2011年4月18日月曜日

国際・国内論議を見極めと主張していたのが…   滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(5)

さらに窪島氏は、
 先取りして指摘するならば,一つに,ニーズという子どもの主体的視点を提供すること,二つに,「不登校・登校拒否にはこうしてください」, 「LDには…」, 「ADHDには…」などというように様々な「特別ニーズ教育」の諸領域がばらばらにその個別的要請を通常学級(教師)に突きつけるという現状から, 「特別ニーズ教育」 として共通する基礎的な教育的配慮の内容・水準を明らかにすることである。
「特別ニーズ教育」 の基本は, すべての個別的ニーズに通底するということはわれわれの最近の発見であった。
と書いているが、彼の最近の文章には、「特別ニーズ教育 として共通する基礎的な教育的配慮の内容・水準を明らかにする」ものはなく、逆に「諸領域がばらばらにその個別的要請を通常学級(教師)に突きつけるという現状。」が突出している。
まずここでそのことを明らかにしておきたい。

虐待・人権蹂躙を「御旗」に担任を苛む

 彼は、次のようなことを書いている。
滋賀大キッズカレッジのアセスメントでは、音韻意識にも蹟きが認められた。すなわち、ひらがなの読み、書きでも特殊音節で困難が起きる程度の重度の読み書き障害である。対人関係に問題のない学習障害である。
 ところが、そうした保護者に対して、担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度で保護者は相談のしょうがないと考え滋賀大キッズカレッジにたどり着いた。
 こうした事例が今年に入ってから相次いでいる。
子どもの困難さと保護者の心配に対するこうした「否認ネグレクト」は決してまれな例ではないが虐待の一形態であるとするなら、子どもの困難と保護者の心配のネグレクトはまさに虐待というべきものであり、子どもの人権の蹂躙に他ならない。
(国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に- 医学評論 2010年7月)

 彼は、担任する生徒が「重度の読み書き障害」があることを知らないでいることに対して、保護者の相談をネグレクトしたとして、ネグレクトは虐待であり、子どもの人権蹂躙であると結論づけている。
  「お母さん、気にしすぎです」と担任が、どのような話のやりとりの中で言ったのか、どのような場面で言ったのか。
 人権蹂躙であるとするならば、担任とどのような連絡と話をしたのか、また担任にどのような教育実践上のアドバイスをしたのか等々がまったく書かれていない。
 すなわち、保護者との会話で担任の言った、「ひとこと」、を保護者から聞き、その「ひとこと」は、虐待であり、人権蹂躙であるとしているのである。

人権蹂躙を教師に突きつけ
支配し、従わせる手法

 このようなことでは、教師は保護者と自由にものが言えないばかりか、保護者や子どもたちと自由に会話することで、自らの過ちに気がついたり、反省したり、学校内や専門機関に相談する余地さえ与えないことになる。
 教師を「もの言えない状況」にしておいて、読み書き障害の理解を追求するという姿勢が見受けられる。
 窪島氏らは、人権を守る旗手であり、その下に従わなければならないということまで言いたげな文章を、医療関係者などには知らせているのである。
「個別的要請を通常学級(教師)に突きつける」ことをしていたり、考えていながら他方では、『個別的要請を通常学級(教師)に突きつけるという現状から, 「特別ニーズ教育」 として共通する基礎的な教育的配慮の内容・水準を明らかにする』などの考えを書いているのである。
 だが、一方窪島氏は教師などが読む季刊「ひろば・京都の教育」第130号(2002年5月)で、

 この場合の「特別なニーズ」は、一人ひとりの個別的ニーズと言い換えてもいいでしょう。
 問題の核心は、子どもたちがそこからくるさまざまな困難から、学習や友だち関係などで深刻に苦しみ悩んでいる、ということです。
 子どもはわからない、伝わらない、思っているようにできない、わかってもらえない、ということをさけるため、はしゃいだり、ちゃかしたり、暴れたり、学校に行くことをいやがる、という行動をとることがあります。
 その表面的な現れにとらわれることなく、行動に込められた子どもの悩みや苦しみ、発達要求を読みとってあげなければなりません。ここをしっかりとらえることが重要です。
 しかしまた、この問題は教師だけでは十分な対応をすることができません。
 教育相談、医療など学校外の専門機関との連携をしっかり作っていくことが大切です。

