ここで、窪島氏は学級編成について述べるが、彼の教育に対する姿勢が如実にに書かれている。
少人数学級の幻想と決めつける
窪島氏は、
今, 少人数学級の必要性が語られ, いくつかの自治体で独自に30人学級が実現しつつある。 少しだけ言及しておきたいのは, 少人数学級の実現が現在の教育問題を大幅に解決するかの幻想がしばしば語られていることに関連してである。少人数学級の実現は, 教育問題解決の必要条件ではあるが, 十分条件ではない。
この部分は、たしかにそうだろう。学級人数は、必ずしも教育内容と同一線上で結ばれない問題があるからである。彼もそのことを充分承知している。
が、しかし、次のように断言する。
それどころか, 少人数学級はこれまでの日本の学校の教育観と矛盾を呈することになる可能性さえ有している。旧態依然とした関係で子どもに臨むならば,子どもだけでなく教師もともに一層息苦しくなるであろう。少人数学級への懸念として,学級集団と学習集団がことなることを理由にその教育的意味に疑問が呈されることがある。
しかし, それは, 表面的な違いにすぎない。 6歳の子どもの有する柔軟性は学級集団と学習集団を交代する程度の変化には十分対応可能である。根本的問題は, その際の指導のあり方や日常の学習指導における子どもとの関係の取り方にある。
単純化していえば, 「学級崩壊」, 不登校・登校拒否,いじめなど今日の教育問題のほとんどすべてが児童生徒数10人から20人の少人数学級であっても生起する可能性はちいさくない。
このように書くならば前述の部分で彼は、「少人数学級の実現は, 教育問題解決の必要条件ではあるが, 十分条件ではない。 少人数学級の実現が現在の教育問題を大幅に解決するかの幻想である。」と書くべきなのである。
少人数学級になると管理主義が
システム化すると主張
学級の生徒が多くても、少なくても「指導のあり方や日常の学習指導における子どもとの関係の取り方」が問題となると言うのである。ここでは、なぜか、彼の好んで使うドイツ・オーストリア・イギリス・アメリカの学級人数がまったく引用されない。それは、これらの国では、日本と比べものにならない程の少人数で学級編成がなされているからである。いや、むしろ、先進国と呼ばれている国々で日本ほど過密クラスはない。
しかし、窪島氏は、この学級数問題で、かれの引用するドイツ・オーストリア・イギリス・アメリカなどを引き合いに出すと「指導のあり方や日常の学習指導における子どもとの関係の取り方」が強調できないため意図的に引き合いに出すことを止めているとしか考えようがない。
問題は、量ではなく質なんだ。
と彼は言いたいのだろう。
では、無定量な学級数でも質の高い教育が出来るというのだろうか。
日本では、ドイツ・オーストリア・イギリス・アメリカと異なって、生徒数やクラス数で教職員定数が毎年変更される教育制度ののイロハを彼は知らないのだろうか。
しかも、ドイツ・オーストリア・イギリス・アメリカなどの教育行財政は、日本と根本的に違い教育予算は、行政予算とは別立てでつくられていることなども知らないのであろうか。しかもこれらの国では、障害児学校を廃校にしても普通校に入学した障害のある生徒のために障害児学校に使われていた教育予算を投入し、教師以外のスタッフや教育条件を整えていることも知らないのであろうか。
以降、述べるためにもっと具体的に説明しておかなければならないのは、障害児学校1校を廃校にした予算が約100億であるとすれば、普通校に入学した障害のある生徒のために約100億円が使われるのである。
この点では、日本の教育行財政制度とは根本的に異なる。日本では、障害児学校1校を廃校にした予算が約100億であるとすれば、約100億円が削減・節約できたとする。
このようなことを知ると、 彼が先進例と出す国々とのインクルージョン教育、インクルーシブを日本に機械的に当てはめられないことは明確であり、機械的に当てはめられることによって障害児教育予算が削減されることは明白なのに窪島氏はそれは教育学の分野ではないと言い逃れをするのであろうか。まったく、触れようともしていないのである。
教育では、常識である教育形態と教育内容の関係を彼はあえて切り離して述べる。
それは、以下のことを書いていることからも解る。
