以降、窪島氏は、個人と集団の教育を論じようとしているが、彼自身の考えの混戦のためか、文章として成立していないので省略するが、以下の部分は問題が多い。
婉曲表現に包まれた
教師の自己責任追及
担任ひとりが多様で,多次元的な子どもの課題やニーズに応えることはできない。
このように考えてくると,教育実践の多次元的な対応の構造を考えるとき,その根拠としてのニーズを構造的に把握することが重要である。学校における教育相談と子どもに対する教育サービスの関係を筆者はニーズに対する多次元・多段階構造としてモデル化して提示した。
同時にそれは, 本来教職専門性が基礎的・初歩的な教育相談機能を有していることを強調する意図からでもあった。
教師は, 日常的に子どもと接しているが故に, 潜在的可能性として教育相談においても個別相談よりもはるかに大きな成果を生む可能性を手にしているはずである。
教育実践は今日的な実践性の要請に応えようとするならば,教育の場における心理臨床的相談ではなく, 臨床を内に含んだこどもとの関係性を構築し, 人格発達に焦点を据えて, 発達の源泉 (社会的形成と教育) と発達の原動力の矛盾を含んだ力動的関係に見通しを持って対峙することでなければならない。
教師は板挟みの二重性が
要求されるとするが……
窪島氏は、断定と婉曲をくり返す文章を書く。そのため彼の意図を読み取ることは出来ないが、彼が書いてきた文章を通して読むと、
「教師は,」「潜在的可能性」として「教育相談においても個別相談よりも」はるかに大きな成果を生む「可能性を手にしているはず」である。として、可能性を手にしている教師が、その可能性を発揮していないと言いたいようである。
さらに続けて窪島氏は、
同時にそれは,すべてを教育的関係に包摂しようという欲求を抑制し,教育作用の限界を踏まえて,学校教育の外部における福祉、心理,医療の専門家との連携を追求することになろう。異分野との連携は,境界を強調することではなく,重なりを重視し,重なり合う部分を協同,連携の場として活動することを中心に構想すべきである。
婉曲表現に包まれた
教師の自己責任追及
担任ひとりが多様で,多次元的な子どもの課題やニーズに応えることはできない。
このように考えてくると,教育実践の多次元的な対応の構造を考えるとき,その根拠としてのニーズを構造的に把握することが重要である。学校における教育相談と子どもに対する教育サービスの関係を筆者はニーズに対する多次元・多段階構造としてモデル化して提示した。
同時にそれは, 本来教職専門性が基礎的・初歩的な教育相談機能を有していることを強調する意図からでもあった。
教師は, 日常的に子どもと接しているが故に, 潜在的可能性として教育相談においても個別相談よりもはるかに大きな成果を生む可能性を手にしているはずである。
教育実践は今日的な実践性の要請に応えようとするならば,教育の場における心理臨床的相談ではなく, 臨床を内に含んだこどもとの関係性を構築し, 人格発達に焦点を据えて, 発達の源泉 (社会的形成と教育) と発達の原動力の矛盾を含んだ力動的関係に見通しを持って対峙することでなければならない。
教師は板挟みの二重性が
要求されるとするが……
窪島氏は、断定と婉曲をくり返す文章を書く。そのため彼の意図を読み取ることは出来ないが、彼が書いてきた文章を通して読むと、
「教師は,」「潜在的可能性」として「教育相談においても個別相談よりも」はるかに大きな成果を生む「可能性を手にしているはず」である。として、可能性を手にしている教師が、その可能性を発揮していないと言いたいようである。
さらに続けて窪島氏は、
同時にそれは,すべてを教育的関係に包摂しようという欲求を抑制し,教育作用の限界を踏まえて,学校教育の外部における福祉、心理,医療の専門家との連携を追求することになろう。異分野との連携は,境界を強調することではなく,重なりを重視し,重なり合う部分を協同,連携の場として活動することを中心に構想すべきである。
このことは, 教師に二重性を要求し,実践的ジレンマの中におくことになる。 このジレンマは,単に「見方」「子ども観」の問題ではなく,実践的,現実的ジレンマである。
と書いている。彼の他の文章などを読むと「教師の専門性に対するもう一つの専門性を持つこと」を強調している主張が、朧げに考えられる。
窪島氏は、教師はすべてを教育だけではなく、他の領域と重なり合う部分を中心に考える二重性があることを「要求」し、教師がその実践の中で、「相反する二つの事の板ばさみになって、どちらとも決めかねる状態。」「抜きさしならない羽目」に身を置くことである。(彼の言うジレンマを日本文にするとこのようになる。)
ようは、教師もジレンマに陥ることで、子どものジレンマが理解できるのだと言いたいいようである。
このように書くと、radical(過激な)な意見とされるので、彼は教師に要求される二重性を曖昧に表現して、自己主張を覆い隠している。
27年前の主張とはまったく異質
ここで、「27年余前の主張と最近の主張のあまりにも大きな落差はどこから…」の項で引用した彼自身の書いた文章を再録する。