と「問題は教師だけでは十分な対応をすることができません。」と書き、「教育相談、医療など学校外の専門機関との連携をしっかり作っていくことが大切」としているのである。
 医療関係者などと教師たちに対する主張の大きな落差は、彼が研究者の信念に基づく考えを説明していないことはこの対比だけを見ても明らかであろう。
 季刊「ひろば・京都の教育」第130号(2002年5月)で書いていることから考えるならば、滋賀大キッズカレッジにやって来た保護者に対して、担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度から、担任をなじらず、教育相談、医療など学校外の専門機関との連携をしっかり作っていくこととして書けるはずである。
 だが、そうではない。
 ここに彼が、学校や教師と保護者を必要以上に対立させようとする扇動があるのではないかと考えざるを得ない。

比較する基礎が異なる「諸外国比較」

 さらに彼は、
第1に, 日本の通常の学級は,一般に意識されているように,等質集団あるいは同質集団で組織されているのではない, ということである。特別な教育的ニーズという視点から見たとき、端的に日本の学級は異質集団から成り立っているという認識から出発しなければならない。 日本の学級が異質集団であることの概略は国際的な統計の比較としても示される。
と書いているが、それは彼自身が「意識」していることであって、「一般」化するところにすり替えがある。等質集団・同質集団とは、具体的にどのようなことを言うのか。彼は、教育における「質」とはなにかを一切定義づけない。
 もしも、日本の学級が同レベルやそれに近い学力集団として、一般的に「意識」されているとするならば、窪島氏の日本の普通学級に対する見識があまりにも欠如していることにもなるし、学級集団が一定の学力水準を維持できていないことに対して教育実践上の研鑽を重ねてきた教職員たちに対する「侮蔑」としかとれない。普通学級に対おする常識的知識を持ち合わせていない窪島氏は、それを日本の実状で分析するのではなく外国の資料を取り込むことで自らの非常識ぶりを粉飾する。
  彼は、国際比較を持ち出す。障害児教育 (special educaton)と書き、special educatonを障害児教育としている。なぜあえてspecial educatonと書きながら特殊教育と訳すことなく、わざわざ障害児教育とするのか。ここでも窪島氏の無数の粉飾が折り込まれている。そして、読み手に対して、諸外国ではこうなんだ、と言わんばかりの手法を取りい入れる。ここにもまた彼の不安定で不確実な主張が見てとれる。

アメリカで障害児教育 (special educaton) を受けている子どもは学齢児の約10%, ドイツで障害児学校の教育を受けている子どもは約4%,オーストラリアで障害児学校の教育を受けている子どもは約 1%, イギリスで特別の教育的ニーズを有するとされる子どもは20%, ユネスコは同 10%などであるのに対して, わが国では障害児学校の教育を受けている子どもの比率は2001年度において0.44%, 障害児学級の教育を受けている子どもが0.68%,合計で1.12%である。

 このような文章を窪島氏は至る処で書くが、アメリカの概念、ドイツの概念、イギリスの概念、ユネスコの概念がそれぞれ異なっているのに数値的比較だけで、述べようとする強引さがある。
 そしてその比較の対象として、日本の例は障害児学校と障害児学級の数値だけをあげる。この彼の非実践性に、彼の今までの障害児教育研究なるものの非科学性がある。

国際的国内的議論を
  見わけ検討するべきと言っていたのに…

 かって窪島氏は、
 一部マスコミも含めて、障害児にたいする特別の教育制度や方法を整備し、提供することを否定し、すべての障害児をまったく健常児と同じく、普通学校の普通学級に在籍させることこそが国際的な前進方向であり、わが国における養護学校教育の義務制施行や障害児の発達や健康状態や障害の様態にふさわしい教育の場と必要な条件を保障しようとする努力のすべてを国際的動向に反するものであるかのように描き出そうとする意図があるなかで、国際的動向を視野に入れながら教育的統合の意義を明らかにすることは重要なことであると思われる。
 また統合問題に関する国際的国内的議論を見わけ検討する場合の重要な視点として、社会的統合と教育的統合(教育における統合)という二つの統合を区別しかつ相互の連関において総合的にとらえることが重要であることを提起する。
 この論点は障害児教育にかぎらず、一般に子どもにたいする社会の人格形成作にたいして、教育、とくに学校教育の固有の役割を明らかにすることや両者の関係の問題と同じ領域のものであり、教育学的認識の基本をなすものの一つである。
 ところが、この点が一部の人びとの場合、障害児教育における統合問題の中であいまいにされることがじつに多いのである。(障害児教育妨害者の「理論」批判 完全参加を目指す教育 全障研出版 1983年8月1日)
としていたが、このような考えはどうなったのであろうか。