「特別ニーズ教育」を有する子どもを含むすべての子どもの内面的ニーズや自我の充実に基づく学習と発達の援助的指導を実現することがなければ,少人数学級はまだマシどころか,多人数ゆえの管理の目こぼしさえなくなり,硬軟両面の管理主義をいままでの多人数学級以上に格段に強める危険をはらむという点である。この管理主義は, 事実関係としてのシステム的なもので,個々の教師の主観から独立して作動する。
すなわち、彼は特別ニーズを有する子どもからすれば、小人数学級になると管理主義がさらに強まり、多人数であるが所以に管理されなかった特別ニーズを有する子どもたちの「目こぼしさえなくなる」とするのである。
彼は、大人数学級のほうが、特別ニーズの子どもたちが、「見のがされ」ていいと言いたいらしい。
少人数学級になると
生徒も教師も息苦しくなるとするが
さらに、少人数学級が実現されれば, 「丁寧な指導ができる」 と表現されるその 「丁寧さ」 の中に潜む危険性である。この「丁寧さ」は,子どもの内面,自我,発達的矛盾,信頼などの媒介項を意図して教育的かかわりの中に措定しないならば,子どもだけでなく,教師をも息苦しくさせる。
とまで言い切る。
それなら、先にあげた彼の国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-( 医学評論 2010年7月 ※ 欧米の例を絶えずあげる窪島氏が、ここでなぜ日本在住者を含まないで国籍を有する国民と限定して他民族、多言語を排除するナショナリズムのテーマを出しているのか大いに疑問であるが。)で、
担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度を人権蹂躙とまで決めつけるのであろうか。担任が、「目こぼし」しているからそれでいい。
丁寧な指導に潜む危険性がないから、となぜ書かないのだろうか。
これでは、不確実性の中の確実性としての窪島氏の主張に従うことが、「子どもの内面,自我,発達的矛盾,信頼などの媒介項を意図して教育的かかわりの中に措定」すると言っているしかとりようがない。
教育実践に依拠しない研究を自認
さらに窪島氏は、
筆者は, 80年代の教育学は決して生産的とは言えない教育学の概念の再検討に向かったととらえている。その一つの特徴は,教育実践から距離を置くという傾向であった。それを,かつて「教育学の危機」 と表現したことがある。その背景に, 子どもの変化とそれに対応し得ない学校教育へのいらだち, 絶望が教育学研究者の中にもあったように思われる。
と彼の教育学が実践から距離を置いていた。もっとあからさまに言えば彼自身の教育学なるものが教育実践と乖離していたということだろう。
それを教育学一般にすり替えるのはあまりにも問題が多い。
事実、彼が取り組んできた障害障害児教育に対する研究は、教師にあまり受け入れられることはなかったし、批判も多かった。
彼は、そのことを素直に認めようとはしないし、批判を迂回したことに対する批判は数多くある。
しかし、彼は、そこからの脱却を「発達障害」という「新しい用語」に飛びつくことで自らの活路を見出したということが過去の彼の文章と近年の文章をよく読むと推定できる。
40人を越える学級人数をそのままにしてという
国際的文書や具体例はない、
と言っていたはずだが
このことについて、ここでくどくど書くよりかって窪島氏が書いていたことを引用するだけで充分だろう。
教育的統合における"在籍"の問題
社会生活イコール学校教育ではないのであるから、教育的統合が固有の性格をもつことは当然のことである。
にもかかわらず、障害児教育ではこの〃あたりまえ"のことが看過されて、地域では子どもも大人も老人もいろいろな人びとがいっしょにともに生活しているのがあたりまえなのだから、学校教育でも、障害のどんな重度の子も健常児もともに学ぶことがあたりまえであるという短絡した議論がすべての障害児を普通学級に在籍させるべきであるということの論拠としていとも粗雑に出されている。
もう一つその有力な論拠としてもち出されてくるのが国際的動向とやらである。
ところが主要な国際的動向を概括してみると、教育的統合と社会的統合を混同することやすべての障害児を普通学級へなどという暴論を唱え、障害児教育の意義を否定する傾向が、根本のところで国際的動向に反していたり誤っていることが明らかになる。
