窪島氏は、人間の身体と精神の問題に次のように書いている。
たとえば, 人間の自然的,歴史的制約としての側面である,いわゆる受苦的存在として。これは,人間的自由の根拠をなす。 また, 生命体としての人間の存在を静的な状態において支えるいわゆる植物的存在として。 これは生物の生命維持装置としてホメオスタシスを保持する主として自律神経系や内分泌系が司る。このバランスが崩れるとさまざまな神経症や生体の全身の疲はいを引き起こし,死滅に至ることさえあることをストレス理論は教えている。
社会関係においてもおなじことが言いうる。自立(自律)の根拠でありその源は依存と安心, すなわち信頼にある。積極的な能動性を支えるのは静かな自己意識と自尊感情である。 活動性は休息によってこそ高められる。
一面的な人間の身体と精神のメカニズム
だが彼の書いていることはあまりも一面的すぎないのではないか。
人間の生命維持装置のバランスが崩れると、「疲はいを引き起こし,死滅に至ることさえあることをストレス理論は教えている。」としながら、このストレスの論理を社会関係でも言えるのであり、「安心」「信頼」「静かな自己意識と自尊心」であり、活動は「休息によってこそ」高められるとしている。
窪島氏は、休息こそがストレスを取り除く要因であると認識しているようであり、彼は繰り返しこのことを書いている。
だが、この点でも彼は教育現場や教育の実状を見ていないばかりか、今日の日本における社会を直視していないことが解る。
教職員の過労死・過労自殺を学ばず教育を言う
karosiなどという表記が国際語となっていることは広く知られるようになったことは悲しむべきことであるが、この表記は日本語の読みに応じて世界各地の言語で表記されている。
この過労死が労働災害や公務災害として認定されなかった原因のひとつに過労死した人が「休息」「休日」であったことを知る必要がある。
「疲憊」「死滅」と言いながら、彼は、人間の身体と精神との関わりのメカニズムを理解していない。
このことは彼の「発達障害」や近年特に強調している「読み書き障害」の精神・神経活動とも関連するので書き留めておきたい。
発達障害や特別支援教育などをすすめる窪島氏は、次のようなことを承知しているのだろか。
絶対くり返してはならない
特別支援の名の下に死に追いやられた悲劇
2009年10月27日、最高裁判所第3小法廷(藤田宙靖裁判長)は、地公災基金静岡県支部長の上告を裁判長以下5名全員一致の意見で棄却しました。これで東京高等裁判所の勝利判決が確定しました。
2000年1月、静岡県小笠郡(現掛川市)の小学校に勤務していた尾崎善子先生(当時48歳)は養護学級担任中、養護学校から養護学級へ転入したいと希望した(教育委員会の就学指導では養護学校がふさわしいとされていた)多動性障害のA君の2週間にもわたる長期の「体験入学」を受け入れました。
( ※ 注 本文にはないが、教育委員会の指導に対して、養護学級の担任は、体験してくる生徒と元学級の生徒との関係をよく知っていて、教育上よくないと強く異議申し立てをしたが、教育委員会が強要した。
そのため結果的に多動性障害のA君の2週間にもわたる長期の「体験入学」を受け入れました、という文章になっている。
生徒の状況をよく知る教師の意見をまったく無視して、指導する側の責任者は、教師は殺んでもやりなさいという結果を招いた。
過労死・過労自殺を引き起こした責任者は公務災害や労災では裁かれず、認定だけを争われる現行法律に問題がある。
そのため各地で安全配慮義務違反の裁判が行われ少なくない勝利を得ているが、欧米と異なって、日本では過労死・過労自殺に追い込んだ使用者・事業者が殺人の罪を犯したとされないことに最大の問題がある。彼らは殺人者なのである。日本では、このように捉えられないでいる悲惨な現実がある。
この裁判では、うつ病との因果関係や自殺との関わり、養護学級教師の担任の負担を公務災害支払基金側が問題にしたためこのような記述になっている。
しかし、一番の基本問題は、教育実践をすすめている教師の意見を充分聞かなかったことであるのは明白である。
