窪島氏のここの数年の記述には、彼の抱いた「確信」や「主観的意図」を何ら確かめもせず「仮説化」し、それに基づいて彼が抱いた「こと」を肯定する海外の資料や調査を重視し、彼の意図や仮説に反するような調査や結果や学説を軽んじたり、黙殺したりすることが次第に多くなっている。
自己の「仮説」の絶対化
一例をあげてみると、 野口法子・窪島務: 2009年出版者: 滋賀大学教育学部 滋賀大学教育学部紀要, Ⅰ, 教育科学, 第59号として、
「通常学級の子どもたちと読み書き困難児のカタカナ書字習得状況」なる者が公開されているが、この抄録がそのことを裏付けている。
窪島らは、
読み書き困難児のカタカナに関する先行研究がほとんどないことにより、本研究では、まず、通常児のカタカナ書字の習得状況を調査し、その分析を行った。
その結果、カタカナ書字は、清書・濁音・拗音ともプロセスに違いはあるが、3年生でほぼ習得され、4年生で完全に習得されることが分かった。
次に読み書き困難児のカタカナ書字習得状況を分析してみると、清書・濁音・拗音のいずれかで当該学年に及ばないものが、17名中14名でそのうちの6名がすべてにおいて当該学年よりも2学年以下のレベルであった。
また、カタカナとともに平仮名習得度も低い傾向にあり、そして漢字の習得度との関係は、本研究では明確な結果は得られなかった
としていることである。
根拠のない
「カタカナに関する先行研究がほとんどない研究」
ここで彼らが行った3年生や4年生の年齢と発達との因果関係などなどは別にして、「読み書き困難児のカタカナに関する先行研究がほとんどない」と断定している根拠を明らかにしないまま「仮説」を立てている点に注目しなければならない。
少なくとも教育学と自負する研究者なら、戦前の初等教育がカタカナを教えることからはじめられたことを知っているはずである。
もちろん現在のカタカナ表記とは異なったものではないが。
シナジンヲ タクサン コロシテ、
ヨイヒトニ シテアゲテ クダサイ
彼は以下のことを承知していたはずである。
30万人もの中国人民を殺戮したいわゆる南京大虐殺が開始されたのは1937年暮であった。日本軍は12月12日に南京を支配下におき、悪魔の手を血に染め始めた。その2日前の12月10日付で発行された点字文集「塔影第6号」が今も残っている。
これには当時の京都府立盲学校生徒のおよそ半数にあたる71名の作品が載っており、そのなかに初等部1年生が書いた次の一文がある。
「シナニ ヰラッシャル ヘイタイサン、オクニノ タメニ、ワタクシタチノ タメニ、ハタライテ クダサル コトヲ ヨロコンデ ヰマス。マイアサ、テウクワイデ、カウチャウセンセイニ、センソウノ オハナシヲ キキマス。ドウゾ、シナジンヲ タクサン コロシテ、ヨイヒトニ シテアゲテ クダサイ。ヘイタイサンガ タッシャデ ヰテ クダサル ヤウ、オイノリシテ ヰマス。ヲハリ」
45年余を経て、今、幼気な少年に「タクサン コロシテクダサイ」と言わせ、それに日もおかず応えてみせた時代が、「海峡封鎖」だの「浮沈空母」だのといったおぞましい言葉によって呼び戻されようとしている。
(視覚障害者と戦争 岸博實(京都府立盲学校)『障害者問題研究』1984年・第36号)
戦前の初等教育はカタカナ
窪島氏は、これは点字をカタカナに置き換えたものではないと言うかもしれない。
しかし、ここであえて、カタカナにされているのは、初等教育では同様なことが、カタカナで教えられていたし、聾学校ではまさにカタカナから教えられていたことも知らなかったということになる。
戦前は、「盲聾学校」とされていたことを忘れてはならないのである。
これらのカタカナ文字の教育の中で、カタカナが習得できないでいる生徒のことの記述や当時生徒だった障害者の証言記録が残されている。
窪島氏は、これらのことを調べた上で、「読み書き困難児のカタカナに関する先行研究がほとんどない」と断定しているのであろうか。
思い込みの仮説から来る
結論の必然
思い込みからの仮説は、その仮説に拘束され、その仮説に基づく実験・調査結果しか認識できなくなるという非科学性の「論文」なる文章を多々連発している窪島氏は、科学調査を投げ打ったと考えられる。
仮説の前提が、およそ教育学、障害児教育学の専攻とは考えられないものである。
そればかりか、戦前のカタカナ文字の習得困難だった生徒を完全に無視した論立ては、読み書き困難児を論じる前提が崩壊している。
科学を装う非科学研究
さらに、戦後の初等教育では、ひらがなはもちろんカタカナの習得困難な生徒に対する教育実践も多々ある。
これらのことなどをまったく調べもせずに、「読み書き困難児のカタカナに関する先行研究がほとんどない」として、あたかも自分たちが、「読み書き困難児のカタカナに関する」研究の先覚者であるかのように描き出す姿勢もまた研究者以前の人間としてのモラルが疑われる。
科学研究の装いを凝らした非科学研究としても、彼らの調査に協力させられた生徒たちはあまりにも気の毒である。