まず次のような問いからはじめるのがよいだろう
。"すべての障害児を校区の普通学級に在籍させねぼならない"と主張する者は誰でもよいが、障害児にたいする医療や教育やリハビリテーシヨンの必要性を否定し、40人を越える学級人数をそのままにして"ともかく普通学級に在籍させることが第一義的に重要である"ことを論証してくれるような国際的文書や具体例を提出してみたまえ、と。
イタリアは20人以下の学級
でなければならないと
もっともラディカルなイタリアでさえ障害児を受け入れる学級は20人以下でなければならないという条件をはじめ、多くの条件づくりをその要件としている。
わが国の場合、「在籍」こそが問題となっていることに注目する必要がある。
1983年1月の日教組教研集会の障害児教育分科会で、ある県のレポーターは"どう教育するかでなく、どこにいるかが重要なのだ"と主張した。
学習の可能性と教育的指導の否定、「在籍すること」の第一義的主張は諸外国の議論ではあまりおめにかかることのないものである。
ノルウェーは、
普通学級・スペシャルグループ・特殊学級
で教育されているのが決定的な基準ではないと
ノルウェーでも次のように言われている。「しかしながら、児童が普通学級やスペシャルグループで教育されているかあるいは特殊学級で教育されているかということはインテグレーションの決定的な基準と見なされない。
インテグレーションは同じ学校ですべての児童を教育させるということでの同一性を必ずしも意味するものでもない。
インテグレーションの実現にふれて、委員会は、次のように述べた。第一義的関心は児童が彼らの要求にふさわしい教育を得ているかどうか、かつ彼らが積極的で活発な社会的文脈で受容され、参加が認められ、快適さを感じることができるかどうかということである」
(ノルウェーの義務教育における障害児の統合 1982年)。
27年余前の主張と
最近の主張の
あまりにも大きな落差はどこから…
さらに窪島氏は、別の項目で、
近年、障害児といわれない子どもたちの中にも特別の教育的配慮を必要とする子どもが増加している。
障害をもつ子どもはより多くの"特別な教育的二ーズ"をもっている。障害と発達あるいは地域的特殊性などからその"二ーズ"の内容はきわめて多様であるし、また障害児教育にかぎられない一般的教育要求につながるものも少なくない。
たとえば、小・中学校の一学級児童・生徒数の標準を減少させることなどはそういう類いのものである。
イギリスにおいては現状において普通初等学校で1学級30人前後であり、かつ補助教員をおいているところもあるが、教員組合は障害児を普通学級に受け入れるにあたってさらに教育諸条件の充実を強く求めている。
ノルウェーでは初等教育では、1学校が120~250人規模、1学級20~23人が普通とされている。
わが国においては障害児教育諸学校や学級の人的・物的教育条件はきわめて不十分である。
障害児の教育は障害や健康へのとりくみと不可分である。
障害と健康上の問題に適切にこたえることができるように、学校の中で医療的、福祉的機能を強めると同時に、地域における医療的・福祉的社会資源を充実しそれらとの連携を強めることが重要である。
統合には一般に理解されているように、障害児を健常児の中へ統合することだけでなく、いわゆる縦割行政の克服を含んで諸制度、諸サービスの統合、諸分野の専門家の統合(連帯ないし相互協力)ということを含んでいる。
関係者がこうした統合を実現する力量をもつことが、諸外国のインテグレーション論議の中で強く主張されている点でもある。
これまでのように自己の狭く限定された分野での専門性でなく、他分野との結合を進める力量をも専門性の中身と考えることは重要である。
そこには当然社会科学的認識と洞察の力量が含まれるであろろう。
他との連関を欠いた狭い「専門」的技術は克服されねばならないが、それへの反発のあまり、専門的力量ないし専門家の存在を否定し、それに"素人"を絶対化して対置することは誤っている。
専門職(の力量)とは何かということを前述の諸点とのかかわりで明らかにすることこそが重要なのである。
(以上、障害児教育妨害者の「理論」批判 完全参加を目指す教育 全障研出版 1983年8月1日)
