2011年4月21日木曜日

恣意的・主観・曖昧が貫かれているが   滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(8)

 滋賀大学教育学部窪島務氏が、日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』(2002年12月季刊)で書いた「LD・読み書き障害の発達的理解・アセスメント及び指導法の探求」について考察してきたが、彼の文章には論旨・論拠もなく、ただ思いつきの文章を書き、組み合わせているだけにすぎない。
そのため、研究者としての節度ある文章として考えられない部分が多々あることを明らかにしてきた。

自己不安を転化する考え

 これは、彼だけに見られる傾向ではなく「日本特別ニーズ教育学会」に参画しているいわゆる研究者と言われる少なくない人々にも見受けられる。そのため窪島氏は、自説に安心感を抱いているのであろうか。
 安心感は、不安感と表裏一体のものであることが多く、窪島氏は自説の不確かさに不安感を抱いているが所以に分散的な文章を綴っているとしか考えようがない。そのため以降、彼の言わんとする不確かさの本質に迫ってみたい。

子どもを取り巻く環境を無視した「ニーズ」

窪島氏は教育に困難や問題があるのは、

 単純化すれば, 困難や問題が生じるのは, 教育作用が子どものニーズに合っていないからであり, 子どもはニーズに即してあるべき教育を要求する権利を持っている,
ということである。

と決めつける。そして彼の言う「子どものニーズ」に合っていれば、教育に困難や問題が生じないと決めつける。
 では、今日の教育における困難は、子どものニーズに合っていないから生じるのだろうか。
教育内容や教育そのものに問題を抱えていることも事実だが、彼は、子どもたちの生活基盤や社会基盤をまったく軽視している。また、触れようともしない。
 そして、ユネスコのサラマンカ声明を持ち出してくる。このユネスコのサラマンカ声明についての評価は、別にして窪島氏らはしばしば自己主張に都合のいい国際的なと入り組みを引き合いに出す。
 ユネスコのサラマンカ声明は、国連加盟国の約半数の参加での声明であることやサラマンカ声明に反対した国々の取り組みなど窪島氏の眼中にはない。
 それどころか, 国際的な人権宣言,教育権宣言, 権利条約を想起していることも,権利性の主張を内包していることを示している

として彼の手中にある国際的動向を主張するのはより客観的な国際動向の把握とはとうてい言えないことだけをここで指摘しておきたい。

綴られている具体性のない文章から見えるもの

 さらに彼は、ユネスコのサラマンカ声明の一面を捉えて、

  日本の学校はそれに加えて, 行動形成, 「人格形成」 に特別のアクセントをおいている。その意味で,社会化としての人間形成学校としての性格を色濃く有している。「特別ニーズ教育」はそれを否定するものではなく, その枠組みを広げ,子どもの全体性を視野に入れ, それを子どものニーズから再構成しようというものである。それは,これまでの学校教育観を相対化し, 子どもの内面, 情動, 自我のあり様へ関心を向け 「教科と行動を教える」 という学校教育のイメージを大幅に乗り越えることを主張することになる。

と書いているが、このことは具体的に何をさして、書いているのかまったく不明である。彼は、具体的例として次のようなことが、書かいたつもりのようである。

 最近話題になっている「小1プロブレム」を例にとれば,学校教育がすでに形成されていることを前提として想定してきた学習レディネスや対人的関係や距離のとりかた,集団への参加の方法と能力の形成そのものを学校教育の課題とすることになる。 6歳で, それは当然成立しているべきものであるという観念を前提とすれば,そうでないものに対する対応は治療教育的である。 しかし, 多くの子どもがそれを必要とし, それへの対応なくしては学校教育がたちゆかなくなっているとすれば, それは単に治療教育的ではなく, 標準的で正統的な学校教育の課題である。

ここでは、彼はいかに今日の学校の現状を見ていないかを露呈している。
マスコミなどでさわがれている「小1プロブレム」なるものは、小1だけに生じているのではない。今日の小学校では、「学級崩壊」に伴い教職員の精神衛生(メンタルヘルス)が問題になっているが、それは、教師個人の教育力や実践力だけに責めることは出来ない問題である。

いのちがけで学級崩壊に
       立ち向かわされている教師

 教師が、黒板に向かうとさまざまなものが投げつけられ、ケガをする等々のことが絶えずあなどなどの学級崩壊が教師個人の責任とされ、精神疾患を患うばかりか、早期退職する教職員の数は年々増加の一途をたどっている。
 また過労死、過労自殺する教職員も増加の一途をたどり、少なくない事案が裁判で争われている。この裁判の中で、担任教師や管理職がいわゆる「発達障害生徒」や特別支援教育の名の下に極度な責任追及と負担を強いられていることは裁判例や判決文の中で明らかにされている。
 ある府県の10年前の調査で、早期退職する教師のほとんどがこれらの被害を受け、その被害を明らかにすると教え方が悪いのだとされやむを得ず早期退職している実態が報告されている。
 調査によると女性教師の早期退職が一番多く、その平均年齢は48歳であった。
 これらの教職員の労働衛生の実態から想起できるのは、生徒も教職員も過酷な状況に置かれている、教職員や生徒集団の連帯や協力が希薄になっているという事実であり、マスコミが取り上げる「小1プロブレム」は、問題の一角でしかないことは明白である。
 窪島氏は、これらの実態に対してあまりにも淡泊でありすぎる。むしろ、まったく考えようとしないで、書いている。
 しかも、もともと日本の教育制度が入学準備の段階以前に多くの問題があることを以前から指摘されてきたことが、より深刻な状況として捉えていくべきなのが、この「小1プロブレム」なのであろう。

教育の移行期に生じる問題もより深刻
            だが背景の分析はしない

 小学校6年生から中学校1年生への移行の時期。中学校3年生から高校1年生(高校に入学出来ない生徒も多くいるが。)への移行の時期。高校3年生から大学1年生(大学に入学出来ない生徒も多くいるが。)への移行の時期。
 この時期の時期の短さは、9月入学の欧米と比べて以前から問題になっていたはずである。
 窪島氏の言葉を借りるならば、、最近話題になっている「大学1プロブレム」は、大学が、学校教育がすでに形成されていることを前提として想定してきた学習レディネスや対人的関係や距離のとりかた、集団への参加の方法と能力の形成そのものを大学教育の課題とすることになる。
 ここでも、彼は自らの属する教育学部で抱えている深刻な課題を脇に置いて文章を書き、自らの大学で解決してきたことを例示しえないでいる。
 彼は、自分自身が、大学教授であり、教育実践者であることを忘れているのかもしれない。