1979年の養護学校義務制に向けて激しい論争が日本で行われた。
当時の論争における養護学校を否定するか否かはともかくとしても、ある府県の調査によるとさまざまな問題があるが、就学適正委員会が「障害児学校」としても障害児学校にも障害児学級にも入学・入級しなかった子どもたちの人数が障害児学校・障害児学級の3倍以上であったことも窪島氏は承知していない。
さらにそれらの子どもたちの学習状況をも把握していないのである。
比較する国々の基礎条件を整えないで
「比較」する「研究」
国際比較としながら窪島氏は、最低限それぞれの国の概念基準にそろえて比較検討するのが研究者として常識事項だろう。だが、彼は、アメリカやドイツやイギリス。ユネスコの統計を見ても文部科学省の障害児学校・学級の項目しか眼中にないと考えられる。
毎年、5月1日の全国の生徒の在籍調査などを含めた基本統計を読みこなせば、少なくとも普通学級(彼は文部科学省が通常学級という通達を出したとたんに普通学級という用語を自ら投げ捨ていた。日本の教育制度には、通常学級という用語はない。)で、アメリカやドイツやイギリスで対象とされる障害児がどれくらいの比率で教育を受けていたか把握できる。
特に保健調査や各種学校調査をクロスさせれば、さらに詳細に把握できるし、彼の得意分野であるとするドイツの概念に変換して比較することも可能である。
文部科学省の統計のあやふやさを問題にするのなら、文部科学省の「発達障害」の概念を肯定するのは納得のいかないことである。
調査方法に潜む
大問題も知らずに単純比較する
「教育とはもともと実践以外のなにものではないのであるから,教育が実践性を有するのは当然のことではな,いのか, という疑念が呈されよう。理論上はその通りなのである。」と窪島氏が主張していることは先に述べた。彼が、実践以外のなにものでもない、とするならば、文部科学省統計の基本調査である学校やその調査にあたった教師にその調査の実状を聞いたことがあるだろうか。
聞きもしていないで、文部科学省の調査結果だで判断していることが窺える。なぜなら、ある県の教育学部の教授は文部科学省の統計や各種結果が発表された時に、必ず学校の教師たちに尋ね、調査結果と照合していると報告されている。そのことから、この教授は、学校と充分密接な関係を持っていることが解る。
なぜなら、文部科学省の統計や調査資料報告を鵜呑みに出来ないことは、学校教育の実践者たちは充分承知しているからである。
トップダウン方式の調査に学校の教師は振り回されている
文部科学省の調査書などは、文部科学省から各都道府県教委。各都道府県教委から各都道府県教委・各市町村教委。それから、学校長へ行き、各学校の担当者か、他の管理職が記入する。
記入され結果は、逆のルートを通ってまず府県レベルで集約され、文部科学省に報告される。その集約結果を文部科学省が発表される。
このルートの中では、幾重にもチエックがかかり、訂正・改変されることが非常に多い。このことを、ある県の教育学部の教授は知っているが所以に調査の基本単位である学校の教師たちに尋ね、文部科学省の統計の信憑性を確かめて研究論文を書いている。
少なくともこのような調査の実状を知っているならば、文部科学省の調査結果だけでことを論じることはないはずである。
トップダウン・ダウンアップの調査方法には、大きな矛盾がある。ある問題に絞った調査は、チエックがかかるが、その他ではチエックがかからないということことがある。そのため調査報告の整合性と矛盾をクロスさせると意外に実態が把握できるということがある。
アメリカの数値を基準に
近づけようとする無謀な考え
窪島氏は、文部科学省の発達障害の数値の把握がアメリカなどとあまりにもかけ離れている。普通校では、発達障害児はもっと多いはずだと決めつける。
それなら、文部科学省がどのような方法で発達障害児の調査をしたのかを各学校の教師たちに聞いてみるべきだろう。
どのような調査項目で、どのような中味であったのかを。現在では、情報開示がされているのでそれらの資料を入手出来るはずである。それらのことをしないで上辺だけの調査結果で論じるのは、科学的とは言えない。では、これらの調査上の問題は、日本だけかも考えておく必要があるだろう。
比較できないもので、比較する。この記述は窪島氏の文章に貫かれている。
研究者が、研究しないで文部科学省の調査結果だけで論じる自らの立場に恥じることもないようである。
普通校で学ぶ障害児の実状すらも
見ていなかった「障害児教育学」
今や障害児学校と障害児学級に在籍する障害児より普通校に在籍する障害児のほうが圧倒的に多い、と書くと、窪島氏は、それは単に在籍しているだけにすぎないと断定するだろう。
だが、それは学校で悪戦苦闘しながら教育実践している教職員への侮蔑でしかない。