「これまでのように自己の狭く限定された分野での専門性でなく、他分野との結合を進める力量をも専門性の中身と考えることは重要である。そこには当然社会科学的認識と洞察の力量が含まれるであろろう。」(障害児教育妨害者の「理論」批判 完全参加を目指す教育 全障研出版 1983年8月1日)
とはまったく異なった主張として立ち現れている。
教師が責任が持てないことまで
責任をもてとする二重性
教師の二重性は, 部分的に役割分担として分離され異なる人格に担われることが必要である。
たとえば,学校の中に子どもが安心して自分の時間を持ち,休息や緊張を解くことができる空間を用意すること, そこで子どもを見守り, 時に話し相手になる大人を配置すること (この大人は,小中学校において臨床心理士や学校心理士などである必要はないが, 学校と子どもの発達および学習と行動の両面をよく知っている人でなければならない)、この空間と大人は,教職員全体の共通認識の下で, 学校教育の一部として学校全体の中に位置づいていなければならない。
さらには, 学校の周辺に必要な時に直ちにコンサルテーションを受けることができる医療や心理及び教育学の専門家とのネットワークを形成しておくことなどである。
学校教育はその役割が縮小するどころか、子どもの人格発達を保障する社会的機関としてますますその役割が大きくなっていく。
と窪島氏は断定するのである。
ここには彼が好んで使う「欧米では、」という言葉はまったく打ち消されている。
回りくどくなるので、先に書いておく。
窪島氏の主張は、欧米ではNOと言われる
欧米の多くの国々では、教師の仕事(労働)は、教育であり、それ以外の仕事(労働)は、他の領域の人々の仕事(労働)である、と明確にされている。
ところが、窪島氏は、日本の教師の仕事(労働)として権限が与えられていない、「子どもが安心して自分の時間」を持ち、「休息や緊張を解くことができる空間」を用意する、 そこで子どもを見守り, 時に「話し相手になる大人を配置すること」そして、「それを学校教育の一部として学校全体の中に位置づいていなければならない。」とまで言い切るのである。
彼が、日本の教育制度を充分知った上で書いているのなら、この教師の二重性なるものは、子どもの問題の責任をすべて教師に求める考えのなにものでもない。そして、国や行政・教育行政等々を免罪していると言われてもやむを得ないだろう。
各都道府県や教育委員会や校長などの管理職などが持っている権限の下で、働かされている教師に、各都道府県や教育委員会や校長などの管理職などが持っている権限を持ってやるべきだ、とするのが窪島氏の考えである。
ようは、何もかも含めて教師がやりなさい、それまでの教師の仕事と決めていたものの上にさらにもう一つ権限のない仕事と仕事として考えることが、子どもの教育なのだ。
このようなことを平然と書くのなら、窪島氏は、過去に自己が書き、述べて来たことをどのように考えているのかを、まず精算すべきだろう。
窪島氏の教師の二重性なるものは、彼が例としてあげている国々では、すべて否定されている。
教師は、教育に専念し、子どものことに関わる教育以外の領域はそれぞれの専門職が対応するなどの基本を、窪島氏は充分承知しているはずであるにもかかわらず、あえて、日本で、教師の二重性を言うのはなぜだろうか。
明確な
ILO・ユネスコ教員の地位に関する勧告
参考に彼が引用したユネスコも関わった文章の一部を掲載しておく。
ILO・ユネスコ教員の地位に関する勧告
(1966年9月21日-10月5日 ユネスコにおける特別政府間会議)
8 教員の権利と責任職業上の自由
61 教育職は専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するための格別に資格を認められたものであるから、承認された計画の枠内で、教育当局の援助を受けて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割を与えられるべきである。
63 一切の視学、あるいは監督制度は、 教員がその職業上の任務を果たすのを励まし、援助するように計画されるものでなければならず、教員の自由、創造性、責任感をそこなうようなものであっては ならない。
67 生徒の利益となるような、教員と父母の密接な協力を促進するために、あらゆる可能な努力が払われなければならないが、しかし、教員は、本来教員の専門職上の責任である問題について、父母に よる不公正または不当な干渉から保護されなければならない。
70 すべての教員は、専門職としての地位が教員自身に大きくかかっていることを認識し、そのすべての専門職活動のなかで最高の水準を達成するよう努力しな ればならない。
85 教員は価値のある専門家であるから、教員の仕事は、教員の時間と労力が 浪費されないように組織され援助されな ければならない。
と書いている。彼の他の文章などを読むと「教師の専門性に対するもう一つの専門性を持つこと」を強調している主張が、朧げに考えられる。
窪島氏は、教師はすべてを教育だけではなく、他の領域と重なり合う部分を中心に考える二重性があることを「要求」し、教師がその実践の中で、「相反する二つの事の板ばさみになって、どちらとも決めかねる状態。」「抜きさしならない羽目」に身を置くことである。(彼の言うジレンマを日本文にするとこのようになる。)
