天皇制のもと、「官吏服務規律」でも天皇の僕としての労働が強制され、時の政府には、「労働時間」という概念がなかった。
 1946年11月、公布された新しい日本の憲法には、基本的人権の重要な柱の一つとして、その第27条第2項に、「賃金、就業時間、休息その他の勤務条件に関する基準は、法律にこれを定める」と規定され、これにともなって、1947年4月、労働基準法(以下、労基法と略す)が公布され、その第2条には、48時間労働制が、第3条には、時間外勤務をさせた場合の割り増し賃金の支払いが義務づけられた。

労働基準法はすべての労働者の労働基準だった
    もちろん教職員も

 当然のこと、教職員にもこれらの条項が適用されることになった。
  しかし、依然として教職員の長時間勤務は解消されないままだった。
 政府がそれを可能にし、保障する定数増などの教育条件の整備を長く怠り続けたことにその原因があったことはいうまでもない。

時間外勤務手当は、教員には支払われなかった

 それなのに、労働基準法の定める時間外勤務に対する時間外勤務手当は、教員には支払われなかった。
 その口実に政府は、教員の賃金が、一般公務員より高く改善されてきたことをあげていた。

教職員の超過勤務の実態を告発し
  最高裁を含む各級裁判で勝利

 政府は、1949年2月、「教員の勤務時間について」という文部次官通達を出すなどして、その矛盾を指摘されるたびに、矛盾を取り繕うとしたが、その内容は、長時間勤務の実態をごまかすものであり、不当なものだった。
 その後、こうした矛盾を告発し、教職員の労働実態を解明する取り組みが全国的に広がり、人事院も「勧告」で必要な検討を指摘せざるを得なくなった。
 また、全国の教職員は、一方では、裁判を通じて超過勤務の実態を告発し、最高裁を含む各級裁判で勝利した。

「給特法」(国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)

 こうした情勢を踏まえて政府は、1971年予算案で初年度3か月分の財源として40億円を計上し、これを受けて人事院は、1971年2月8日、「義務教育諸学校等の教諭に対する教職調整額の支給等に関する法律の制定についての意見の申し出」を行い、これが「給特法」の骨格となった。

「給特法」の最大の矛盾と
労働基準法の適用をかたくなに拒み続けた政府の意図

2.「給特法」の制定

 政府は、中央労働基準審議会の建議を経て、1971年2月16日、「国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法案」(給特法)を国会に提出し、可決成立した。
 国会では、

 教員の職務と勤務の態様の特殊性とは何か。
 その特殊性によってなぜ労働基準法の適用が除外されなけ

 ればならないのか。
 無定量の勤務に対する歯止めは何か。
 調整額の性格は何か。


などが論議されたが、政府・文部省(現 文部科学省)は、「教員の職務と勤務の態様の特殊性」を口実に教員への労働基準法の適用をかたくなに拒み続けた。

 「給特法」の最大の矛盾はここにあった。 

教職員の職務の専門性と労働者としての
  権利を統一的にとらえる

 当時の日教組は、日高教とともに「測定可能な勤務には労基法37条の適用を、測定困難な勤務に対しては、定率の手当あるいは調整額の支給を」という「二本建要求」を対置してたたかった。
 当初、日教組執行部の提案は、こうした見地に立たず、教職員の労働の職務の専門性を軽視し、労働者としての側面だけを強調した。
 しかし、近畿の各県教組や高教組は、全国の一致する県教組や高教組とともに教職員の職務の専門性と労働者としての権利を統一的にとらえる「二本建要求」を粘り強く主張し、これが全国方針となった。
 
 各県教組と各教育委員会とかわした協定は
無定量な超過勤務を認めないことは明確だった

「給特法」の実施に当たって、各県教組と各教育委員会とかわした協定では、教職員の無定量な超過勤務をなくすため、限定4項目(県によっては5項目)の協定を結ぶなどの歯止めをかけた。

 しかし、根本解決をするための定数増などの教育条件の改善に取り組むことを約束しておきながら各教育委員会は、政府・文部省が教職員の定数改善をしないことを理由にその改善を先送りにし、教職員の多忙、超過勤務・長時間過密労働の実態は改善されないまま、ますますひどくなり、1980年代から、教職員の過労死や公務災害が多発するようになった。