2011年4月26日火曜日

教育に知能検査導入を暗示 そして実際に奨励する  教育展望と滋賀大学教育学部窪島務氏の巨像と実像(1)



 さて、教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』(2002年12月季刊)で窪島務氏が発表されたものとして、「教育実践学の再構築と しての臨床教育学「特別ニーズ教育」の観点から」という文章についてすくなくない問題点を明らかにしてきた。しかし、それは、文章ののごく一部である。

 ここで彼の実践とはどういうことを具体的言っているのかを検討し、彼の「主張」の背景にある問題を述べる。

教師に対する断定は 鮮やかに投影するが

 窪島氏の論理がないので文章としたが、彼は、日本語の表現があまりにも分散的で一定の筋道とそれを裏付ける根拠が何ら明らかにされないまま、曖昧文と断定文をくり返しているのが特徴的としている。
 特に彼が断定的に書くのは、教師に対するクレームであってこれは極めて辛辣である。
 だが、彼も教師であると言うことを喪失しているため自体はさらに深刻な問題を抱え込んでいく。
窪島氏は読み手が読める文章を綴れているだろうか。
 窪島氏は次のように「聞く」「話す」「書く」ことについて書いている。

 しかし,聴くとはどういうことかが深められなければならない。
 教育において,教師が言語的に「聴く」ことから始まることは当然であるが,子どもとの関係における言語の過剰が問題となる。いわゆる教師がしゃべりすぎるという問題,子どもの言葉の表面に直接的に反応するという問題がある。
 その背景に, 子どもが分かってくれない, 分かっていないという脅迫的不安が潜んでいるかもしれない。
 したがって, 「聴く」ことの強調には意義があるが,子どもとの関係においては聴くことを含めて子どもの行動のさまざまな次元に注意を向けなければならない。時には心理的アセスメントを利用することも必要となる。
 教師の指示を聞けなかったり, 数秒後には忘れている子どもや, 文字や漢字がどうしても書けない子どもに短期記億に障害があり, 3つの音節までは記憶できるが, それ以上は記億できず勘に頼って行動しているなどということがある。
 そういう子どもが内心でどれほどの不安と自信のなさに耐えているかということに想いが向かずに,逆に直感が優れている子どもという認識ですまされている場合などは決して少なくない。
 継次的な認知処理プロセスに困難があるため約束が守れなかったり,行動の手順がうまく理解できないなどということが起きることもある。こういう子どもが教師の指示を聞かず,約束を守らず, 「自己チュウ」 であると非難され生徒指導の対象とされるというシーンは, 幾度となく観察され繰り返されている事象である。
以上の文章は、非常に主観的意図に貫かれている。また文章としての態をなしていないとも言えよう。

カタカナと専門用語と「的」が部分的に織り込まれ

 彼や彼の周辺の人々は、「アセスメント」というカタカナを好んで用いる。
 英語におけるassessmentは、通常「評価」「物事・性質・能力などの良し悪しや美醜などを調べて価値を定めること。」と訳されるが、 あえて、アセスメントを「教育の場面における成果の判断」と窪島氏の意図に沿った日本語訳にしてみると、「心理的アセスメント」は、「心理的な教育の成果の判断」となる。
 従って、「時には心理的アセスメントを利用することも必要となる。」は、「時には心理的な教育の成果の判断を使用することも必要となる。」と言う日本文になるが、この文章だけを見ても意味が通じないことになる。
 ここで窪島氏は、「教育心理」という言葉を使わないのだろうかと訝しくなる。彼は、教育心理ではない言いたいのかもしれないが、彼の述べていることは教育心理学の範疇にある。


知能検査による評価が必要と主張

 だが、窪島氏の本心は別なところにある。「心理的アセスメントを利用する」とことを他の彼の文章で調べて、窪島氏らの実行していることを調べると彼の主張は次のようになる。
 教師は、知能検査をする方法を身につけるか、利用せよ。
 そこから得たデータを基に子どもにアプローチせよと言いたいのである。しかし、このようなことを教育学の紙面で書くと、戦後初等教育で頻繁に導入され、知能検査によるIQの数値で子供たちがランキングされたりIQで教育対象外とされた教育の問題から知能検査に対する数多くの批判が出され、知能検査が初等教育から導入されたことを窪島氏知っているのだろうか。
 いや、彼は充分そのことをよく知っている。
 戦後、障害児はIQで「白痴」「魯鈍」などなど「断定され」教育対象外にされてきたこと。そういうことを批判して発達や発達診断が形成されてきたこと。また、窪島氏は、そのことに積極的に参画してきたこと。
 彼は、なぜかそのことについて触れず、IQの「再来」を強力にすすめている。彼の研究を知る人々は、あまりの変貌に驚いている。彼はかっての知能検査批判を克服したIQを提示していると言いたいのだろうか。それにしても、理解が出来ない。
 だから、知能検査とは書かないで心理的と曖昧に書いている、としか考えようがない。
 くり返すが、昔の知能検査とは格段の相違があると彼は考えているかもしれない。しかし、知能検査は知能検査である。
 検査で知能を推し測ろうとしていることは彼の他の文章で頻繁に書かれている。そして、窪島氏らは知能検査の講習をしていることは隠しようのない事実なのである。
 彼の知能と書く部分は、知能検査による、と解釈しなければならないのである。