これと同様の問題が各地で起きているが、これは文部科学省が、特別支援教育を打ち出したことと関係している。)
ところがこの「体験入学」により、今までスムーズに出来ていた授業が成立しなくなり、在籍児童と築き上げてきた学級体制が崩されてしまったことから、著しい心身の負荷により「うつ病」を発症しました。
その後、症状が回復しないため、2000年4月から休職、症状の回復に専念しました。しかし、8月、志を半ばにして「苦しい。もうこれ以上生きていけない」と自ら命を絶たれました。
ご両親は「公務災害」の認定申請をしたものの、基金支部・支部審査会・基金再審査はいずれも公務災害とは認めず、2004年8月、静岡地方裁判所に「公務外認定処分の取り消し」を求めて提訴。2年半で14回の口頭弁論を重ね、公務災害認定を訴えましたが、2007年3月22日、「原告の請求を棄却する」との不当な判決が下されました。
原告は、東京高裁に控訴し、4回の口頭弁論を経て、2008年4月24日に逆転勝訴の判決が出されました。東京高裁で出された「原判決(公務外災害認定処分)を取り消す」という判決は、画期的なものでした。
「質的・精神的な過重性」を認めるその内容は、「教員として20年間勤務をした実績ある先生が、うつ病を発症し、自殺にまで追い込まれてしまった本件体験入学の実施の公務としての過重性は優に肯定できる」というように、働く者の立場に立ったものであり、過労死・過労自殺について、今までは『時間量』を中心に判断されていましたが、判決は体験入学など「質的・精神的な過重性」を正しく捉え、「うつ病は、普通の体の病気である。うつ病になりやすい性格とは問題のある性格傾向という意味でなく、むしろ適応力のある誠実な気質と関係している」というものでした。
それは、教育現場で子どもたちの成長を願い、精神的にも肉体的にもギリギリのところで頑張っている教員にとって、大きな励ましとなるものでした。
この東京高裁判決に対して基金側は上告を決め、判決を覆そうとしました。
高裁判決以後、「尾崎裁判」は全国各地から大きな注目をうけ、支援されてきました。
教員の過労自殺裁判で基金が最高裁まで争い、公務災害と認められたのは全国で初めてです。
働くもののいのちと健康を守る全国センター通信No.126(通巻136号) 2009年12月1日
生徒と教師が健康で安全であってこそ
教育は成立する
この事案のすべての経過と教師が死に至った原因と裁判での論争を知るならば、窪島氏が書く「自立(自律)の根拠でありその源は依存と安心, すなわち信頼にある。積極的な能動性を支えるのは静かな自己意識と自尊感情である。 活動性は休息によってこそ高められる。」などとは軽々に言えないはずである。
しかし、彼はこれらの問題をまったく承知していない。そして、特別支援教育や発達障害についての教師の役割を縷々書きつけているのである。
窪島氏の眼中には、
教職員のストレスなどの労働安全衛生はないのか
かれは、教職員を排除したストレス等の問題を書く。
教育学において臨床が強調される所以は個々の子どもの自由と安心や信頼に基づく自己意識,自尊感情,自己肯定感などとして語られるその基盤(深層といってもいい)への着目である。教育学にとって必要なことはこれまで教育実践がそれを苦手にしていたという事実の承認と自己批判的省察である。その上で, 臨床教育学の求める教育実践像は,教師の指導性を引き下ろすことではなく,教師と子どもとの新たな関係性を構築する教師の指導性を一層求めることになる。
この論理は、静岡における養護学級教師の過労自殺事件の公務災害不認定の論理とまったく同一線上にある。
それは、「個々の子どもの自由と安心や信頼に基づく自己意識,自尊感情,自己肯定感などとして語られるその基盤(深層といってもいい)への着目」を教師の指導性に求めているところにあるからである。
教師も子どもも「疲憊」「死滅」しない学校
教師も子どもも「疲憊」「死滅」しない学校環境が合ってこそ、教育は成立するとは書かなくなっている。