彼の過去の研究報告には、これらの研究がないだけであって、普通学級に在籍していた障害児の教育実践は、障害児学校・学級での教育実践よりはるかに多い。
それは、窪島氏は、教育学とか障害児教育学とかを自分の専門分野と自負していた頃に、障害児学校や障害児学級だけに目が行き、全体の教育の中で障害児がどのような教育を受けていたかすら知らなかったという自己証明でしかない。
文部科学省を批判しているが
内実は評価・賞賛する
窪島氏は、
文部科学省は一貫して障害を有する子どもが通常学級に在籍することを否定しているが, これらの数字は, 日本が障害児に対して「分離的」 であるという一般的通念に反して, この国の障害児教育は量的な面ではきわめて「未発達」であること,逆にもっとも素朴で未発達な形態でのインテグレーション,インクルージョンが支配的な国であることを示している。
と書き、「文部科学省は一貫して障害を有する子どもが通常学級に在籍することを否定している。」と断定するが、文部科学省の資料に普通学級に在籍している障害を有する生徒が都道府県別に集約されていることも知らないである。
さらに文部科学省の研究報告には、障害を有する子どもが通常学級に在籍する教育報告も少なくない。
もしも、彼の言うように文部科学省が障害を有する子どもが普通学級に在籍することを一貫して否定していたとするならば、1960年代半ばから文部省(当時)が取り組んだインテグレーションを彼はどのように説明するのだろうか。
彼は文部科学省の硬直した姿勢を批判するようでいて、現実的には「ではそれならば、文部科学省は、障害を有する子どもを障害児学校や障害児学級で教育出来る条件整備をしてきたのか。すべての障害児を受け入れる学校や学級をつくってきたのか」という問題には答えきれないだろう。
なぜなら、文部科学省は障害児学校や障害児学級の設置には、一貫して消極的であった現実がある。
文部科学省は多くの障害児が普通校に在籍していることを黙視してきたのが現実だろう。
彼は、文部科学省の硬直した姿勢を批判しているようで、現実には障害児学校・学級設置に極めて消極的だった文部科学省を、まるで積極的に障害児を受け入れる教育上の条件整備をしてきたかのように「美化」しているのである。
だから、彼の大学のある県で、障害児学校の統廃合がすすめられている現実を直視し、書きもしないのである。
当時の論争における養護学校を否定するか否かはともかくとしても、ある府県の調査によるとさまざまな問題があるが、就学適正委員会が「障害児学校」としても障害児学校にも障害児学級にも入学・入級しなかった子どもたちの人数が障害児学校・障害児学級の3倍以上であったことも窪島氏は承知していない。
さらにそれらの子どもたちの学習状況をも把握していないのである。
比較する国々の基礎条件を整えないで
「比較」する「研究」
国際比較としながら窪島氏は、最低限それぞれの国の概念基準にそろえて比較検討するのが研究者として常識事項だろう。だが、彼は、アメリカやドイツやイギリス。ユネスコの統計を見ても文部科学省の障害児学校・学級の項目しか眼中にないと考えられる。
毎年、5月1日の全国の生徒の在籍調査などを含めた基本統計を読みこなせば、少なくとも普通学級(彼は文部科学省が通常学級という通達を出したとたんに普通学級という用語を自ら投げ捨ていた。日本の教育制度には、通常学級という用語はない。)で、アメリカやドイツやイギリスで対象とされる障害児がどれくらいの比率で教育を受けていたか把握できる。
特に保健調査や各種学校調査をクロスさせれば、さらに詳細に把握できるし、彼の得意分野であるとするドイツの概念に変換して比較することも可能である。
文部科学省の統計のあやふやさを問題にするのなら、文部科学省の「発達障害」の概念を肯定するのは納得のいかないことである。
調査方法に潜む
大問題も知らずに単純比較する
「教育とはもともと実践以外のなにものではないのであるから,教育が実践性を有するのは当然のことではな,いのか, という疑念が呈されよう。理論上はその通りなのである。」と窪島氏が主張していることは先に述べた。彼が、実践以外のなにものでもない、とするならば、文部科学省統計の基本調査である学校やその調査にあたった教師にその調査の実状を聞いたことがあるだろうか。
聞きもしていないで、文部科学省の調査結果だで判断していることが窺える。なぜなら、ある県の教育学部の教授は文部科学省の統計や各種結果が発表された時に、必ず学校の教師たちに尋ね、調査結果と照合していると報告されている。そのことから、この教授は、学校と充分密接な関係を持っていることが解る。
なぜなら、文部科学省の統計や調査資料報告を鵜呑みに出来ないことは、学校教育の実践者たちは充分承知しているからである。