ようは、教師もジレンマに陥ることで、子どものジレンマが理解できるのだと言いたいいようである。
このように書くと、radical(過激な)な意見とされるので、彼は教師に要求される二重性を曖昧に表現して、自己主張を覆い隠している。
27年前の主張とはまったく異質
ここで、「27年余前の主張と最近の主張のあまりにも大きな落差はどこから…」の項で引用した彼自身の書いた文章を再録する。
「これまでのように自己の狭く限定された分野での専門性でなく、他分野との結合を進める力量をも専門性の中身と考えることは重要である。そこには当然社会科学的認識と洞察の力量が含まれるであろろう。」(障害児教育妨害者の「理論」批判 完全参加を目指す教育 全障研出版 1983年8月1日)
とはまったく異なった主張として立ち現れている。
教師が責任が持てないことまで
責任をもてとする二重性
教師の二重性は, 部分的に役割分担として分離され異なる人格に担われることが必要である。
たとえば,学校の中に子どもが安心して自分の時間を持ち,休息や緊張を解くことができる空間を用意すること, そこで子どもを見守り, 時に話し相手になる大人を配置すること (この大人は,小中学校において臨床心理士や学校心理士などである必要はないが, 学校と子どもの発達および学習と行動の両面をよく知っている人でなければならない)、この空間と大人は,教職員全体の共通認識の下で, 学校教育の一部として学校全体の中に位置づいていなければならない。
さらには, 学校の周辺に必要な時に直ちにコンサルテーションを受けることができる医療や心理及び教育学の専門家とのネットワークを形成しておくことなどである。
学校教育はその役割が縮小するどころか、子どもの人格発達を保障する社会的機関としてますますその役割が大きくなっていく。
と窪島氏は断定するのである。
ここには彼が好んで使う「欧米では、」という言葉はまったく打ち消されている。
回りくどくなるので、先に書いておく。
窪島氏の主張は、欧米ではNOと言われる
欧米の多くの国々では、教師の仕事(労働)は、教育であり、それ以外の仕事(労働)は、他の領域の人々の仕事(労働)である、と明確にされている。
ところが、窪島氏は、日本の教師の仕事(労働)として権限が与えられていない、「子どもが安心して自分の時間」を持ち、「休息や緊張を解くことができる空間」を用意する、 そこで子どもを見守り, 時に「話し相手になる大人を配置すること」そして、「それを学校教育の一部として学校全体の中に位置づいていなければならない。」とまで言い切るのである。
彼が、日本の教育制度を充分知った上で書いているのなら、この教師の二重性なるものは、子どもの問題の責任をすべて教師に求める考えのなにものでもない。そして、国や行政・教育行政等々を免罪していると言われてもやむを得ないだろう。
各都道府県や教育委員会や校長などの管理職などが持っている権限の下で、働かされている教師に、各都道府県や教育委員会や校長などの管理職などが持っている権限を持ってやるべきだ、とするのが窪島氏の考えである。
ようは、何もかも含めて教師がやりなさい、それまでの教師の仕事と決めていたものの上にさらにもう一つ権限のない仕事と仕事として考えることが、子どもの教育なのだ。
このようなことを平然と書くのなら、窪島氏は、過去に自己が書き、述べて来たことをどのように考えているのかを、まず精算すべきだろう。
窪島氏の教師の二重性なるものは、彼が例としてあげている国々では、すべて否定されている。
教師は、教育に専念し、子どものことに関わる教育以外の領域はそれぞれの専門職が対応するなどの基本を、窪島氏は充分承知しているはずであるにもかかわらず、あえて、日本で、教師の二重性を言うのはなぜだろうか。
明確な
ILO・ユネスコ教員の地位に関する勧告
参考に彼が引用したユネスコも関わった文章の一部を掲載しておく。
ILO・ユネスコ教員の地位に関する勧告
(1966年9月21日-10月5日 ユネスコにおける特別政府間会議)
8 教員の権利と責任職業上の自由
61 教育職は専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するための格別に資格を認められたものであるから、承認された計画の枠内で、教育当局の援助を受けて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割を与えられるべきである。
63 一切の視学、あるいは監督制度は、 教員がその職業上の任務を果たすのを励まし、援助するように計画されるものでなければならず、教員の自由、創造性、責任感をそこなうようなものであっては ならない。
67 生徒の利益となるような、教員と父母の密接な協力を促進するために、あらゆる可能な努力が払われなければならないが、しかし、教員は、本来教員の専門職上の責任である問題について、父母に よる不公正または不当な干渉から保護されなければならない。
70 すべての教員は、専門職としての地位が教員自身に大きくかかっていることを認識し、そのすべての専門職活動のなかで最高の水準を達成するよう努力しな ればならない。
85 教員は価値のある専門家であるから、教員の仕事は、教員の時間と労力が 浪費されないように組織され援助されな ければならない。