少人数学級の幻想と決めつける
窪島氏は、
今, 少人数学級の必要性が語られ, いくつかの自治体で独自に30人学級が実現しつつある。 少しだけ言及しておきたいのは, 少人数学級の実現が現在の教育問題を大幅に解決するかの幻想がしばしば語られていることに関連してである。少人数学級の実現は, 教育問題解決の必要条件ではあるが, 十分条件ではない。
この部分は、たしかにそうだろう。学級人数は、必ずしも教育内容と同一線上で結ばれない問題があるからである。彼もそのことを充分承知している。
が、しかし、次のように断言する。
それどころか, 少人数学級はこれまでの日本の学校の教育観と矛盾を呈することになる可能性さえ有している。旧態依然とした関係で子どもに臨むならば,子どもだけでなく教師もともに一層息苦しくなるであろう。少人数学級への懸念として,学級集団と学習集団がことなることを理由にその教育的意味に疑問が呈されることがある。
しかし, それは, 表面的な違いにすぎない。 6歳の子どもの有する柔軟性は学級集団と学習集団を交代する程度の変化には十分対応可能である。根本的問題は, その際の指導のあり方や日常の学習指導における子どもとの関係の取り方にある。
単純化していえば, 「学級崩壊」, 不登校・登校拒否,いじめなど今日の教育問題のほとんどすべてが児童生徒数10人から20人の少人数学級であっても生起する可能性はちいさくない。
このように書くならば前述の部分で彼は、「少人数学級の実現は, 教育問題解決の必要条件ではあるが, 十分条件ではない。 少人数学級の実現が現在の教育問題を大幅に解決するかの幻想である。」と書くべきなのである。
少人数学級になると管理主義が
システム化すると主張
学級の生徒が多くても、少なくても「指導のあり方や日常の学習指導における子どもとの関係の取り方」が問題となると言うのである。ここでは、なぜか、彼の好んで使うドイツ・オーストリア・イギリス・アメリカの学級人数がまったく引用されない。それは、これらの国では、日本と比べものにならない程の少人数で学級編成がなされているからである。いや、むしろ、先進国と呼ばれている国々で日本ほど過密クラスはない。
しかし、窪島氏は、この学級数問題で、かれの引用するドイツ・オーストリア・イギリス・アメリカなどを引き合いに出すと「指導のあり方や日常の学習指導における子どもとの関係の取り方」が強調できないため意図的に引き合いに出すことを止めているとしか考えようがない。
問題は、量ではなく質なんだ。
と彼は言いたいのだろう。
では、無定量な学級数でも質の高い教育が出来るというのだろうか。
日本では、ドイツ・オーストリア・イギリス・アメリカと異なって、生徒数やクラス数で教職員定数が毎年変更される教育制度ののイロハを彼は知らないのだろうか。
しかも、ドイツ・オーストリア・イギリス・アメリカなどの教育行財政は、日本と根本的に違い教育予算は、行政予算とは別立てでつくられていることなども知らないのであろうか。しかもこれらの国では、障害児学校を廃校にしても普通校に入学した障害のある生徒のために障害児学校に使われていた教育予算を投入し、教師以外のスタッフや教育条件を整えていることも知らないのであろうか。
以降、述べるためにもっと具体的に説明しておかなければならないのは、障害児学校1校を廃校にした予算が約100億であるとすれば、普通校に入学した障害のある生徒のために約100億円が使われるのである。
この点では、日本の教育行財政制度とは根本的に異なる。日本では、障害児学校1校を廃校にした予算が約100億であるとすれば、約100億円が削減・節約できたとする。
このようなことを知ると、 彼が先進例と出す国々とのインクルージョン教育、インクルーシブを日本に機械的に当てはめられないことは明確であり、機械的に当てはめられることによって障害児教育予算が削減されることは明白なのに窪島氏はそれは教育学の分野ではないと言い逃れをするのであろうか。まったく、触れようともしていないのである。
教育では、常識である教育形態と教育内容の関係を彼はあえて切り離して述べる。
それは、以下のことを書いていることからも解る。