いや、書かなくなったのが窪島氏の特徴である。
たとえば, 人間の自然的,歴史的制約としての側面である,いわゆる受苦的存在として。これは,人間的自由の根拠をなす。 また, 生命体としての人間の存在を静的な状態において支えるいわゆる植物的存在として。 これは生物の生命維持装置としてホメオスタシスを保持する主として自律神経系や内分泌系が司る。このバランスが崩れるとさまざまな神経症や生体の全身の疲はいを引き起こし,死滅に至ることさえあることをストレス理論は教えている。
社会関係においてもおなじことが言いうる。自立(自律)の根拠でありその源は依存と安心, すなわち信頼にある。積極的な能動性を支えるのは静かな自己意識と自尊感情である。 活動性は休息によってこそ高められる。
一面的な人間の身体と精神のメカニズム
だが彼の書いていることはあまりも一面的すぎないのではないか。
人間の生命維持装置のバランスが崩れると、「疲はいを引き起こし,死滅に至ることさえあることをストレス理論は教えている。」としながら、このストレスの論理を社会関係でも言えるのであり、「安心」「信頼」「静かな自己意識と自尊心」であり、活動は「休息によってこそ」高められるとしている。
窪島氏は、休息こそがストレスを取り除く要因であると認識しているようであり、彼は繰り返しこのことを書いている。
だが、この点でも彼は教育現場や教育の実状を見ていないばかりか、今日の日本における社会を直視していないことが解る。
教職員の過労死・過労自殺を学ばず教育を言う
karosiなどという表記が国際語となっていることは広く知られるようになったことは悲しむべきことであるが、この表記は日本語の読みに応じて世界各地の言語で表記されている。
この過労死が労働災害や公務災害として認定されなかった原因のひとつに過労死した人が「休息」「休日」であったことを知る必要がある。
「疲憊」「死滅」と言いながら、彼は、人間の身体と精神との関わりのメカニズムを理解していない。
このことは彼の「発達障害」や近年特に強調している「読み書き障害」の精神・神経活動とも関連するので書き留めておきたい。
発達障害や特別支援教育などをすすめる窪島氏は、次のようなことを承知しているのだろか。
絶対くり返してはならない
特別支援の名の下に死に追いやられた悲劇
2009年10月27日、最高裁判所第3小法廷(藤田宙靖裁判長)は、地公災基金静岡県支部長の上告を裁判長以下5名全員一致の意見で棄却しました。これで東京高等裁判所の勝利判決が確定しました。
2000年1月、静岡県小笠郡(現掛川市)の小学校に勤務していた尾崎善子先生(当時48歳)は養護学級担任中、養護学校から養護学級へ転入したいと希望した(教育委員会の就学指導では養護学校がふさわしいとされていた)多動性障害のA君の2週間にもわたる長期の「体験入学」を受け入れました。
( ※ 注 本文にはないが、教育委員会の指導に対して、養護学級の担任は、体験してくる生徒と元学級の生徒との関係をよく知っていて、教育上よくないと強く異議申し立てをしたが、教育委員会が強要した。
そのため結果的に多動性障害のA君の2週間にもわたる長期の「体験入学」を受け入れました、という文章になっている。
生徒の状況をよく知る教師の意見をまったく無視して、指導する側の責任者は、教師は殺んでもやりなさいという結果を招いた。
過労死・過労自殺を引き起こした責任者は公務災害や労災では裁かれず、認定だけを争われる現行法律に問題がある。
そのため各地で安全配慮義務違反の裁判が行われ少なくない勝利を得ているが、欧米と異なって、日本では過労死・過労自殺に追い込んだ使用者・事業者が殺人の罪を犯したとされないことに最大の問題がある。彼らは殺人者なのである。日本では、このように捉えられないでいる悲惨な現実がある。
この裁判では、うつ病との因果関係や自殺との関わり、養護学級教師の担任の負担を公務災害支払基金側が問題にしたためこのような記述になっている。
しかし、一番の基本問題は、教育実践をすすめている教師の意見を充分聞かなかったことであるのは明白である。
