2011年4月30日土曜日

「 ぼく、字が書けないだけど、さぼってなんかいない」 を出版し、 読み書き障害の子どもは ぼく、字が書けない と断定し、 さぼってなんかいない とする教育展望と滋賀大学教育学部窪島務氏の巨像と実像(4)



 「正しい」「正しくない」「書字エラー」「錯読・錯書」とする根拠は不鮮明と書いたが、このことは窪島氏の本質を現していない。
 根拠は別のところにある。
 なぜそこまで、書くのか。
 なぜそこまで書かざるを得ないのか。
 は、次のことが明らかになったからである。

子どもの言葉を借りて本音を現す

  2010年2月に
NPO法人滋賀大キッズカレッジ手記編集委員会編 編集代表として、窪島務は、
「 ぼく、字が書けないだけど、さぼってなんかいない」
(文理閣)を出した。
 この本を、
「読み書き障害のことをもっと知ってほしい」「わたしの思いを聞いてほしい」これまで注目されることが少なかった「読み書き障害」について、その特徴や学校での対応を保護者と子どもたちが本音で綴りました。
と紹介している。
 だがこの本のタイトルは、すでに述べてきた読み書き障害の「書字エラー」「錯読・錯書」などとまったく異なった表題となっている。

字が書けない、と決めつける心情

 すなわち、子どもたちは「書字エラー」「錯読・錯書」でもなく「字が書けない」としていることにある。
 しかも、子どもたちが言っているかのような表題にして、
「ぼく」「さぼってなんかいない」
としている。
 子どもたちは、
「字が書けない」
と言っているのだろうか。

 例えそう思っていても、それはそうではないのだ、と子どもたちに知らせることが必要だと窪島氏らの主張ではないのか。
 子どもたちの言葉として、窪島氏らが
「字が書けない」
としている部分を誇張しているのではないか。

 切実な思いで書いている親たちの思いを窪島氏らは、
「書けない」
ということで括ってしまっているのである。

 ここには、子どもたちが字を書いているが、それを「エラー」(誤り?過失?)「錯読・錯書」(まじるった読み・書き?入れ混じった読み書き?・乱れた読み書き?」と表記していたことはまったく現されていない。

 字が書けない。

と窪島氏らが、断定し、認識していることを「教師が解ってくれない。」「傷つけられた」「人権を認めていない。」などの気持ちを表面に出していながら心底考えているのは、

字が書けていない

のではなく、

字が書けない。

と言う断定的固定概念があることが浮き彫りにしているのである。

子どもや親の気持ちを代弁するようで
自分たちの本音を本の表題にするひどさ

 様々なところで様々な言い様をしているが、窪島らは、

子どもたちが
「字が書けていない」
と考えているのである。

 これは、窪島氏らの指導を受けている子どもたちや子どもたちの親や彼の書いた文章を読んでいる人々への窪島氏の本音であると考えざるを得ないだろう。

 子どもたちが、字が書けない。
 ということと、
 字を書いているけれど国語の字と違う字でとなっている。


ということは見方や考え方で本質的な違いがある。

 子どもたちの状況についての事実とまったく異なった「事実」が書かれていることになる。

 「ぼくは、字を書いているけど、さぼってなんかいない」

という本の表題にしてはいないのである。


 読み書き障害の子どもたちは、「書けてない」。
    これが、窪島氏の本意である。


こんなひどいことが、あっていいのだろうか。
私の子どもを壊さないでください。
先生、もっとLDのことを理解してください。
どうしよう?
学校の理解の遅れに追い詰められて。
等々の対して、理解するようで、応えるようで、こころの底では、それらに応えていなことを基本のところで自ら告白しているのである。
「本当のことを言えば書けてないが、努力すれば何とかなるだろう」
などの本質的な考えが見え隠れする。
 なぜなら、読み書き障害の原因や問題解決の具体的科学的方途を示さず、ただ現状の自己統計に終始している事を見ても明らかである。
 これらのことは教育学研究者、大学教授と言うよりも人間として許されることだろうか。 
 教育学研究者、大学教授と言われる人のすることであるとは信じがたいが、以上の事は平然となされている。

親や子どもたちのねがいを全面否定


 「本の題名」は、「本の中味を表してつけられる」のが普通であるが、窪島氏は充分そのことを知ってきた。」それにも関わらす、、「本の中味を表してつけられる」ことなく、逆に本の中味を否定する本の題名をつける。

 僕は書けてない、と。


 滋賀大キッズカレッジの指導法(SKCメソッド)を「安心と自尊心」としながら、窪島氏は、子どもたちの「安心と自尊心」を完全に否定して社会的に公表しているのでいるのである。
 読み書き障害の子どもは、書けないのだ、と。
 この本を出された時は、驚き、誤植ではないか出版元にまで確かめたほどである。
 だが、誤植ではなかった……。
 読み書き障害の子どもは、書けないのだ、と断定されていた。
 
研究者としての「良識や恥」以前の人間性は

 窪島氏は、編集代表としてこのような表題を付けたことを今だ何ら恥じてはいないし、研究者として事実に基づくことから研究をするという常識を「非常識」なものにしているのである。

 それが証拠に、この本の題名は改題することなく出されている。