「特別ニーズ教育」を有する子どもを含むすべての子どもの内面的ニーズや自我の充実に基づく学習と発達の援助的指導を実現することがなければ,少人数学級はまだマシどころか,多人数ゆえの管理の目こぼしさえなくなり,硬軟両面の管理主義をいままでの多人数学級以上に格段に強める危険をはらむという点である。この管理主義は, 事実関係としてのシステム的なもので,個々の教師の主観から独立して作動する。
すなわち、彼は特別ニーズを有する子どもからすれば、小人数学級になると管理主義がさらに強まり、多人数であるが所以に管理されなかった特別ニーズを有する子どもたちの「目こぼしさえなくなる」とするのである。
彼は、大人数学級のほうが、特別ニーズの子どもたちが、「見のがされ」ていいと言いたいらしい。
少人数学級になると
生徒も教師も息苦しくなるとするが
さらに、少人数学級が実現されれば, 「丁寧な指導ができる」 と表現されるその 「丁寧さ」 の中に潜む危険性である。この「丁寧さ」は,子どもの内面,自我,発達的矛盾,信頼などの媒介項を意図して教育的かかわりの中に措定しないならば,子どもだけでなく,教師をも息苦しくさせる。
とまで言い切る。
それなら、先にあげた彼の国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-( 医学評論 2010年7月 ※ 欧米の例を絶えずあげる窪島氏が、ここでなぜ日本在住者を含まないで国籍を有する国民と限定して他民族、多言語を排除するナショナリズムのテーマを出しているのか大いに疑問であるが。)で、
担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度を人権蹂躙とまで決めつけるのであろうか。担任が、「目こぼし」しているからそれでいい。
丁寧な指導に潜む危険性がないから、となぜ書かないのだろうか。
これでは、不確実性の中の確実性としての窪島氏の主張に従うことが、「子どもの内面,自我,発達的矛盾,信頼などの媒介項を意図して教育的かかわりの中に措定」すると言っているしかとりようがない。
教育実践に依拠しない研究を自認
さらに窪島氏は、
筆者は, 80年代の教育学は決して生産的とは言えない教育学の概念の再検討に向かったととらえている。その一つの特徴は,教育実践から距離を置くという傾向であった。それを,かつて「教育学の危機」 と表現したことがある。その背景に, 子どもの変化とそれに対応し得ない学校教育へのいらだち, 絶望が教育学研究者の中にもあったように思われる。
と彼の教育学が実践から距離を置いていた。もっとあからさまに言えば彼自身の教育学なるものが教育実践と乖離していたということだろう。
それを教育学一般にすり替えるのはあまりにも問題が多い。
事実、彼が取り組んできた障害障害児教育に対する研究は、教師にあまり受け入れられることはなかったし、批判も多かった。
彼は、そのことを素直に認めようとはしないし、批判を迂回したことに対する批判は数多くある。
しかし、彼は、そこからの脱却を「発達障害」という「新しい用語」に飛びつくことで自らの活路を見出したということが過去の彼の文章と近年の文章をよく読むと推定できる。
40人を越える学級人数をそのままにしてという
国際的文書や具体例はない、
と言っていたはずだが
このことについて、ここでくどくど書くよりかって窪島氏が書いていたことを引用するだけで充分だろう。
教育的統合における"在籍"の問題
社会生活イコール学校教育ではないのであるから、教育的統合が固有の性格をもつことは当然のことである。
にもかかわらず、障害児教育ではこの〃あたりまえ"のことが看過されて、地域では子どもも大人も老人もいろいろな人びとがいっしょにともに生活しているのがあたりまえなのだから、学校教育でも、障害のどんな重度の子も健常児もともに学ぶことがあたりまえであるという短絡した議論がすべての障害児を普通学級に在籍させるべきであるということの論拠としていとも粗雑に出されている。
もう一つその有力な論拠としてもち出されてくるのが国際的動向とやらである。
ところが主要な国際的動向を概括してみると、教育的統合と社会的統合を混同することやすべての障害児を普通学級へなどという暴論を唱え、障害児教育の意義を否定する傾向が、根本のところで国際的動向に反していたり誤っていることが明らかになる。
