2011年4月10日日曜日

外国語を使う粉飾で自己主張   滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(4)




 さて、ブログの制約で窪島氏の問題を羅列して述べてみよう。かれは、しばしば、ドイツ語・英語・カタカナ表記を文中に導入して、さも専門的な考え化のように粉飾するが、日本語として意味がしばしば通じないことが多い。

根拠もなく
もっとも困難であると決めつける

 「教育とはもともと実践以外のなにものではないのであるから,教育が実践性を有するのは当然のことではな,いのか, という疑念が呈されよう。理論上はその通りなのである。」「もともと, この題は学校教育に限定されるものではないが, ここでは臨床教育学が主として学校教育に関連して問題になっているということを考慮して焦点を学校教育におく。」「またそれは, 臨床教育学の提起が、学校教育においてもっとも困難であると考えられることからもあえて学校教育をとりあげる。」と書いている。彼は、「学校教育においてもっとも困難であると考えられること」をどのようなことだと考えているのだろうか。
 この彼の考えには、すでにあとでの述べる矛盾がある。
 「特別ニーズ教育」 の主たる領域が通常学級であるにもかかわらず, 通常の教育(学)においてまだ十分に注目されているとは言いがたいことである。 この事情は, 海外においても同様である。こうした構図の矛盾に視線を向けることが,今日の学校教育の実態と要請を捉えるために必要である。

曖昧で変幻する窪島氏の「新造語」

 彼は、「特別ニーズ教育」という用語をしばしば使うが、この用語は正確なのであるだろうか。
 なぜ、ニーズだけ日本語にしないのであろうか。
 ニーズ【needs】を単純に訳しても「必要。要求。需要。」となる。
 では、特別要求される教育ということになるのであろうか。
 ところが彼は、ニーズ(needs,Bedarf)とは,藤野渉が指摘しているように,欠如・不足であり,それを埋め合わせようとする必然性を伴う欲求であり,要求である。とか、「特別ニーズ教育」 の基本は, すべての個別的ニーズに通底するということはわれわれの最近の発見であった。とか、「特別ニーズ教育」 の内容を構成するのは, (1) ニーズの特別さの認定, すなわち一般的な個性としてのユニークなニーズにとどまらない,特別な(special),特異的(specific)な学習上・発達上のニーズ,(2)ニーズの社会的文化的特性の認定,すなわち社会, 文化, 制度などの違いによる差異, (3)個々人の教育的ニーズへの関心, すなわち個別性, (4)インクルーシブ教育, すなわち学級集団を単位とする児童中心主義的教育課程, カリキュラム構造への挑戦, (5)障害を有する子どもの固有の教育課程や教育条件へのニーズの認定, すなわち特別教育(最近の文部科学省の新しい用語では「特別支援教育」), (6) 教育的ニーズ以外のニーズの存在の想定, すなわち教育的ニーズと福祉的, 医療的ニーズとの統一, たとえばスクール・ソウシャルワーカーなどである。とか、のべて、「特別ニーズ教育」をしばしば、粉飾の用語として使っている。ようするに、彼は、自ら使う「特別ニーズ教育」用語の概念を整理できないでいるのである。これは、先に述べた「まず、第1に、欧米の研究状況を把握し、その到達レベルを吸収すること」といった諸外国に依存した概念を日本に持ち込もうとしている帰結でもある。
 模倣とも言えるこの「教育的ニーズ」なるものは、窪島氏だけではなく、彼と同調する研究者たちにも見受けられる。

「教育における特別なニーズ」
      (Special Needs in Education)

 彼がしばしば使っている「特別ニーズ教育」という言葉は、1980年8月にイギリスの労働党が政権を奪取してから、検討され、公表された「ウォーノック委員会報告の答申」に由来していると考えられる。
  「教育における特別なニーズ」(Special Needs in Education)である。
 ところが、この言葉は日本の一部では、無制限に使われ、特殊教育から特別支援教育へという言葉で「新用語」「新教育用語」として使われているが問題はその日本語の訳し方や、使い方である。
 もともとSpecial Needs in Educationは、 Educationのことばの語源であるラテン語(ギリシャ語)に密接に由来しているが、ここではそれについては触れないでおく。
「教育における特別なニーズ」という言葉と「特別なニーズ教育」という言葉には、大きな差異が見られる。
 前者は、「教育の中にある特別な課題」と受け止められるだろう。ところが、後者は、「特別な課題がある教育」となる。
 すなわち、特別な課題を見出さなければならないということになるのである。ここに窪島務氏の主たる主張があるようである。


子どもの見えない「サイン」 は推定しない

 これは、よく子どものサインを見出さなければならないという論理とよく似ていて、子どもがサインを出すものだと決めつけて、そのサインを見出せないでいた、る、と教師を責め立てる論理とよく似ている。
 そこには、子どもたちが、サインを出さない時もあると言うことは、「想定」されていず、そういうことがあっても「想定外だった、と済まされてしまうのである。
 しかし、彼は「教育的ニーズ」ではなく「教育における特別なニーズ」という概念をも使う場合がある。
 「その共通の内容は, すべての子どもがそれぞれ固有のニーズをもっていることを前提にして, 通常の教育条件(ある一定の社会的条件における教育に関する条件整備,カリキュラム,教育方法,教師の資質などすべての要因を含む) の下では学習や発達を保障できないほどの大きな学習, 発達の困難を当該の子どもがもっているとき,その子どもは特別な教育的ニーズを有しているという。」と文章で書いている。
 
教育における全体と部分の歪曲

 この理解は正しいのだろうか。
 Special Needs in Educationから考えられるのは、「すべての子どもがそれぞれ固有のニーズをもっている」。しかし、「その子どもたちの中で特別な必要性を持つている子どもを見出し、特別な教育方法をもちいる。」というのが、「ウォーノック委員会報告の答申」であり、その答申にはそれを実現するための条件整備が付加されていないという立場からの反対意見も掲載されていた。
 だが、窪島務氏は、子どもたちに全体のニーズを把握して、特別必要とする子どもたちには教育手立てを講じるということが理解できていないのではないか。
 もっと解りやすくいうならば、全体と部分を把握して、相互関連を打ち出したイギリスの教育改革から出てきた用語を彼は、部分だけ取り出して強調することに陥っている。
 そのため、彼は教育現場に極論と混乱と対立を教育実践に持ち込むことに平然と述べ、窪島氏のことを知らない人々に対しては、自分の過去の研究と「主張」をすべて消し去っている。
 それは、つい最近まで彼が書き、使っていた障害児教育とか障害者教育とかを一切使わなくなっていることにも現れている。
 かって文部省が「特殊教育」という用語を使っていた時代に、文部省がその名称にそぐわない教育行政を行っていた。そのため「特殊教育」に対峙する用語として「障害児教育」という用語を窪島氏は、積極的に使っていたのである。
 ところが、文部科学省が「特別支援教育」と用語を変更すると彼はいち早くそれに迎合する。
 そして「新しい課題」「今まで見捨てられていた問題」「教育の新時代」と言い切る。
 教育は、生涯に渡るがゆえんに、単純に決めつけたり、一時期のひとつの方法で「成果」をおさめたとしても、それを科学的に立証・検討しなければならない。それが、窪島氏らの研究者としての仕事である。
 しかし、かれはそういうことをしないで、特別支援教育を積極的に評価し、その流れに乗って単純な「主張」をする。
 悩んでいる人々には、そのほうが受けとめやすいのであるが、それは、研究者としての立場の放棄でもあり、研究者という「権威」を笠に主張する「空洞」なるものでしかない。