言語としての日本語を研究しているのか疑問

 さらに、彼は好んで「的」を使う。「教育的ニーズ」などもその例であるが、この的は、教育におけるニーズなのか、教育に関わるニーズなのか、教育周辺の問題も含めたニーズなのか。極めて不正確な文章であろう。
 ようするに彼は、日本文として綴ることが出来ないで、子どもの読み書き問題を論じようとするところに原因があると思わざるを得ない。また彼と歩調を共にする人々にはその傾向は極めて濃厚である。
 言語の範疇に文字やはなしことばが含まれたり 切り離されたり
 「聴く」と「聞く」を使い分けたつもりであろうが、
教師が言語的に「聴く」ことから始まることは当然であるが,子どもとの関係における言語の過剰が問題となる。
という文章を読むと、
 教師は子どもとの関係における言語が過剰であるため、言語的に「聴く」ことからはじまることを行っていないことが問題となる、としか読みようがないのである。
 このように書くのは、窪島氏は言語の定義が曖昧で、その常識的理解が出来ていないと思われるからである。

言語の定義を明らかにしてこそ 読み書き問題が

 言語とは、通常「人間が音声または文字を用いて思想・感情・意志などを伝達したり、理解したりするために用いる記号体系。また、それを用いる行為。ことば。」「ある特定の集団が用いる個別の言語体系。日本語・英語の類。」を言うが、言語が過剰になるとは、「人間が音声または文字を用いて思想・感情・意志などを伝達したり、理解したりするために用いる記号体系。」が多すぎるということになる。
彼は、音声言語、文字言語という日本語表記を知らないでいるとしか考えようがない。
 そうでないと子どもとのコミュニケーションが多すぎるとも理解できて、では、少なくすればいいのかと言うことにもなる。
 この未整理な文章を書くことが、彼の専門的表現であるとしているならば、大きな誤りであろう。
 言語に対する規定や言語の意味合いについては、教育の分野では戦前から論じられてきた多くの成果(日本語教育とするか国定語教育とするか、アイヌ語を認めるか、共通語か標準語か、等々を無数うの論議と蓄積も含めて)がある。でも彼はそのことすらも知らないようである。
 教育における読み書き問題とするならば日本語の体系の中での位置づけを明確にして論じるのが必須事項であるが、彼はそのことをしないのである。いや、出来ないのかもしれない、と思わせる部分が多々ありすぎるためあえてこの部分で触れておきたい。
 
読めない文章を描く背景

 彼は、
 教師は授業では、しゃべりすぎで、子どもの「深層」を把握しないで、上辺だけの「ことば」だけに対処することがありすぎる。その背景には、教師が、 子どもが分かってくれない、 分かっていないという脅迫的不安が潜んでいるかもしれない。だから知能検査やその結果などを学習して、子どもを多元的に把握していかなければならない。
教師は、教師の話を聞けなかったり、聞いても数秒後には忘れている子どもや 文字や漢字がどうしても書けない子どもに対しては、短期記億に障害があり、 3つの音節までは記憶できるが、 それ以上は記億できず勘に頼って行動しているなどということがあるなどのことを充分理解しておかなければならない。
 なぜなら、そういう障害がある子どもは、内心で多くの不安と自信のなさに耐えているからである。そのことを理解せずに、直感が優れている子どもという認識ですまされている場合が多くある。
 さらに、継次的な認知処理プロセスに困難があるため約束が守れなかったり,行動の手順がうまく理解できないなどということが起きることもある。こういう子どもを教師は、指導を聞かず、約束を守らず、回りの生徒や人間関係を考えないで行動してトラブルを起こす 「自己中心」 である生徒と非難し、生徒指導の対象とされるなどのことは、幾度となく観察され繰り返されている、
と言いたいのだろう。

間違いを間違いと教えることの放棄を容認

 ところが、近年、文部科学省や各教育委員会や学校における特別支援委員会や各種会議では発達障害の生徒をそのように見るのは誤りだ、として問題行動を不問にしたり、暴力行為やそれに類似する行為を容認する傾向が増えて来ていることは把握されていないようである。
 どのような状況であっても、間違った行為は十分な配慮をしながらも、間違いは間違いと生徒に諭すことはその生徒のためでもある。
 だが、窪島氏らのこれらの一面の強調は、それらの行為をも否定している。
 あるがままに、と。
 だが、それでは生徒たちは自らの誤りや行為に気づくことなく、エスカレートし、犯罪行為まで犯してしまう場合がある。
 残念ながら、そういう事態になった時に、保護者から先生が発達障害のことを理解していなかったから子どもをそこまで追い込んだのだと非難されることは年々増え続けている。
 そのため生徒指導や教科の評価では、発達障害の生徒を他の生徒とと違って、「特別扱い」する傾向のが日増しに多くなってきている。
 生徒指導では、どのような生徒でも充分な配慮を前提とするのは当然であるが、窪島氏の事例とはまったく異なった事例が多く見られる。
 しかし、生徒に対する適切な働きかけを「放棄」する点でどちらも共通点がある。
 詳しくは後ほど述べてみたい。

教育学研究者として教育実践証明は「生命線」

 彼の文章を校正しなければ、日本語の意味が通じなくなり、繰り返し書いてきたが、「主語」「主体」が書かれていないために、読む側に知らせることなく、窪島氏の主観的感情をカタカナや専門用語の一部を使って粉飾しているとしか理解できない。
 窪島氏の文章を読む限りにおいて、彼が授業をすると生徒は窪島氏の言うことが理解できなくて混乱し、内心で不安が渦巻くだろうと推測出来る。
 教育学は、実践そのものであるとする窪島氏は、読み書き障害の子どもたちがいるクラスを担任し、せめて学期間を通してその典型授業を示してもらうことが、教師が理解できる一番の近道だろう。
 そして、窪島氏が読み書き障害の子どもたちがいるクラスを担任し、学期間を通してかれの主張する典型授業を公開する、それでこそ教育はまさに実践なのだと言える。
 かって北大教育学部は、そのような取り組みをした。
 私は教育を指示する側、あなたは指示通りに実践する側。
 そういう時代は終焉を迎えている。