まず次のような問いからはじめるのがよいだろう
。"すべての障害児を校区の普通学級に在籍させねぼならない"と主張する者は誰でもよいが、障害児にたいする医療や教育やリハビリテーシヨンの必要性を否定し、40人を越える学級人数をそのままにして"ともかく普通学級に在籍させることが第一義的に重要である"ことを論証してくれるような国際的文書や具体例を提出してみたまえ、と。
イタリアは20人以下の学級
でなければならないと
もっともラディカルなイタリアでさえ障害児を受け入れる学級は20人以下でなければならないという条件をはじめ、多くの条件づくりをその要件としている。
わが国の場合、「在籍」こそが問題となっていることに注目する必要がある。
1983年1月の日教組教研集会の障害児教育分科会で、ある県のレポーターは"どう教育するかでなく、どこにいるかが重要なのだ"と主張した。
学習の可能性と教育的指導の否定、「在籍すること」の第一義的主張は諸外国の議論ではあまりおめにかかることのないものである。
ノルウェーは、
普通学級・スペシャルグループ・特殊学級
で教育されているのが決定的な基準ではないと
ノルウェーでも次のように言われている。「しかしながら、児童が普通学級やスペシャルグループで教育されているかあるいは特殊学級で教育されているかということはインテグレーションの決定的な基準と見なされない。
インテグレーションは同じ学校ですべての児童を教育させるということでの同一性を必ずしも意味するものでもない。
インテグレーションの実現にふれて、委員会は、次のように述べた。第一義的関心は児童が彼らの要求にふさわしい教育を得ているかどうか、かつ彼らが積極的で活発な社会的文脈で受容され、参加が認められ、快適さを感じることができるかどうかということである」
(ノルウェーの義務教育における障害児の統合 1982年)。
27年余前の主張と
最近の主張の
あまりにも大きな落差はどこから…
さらに窪島氏は、別の項目で、
近年、障害児といわれない子どもたちの中にも特別の教育的配慮を必要とする子どもが増加している。
障害をもつ子どもはより多くの"特別な教育的二ーズ"をもっている。障害と発達あるいは地域的特殊性などからその"二ーズ"の内容はきわめて多様であるし、また障害児教育にかぎられない一般的教育要求につながるものも少なくない。
たとえば、小・中学校の一学級児童・生徒数の標準を減少させることなどはそういう類いのものである。
イギリスにおいては現状において普通初等学校で1学級30人前後であり、かつ補助教員をおいているところもあるが、教員組合は障害児を普通学級に受け入れるにあたってさらに教育諸条件の充実を強く求めている。
ノルウェーでは初等教育では、1学校が120~250人規模、1学級20~23人が普通とされている。
わが国においては障害児教育諸学校や学級の人的・物的教育条件はきわめて不十分である。
障害児の教育は障害や健康へのとりくみと不可分である。
障害と健康上の問題に適切にこたえることができるように、学校の中で医療的、福祉的機能を強めると同時に、地域における医療的・福祉的社会資源を充実しそれらとの連携を強めることが重要である。
統合には一般に理解されているように、障害児を健常児の中へ統合することだけでなく、いわゆる縦割行政の克服を含んで諸制度、諸サービスの統合、諸分野の専門家の統合(連帯ないし相互協力)ということを含んでいる。
関係者がこうした統合を実現する力量をもつことが、諸外国のインテグレーション論議の中で強く主張されている点でもある。
これまでのように自己の狭く限定された分野での専門性でなく、他分野との結合を進める力量をも専門性の中身と考えることは重要である。
そこには当然社会科学的認識と洞察の力量が含まれるであろろう。
他との連関を欠いた狭い「専門」的技術は克服されねばならないが、それへの反発のあまり、専門的力量ないし専門家の存在を否定し、それに"素人"を絶対化して対置することは誤っている。
専門職(の力量)とは何かということを前述の諸点とのかかわりで明らかにすることこそが重要なのである。
(以上、障害児教育妨害者の「理論」批判 完全参加を目指す教育 全障研出版 1983年8月1日)