トップダウン方式の調査に学校の教師は振り回されている
文部科学省の調査書などは、文部科学省から各都道府県教委。各都道府県教委から各都道府県教委・各市町村教委。それから、学校長へ行き、各学校の担当者か、他の管理職が記入する。
記入され結果は、逆のルートを通ってまず府県レベルで集約され、文部科学省に報告される。その集約結果を文部科学省が発表される。
このルートの中では、幾重にもチエックがかかり、訂正・改変されることが非常に多い。このことを、ある県の教育学部の教授は知っているが所以に調査の基本単位である学校の教師たちに尋ね、文部科学省の統計の信憑性を確かめて研究論文を書いている。
少なくともこのような調査の実状を知っているならば、文部科学省の調査結果だけでことを論じることはないはずである。
トップダウン・ダウンアップの調査方法には、大きな矛盾がある。ある問題に絞った調査は、チエックがかかるが、その他ではチエックがかからないということことがある。そのため調査報告の整合性と矛盾をクロスさせると意外に実態が把握できるということがある。
アメリカの数値を基準に
近づけようとする無謀な考え
窪島氏は、文部科学省の発達障害の数値の把握がアメリカなどとあまりにもかけ離れている。普通校では、発達障害児はもっと多いはずだと決めつける。
それなら、文部科学省がどのような方法で発達障害児の調査をしたのかを各学校の教師たちに聞いてみるべきだろう。
どのような調査項目で、どのような中味であったのかを。現在では、情報開示がされているのでそれらの資料を入手出来るはずである。それらのことをしないで上辺だけの調査結果で論じるのは、科学的とは言えない。では、これらの調査上の問題は、日本だけかも考えておく必要があるだろう。
比較できないもので、比較する。この記述は窪島氏の文章に貫かれている。
研究者が、研究しないで文部科学省の調査結果だけで論じる自らの立場に恥じることもないようである。
普通校で学ぶ障害児の実状すらも
見ていなかった「障害児教育学」
今や障害児学校と障害児学級に在籍する障害児より普通校に在籍する障害児のほうが圧倒的に多い、と書くと、窪島氏は、それは単に在籍しているだけにすぎないと断定するだろう。
だが、それは学校で悪戦苦闘しながら教育実践している教職員への侮蔑でしかない。
彼の過去の研究報告には、これらの研究がないだけであって、普通学級に在籍していた障害児の教育実践は、障害児学校・学級での教育実践よりはるかに多い。
それは、窪島氏は、教育学とか障害児教育学とかを自分の専門分野と自負していた頃に、障害児学校や障害児学級だけに目が行き、全体の教育の中で障害児がどのような教育を受けていたかすら知らなかったという自己証明でしかない。
文部科学省を批判しているが
内実は評価・賞賛する
窪島氏は、
文部科学省は一貫して障害を有する子どもが通常学級に在籍することを否定しているが, これらの数字は, 日本が障害児に対して「分離的」 であるという一般的通念に反して, この国の障害児教育は量的な面ではきわめて「未発達」であること,逆にもっとも素朴で未発達な形態でのインテグレーション,インクルージョンが支配的な国であることを示している。
と書き、「文部科学省は一貫して障害を有する子どもが通常学級に在籍することを否定している。」と断定するが、文部科学省の資料に普通学級に在籍している障害を有する生徒が都道府県別に集約されていることも知らないである。
さらに文部科学省の研究報告には、障害を有する子どもが通常学級に在籍する教育報告も少なくない。
もしも、彼の言うように文部科学省が障害を有する子どもが普通学級に在籍することを一貫して否定していたとするならば、1960年代半ばから文部省(当時)が取り組んだインテグレーションを彼はどのように説明するのだろうか。
彼は文部科学省の硬直した姿勢を批判するようでいて、現実的には「ではそれならば、文部科学省は、障害を有する子どもを障害児学校や障害児学級で教育出来る条件整備をしてきたのか。すべての障害児を受け入れる学校や学級をつくってきたのか」という問題には答えきれないだろう。
なぜなら、文部科学省は障害児学校や障害児学級の設置には、一貫して消極的であった現実がある。
文部科学省は多くの障害児が普通校に在籍していることを黙視してきたのが現実だろう。
彼は、文部科学省の硬直した姿勢を批判しているようで、現実には障害児学校・学級設置に極めて消極的だった文部科学省を、まるで積極的に障害児を受け入れる教育上の条件整備をしてきたかのように「美化」しているのである。
だから、彼の大学のある県で、障害児学校の統廃合がすすめられている現実を直視し、書きもしないのである。