2011年4月22日金曜日

教師批判をしながら教師を養成している自己はどこへ  滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(10)


さらに彼は、次のようなことを述べている。

 不登校・登校拒否児童生徒に対して, 「学校は来るべきもの」 という教師の常識が鋭く対立した。学校批判の多くは, 「学校は来るべきもの」 という教育(学)の常識が不当であるという外在的批判が中心をなし,教師の願いと苦悩にわけいってその根本における理解を深めるものではなかった。  その根拠ははなはだ情緒的であり, なぜ, 何が不当なのかについての理論的な説明は説得的にはおこなわれなかった。教師のこだわりについて, 教員文化, 学校文化という視点からの教育社会学的研究の成果は制度ないしシステムとしての教師の行動特性の説明として重要であった。
 しかし, 身体的不調を訴える不登校・登校拒否児童生徒を前にして, 「頑張って登校しなさい」 「登校してくれなければ何もできない」 という子どもに対する教師の言動や学校の息苦しさに対して教師の人間的感性,感受性がなにゆえ作動しなかったのかということについての説明としては不十分である。なにより,教師がどのように変わりうるのかということについての見通しを示せなかった。

教師の責任を追求し人間性や感受性を疑う

窪島氏は、「学校は来るべきもの」 という教師の常識を批判し、その根拠ははなはだ情緒的であると決めつける。さらに、「教師のこだわりについて, 教員文化, 学校文化という視点からの教育社会学的研究の成果は制度ないしシステムとしての教師の行動特性の説明として重要」であることする。
 だがこの文章で指摘されるのは、

1、窪島氏は、このような部分のみ実に主語を明確に書くという特徴がある。

すなわち、他は極めて曖昧で、日本語の構文として成り立たないところが数多くある。

2、教師が生徒の登校を前提とするのは、教師の人間的感性,感受性がないとまで言い切り、教師が不登校・登校拒否児童生徒から「学び」「変わって」いないかのようにも書く。

3、だが、少なくとも教育学研究者を名乗るなら日本の義務教育制度や教育制度の「出席」という問題を知らなければならない。日本の義務教育制度では、学校に登校して授業を受けなければ就学したとは見なされないものになっている。

 ここで、窪島氏のためにあえて説明しておくが、義務教育段階の授業を受けることは、すべての授業に出席しないと授業を受けたと見なされないわけではない。


文部省(旧)の出した「おおむね授業の半分以上に出ていないと授業を受けたということにはならない。」という通達があるからである。

そういうことがあるから、教師は生徒たちが登校するよう、出席するように生徒に働きかけるのである。
 これには、生徒の状況を配慮して援助が必要であると窪島氏は言わない。

だだ彼は教師を批判をするだけである。これは彼の批判と言うより非難と言ったほうが適切かもしれない。

4、教師はそのような状況におかれているが、義務教育段階では校長に大きな権限があることも彼は知らない。
 校長が、出席が不足しているとなるとその生徒を卒業させない、原級留置にすることも出来るし、全欠席であっても卒業させる権限を持っていると言うことである。
 これらの校長の権限の行使如何によって、教師が振り回される制度上の問題やそこから生じる現実を彼は見ようともしていない。

義務教育で学ばなくても
終了したと見なす教育制度の是認


5,さらに窪島氏は、「不登校・登校拒否児童生徒に対して, 「学校は来るべきもの」 という教師の常識が鋭く対立した。」時期をいつの時期だとするのだろうか。

 数十年前ならいざ知らず、現在では何らかの民間機関やさまざまな取り組みによって「見なし登校」「見なし出席」がなされ、まったく義務教育を受けない生徒も卒業したとされている。

 窪島氏が責任者となるキッズ○○も学校出席にカウントされるし、深夜の零時前に校門に入り、零時を過ぎると校門を出ると2日間の出席とカウントされるなど現在の義務教育学校では、「学校は来るべきもの」となっていないことを承知していない。
 文部科学省が上記のようなことでも義務教育を受けたと承認してもいいとしたからである。

6,読み書き障害や発達障害などを主張する窪島氏は、これらの事実を知っているのだろうか。

また、このようなことで子どもたちが、義務教育を終了したと見なすことを是認するのだろうか。
 彼は、教育学研究者でありながら、これらのことを一切無視し、教師を批判することに終始している。

方法のみを求める教師を養成した教育学部の責任は

 また彼は、

 教育相談の過程で教師の心性としての壁を感じることはままある。
 教師が,多動(AD /HD) の子どもに対して, なぜ子どもが動き回り, トラブルを起こすのかを理解する前に,すなわち,子どもの状態をよく理解することよりもまず「どうしたらいいか」を知りたがるのはなぜか。

学力は中位であるにもかかわらず, 左右の方向や時間が分からず,友達と約束ができなかったり,鏡文字を書き,言葉や漢字を造語してしまうことで悩んでいる LD傾向のある子どもが高校生になるまで学校で一度として気づかれなかったのはなぜか。

どうしてもアルファベットが書けない中学生が3年生の中頃まで一度もきちんとした教育相談を受けていないのはなぜだったのか(高機能自閉症かLDが疑われる)。

いずれの場合も子どものニーズは決して軽微ではないのにもかかわらず, 教師からの指摘はまったくなされていない。


とまたまた断定する。
 
窪島氏は、「教師からの指摘はまったくなされていない。」とする根拠はどこにあるのだろうか。
 彼は、数十年前からこのような子どものことの相談を受け、アメリカでは「微細脳損傷と呼ばれる子どもたちの状況と一致しているが……」だけでことを済ませていた自己責任をここで頬被りする。
 そして、なぜ多動(AD /HD)などの子どもを究明し、その原因と解決策を提起しないのか。

 それが、窪島氏の研究者としての仕事ではないのか。

 たしかに、近年の教師の中に生徒の行動の原因や教育方法を思考しない傾向は年々強まりつつある。だから教育実践センターの教授の意見を拝聴するのだろう。

 教師自身が、原因と対策を考える能力を持っていたら教育実践センターが行う研修や校内研修に参加はしないだろう。
 窪島氏は、教育実践センターが行う研修や校内研修で教師の主体的判断能力の大切さを話しているのだろうか、それとも「教師からの指摘はまったくなされていない。」を取り上げ、教師の自己責任を問題にし、人権問題としているのだろうか。
 文章からは、後者であるとしか理解できない。

だが、そうではないようである。

先に述べた医療関係者や保護者や教師などに対する「使い分け」をしていることが、講演に参加した人々の話から伺える。
 窪島氏は、なぜ子どもが動き回り、 トラブルを起こすのかを理解する前に、すなわち、子どもの状態をよく理解することよりもまず「どうしたらいいか」を知りたがる彼の県の教師の多くが、彼の所属している教育学部を卒業していることに触れようともしないでいる。
 彼が大学で、教え、養成した生徒が卒業して彼の大学がある県で教師になっている。その教師を批判すれば、自分自身の責任が問われることになる。
 でも、窪島氏の文章には、教育学部の教授として教員を養成した自己責任・自己反省は一切書かれていない。

 このこともまた不可思議なことである。
 
 無責任極まりないとも言える。