これと同様の問題が各地で起きているが、これは文部科学省が、特別支援教育を打ち出したことと関係している。)
ところがこの「体験入学」により、今までスムーズに出来ていた授業が成立しなくなり、在籍児童と築き上げてきた学級体制が崩されてしまったことから、著しい心身の負荷により「うつ病」を発症しました。
その後、症状が回復しないため、2000年4月から休職、症状の回復に専念しました。しかし、8月、志を半ばにして「苦しい。もうこれ以上生きていけない」と自ら命を絶たれました。
ご両親は「公務災害」の認定申請をしたものの、基金支部・支部審査会・基金再審査はいずれも公務災害とは認めず、2004年8月、静岡地方裁判所に「公務外認定処分の取り消し」を求めて提訴。2年半で14回の口頭弁論を重ね、公務災害認定を訴えましたが、2007年3月22日、「原告の請求を棄却する」との不当な判決が下されました。
原告は、東京高裁に控訴し、4回の口頭弁論を経て、2008年4月24日に逆転勝訴の判決が出されました。東京高裁で出された「原判決(公務外災害認定処分)を取り消す」という判決は、画期的なものでした。
「質的・精神的な過重性」を認めるその内容は、「教員として20年間勤務をした実績ある先生が、うつ病を発症し、自殺にまで追い込まれてしまった本件体験入学の実施の公務としての過重性は優に肯定できる」というように、働く者の立場に立ったものであり、過労死・過労自殺について、今までは『時間量』を中心に判断されていましたが、判決は体験入学など「質的・精神的な過重性」を正しく捉え、「うつ病は、普通の体の病気である。うつ病になりやすい性格とは問題のある性格傾向という意味でなく、むしろ適応力のある誠実な気質と関係している」というものでした。
それは、教育現場で子どもたちの成長を願い、精神的にも肉体的にもギリギリのところで頑張っている教員にとって、大きな励ましとなるものでした。
この東京高裁判決に対して基金側は上告を決め、判決を覆そうとしました。
高裁判決以後、「尾崎裁判」は全国各地から大きな注目をうけ、支援されてきました。
教員の過労自殺裁判で基金が最高裁まで争い、公務災害と認められたのは全国で初めてです。
働くもののいのちと健康を守る全国センター通信No.126(通巻136号) 2009年12月1日
生徒と教師が健康で安全であってこそ
教育は成立する
この事案のすべての経過と教師が死に至った原因と裁判での論争を知るならば、窪島氏が書く「自立(自律)の根拠でありその源は依存と安心, すなわち信頼にある。積極的な能動性を支えるのは静かな自己意識と自尊感情である。 活動性は休息によってこそ高められる。」などとは軽々に言えないはずである。
しかし、彼はこれらの問題をまったく承知していない。そして、特別支援教育や発達障害についての教師の役割を縷々書きつけているのである。
窪島氏の眼中には、
教職員のストレスなどの労働安全衛生はないのか
かれは、教職員を排除したストレス等の問題を書く。
教育学において臨床が強調される所以は個々の子どもの自由と安心や信頼に基づく自己意識,自尊感情,自己肯定感などとして語られるその基盤(深層といってもいい)への着目である。教育学にとって必要なことはこれまで教育実践がそれを苦手にしていたという事実の承認と自己批判的省察である。その上で, 臨床教育学の求める教育実践像は,教師の指導性を引き下ろすことではなく,教師と子どもとの新たな関係性を構築する教師の指導性を一層求めることになる。
この論理は、静岡における養護学級教師の過労自殺事件の公務災害不認定の論理とまったく同一線上にある。
それは、「個々の子どもの自由と安心や信頼に基づく自己意識,自尊感情,自己肯定感などとして語られるその基盤(深層といってもいい)への着目」を教師の指導性に求めているところにあるからである。
教師も子どもも「疲憊」「死滅」しない学校
教師も子どもも「疲憊」「死滅」しない学校環境が合ってこそ、教育は成立するとは書かなくなっている。
いや、書かなくなったのが窪島氏の特徴である。