2011年5月14日土曜日

滋賀大学教育学部窪島務氏が  「合校論」から産まれた「特別支援教育」を賛美する背景




 1990年代から2000年代に変わる段階ですなわち20世紀から21世紀に変わる段階で、政財界はそれまで準備してきた日本展望と戦略を明らかにした。

公教育の解体・再編の

  「公教育のスリム化」


 経済同友会がだした「合校論」はその典型の一つである。
 「合校論」は、「公教育のスリム化」(注 公教育のリストラと言わないでいたが。 )を基に「21世紀の学校」のヴィジョンを提示している。
  そして、「合校論」は、

1、学校教育の機能を「基礎教室」(言語能力と論理的思考力とナショナル・アイデンティティの教育)。

2、「自由教室」(自然科学、社会科学、芸術の教育)。「自由教室」は民間の教育施設を子どもと親が自由に選択する。

3、「体験教室」(行事、課外活動、修学旅行など)「体験教室」は民間の文化スポーツ施設や旅行会社と地域のボランティアによって運営される。

として、「基礎教室」だけを文部省と各都道府県市町村の責任において運営する「公教育のスリム化」論だった。
 「合校論」は、文部大臣と中央教育審議会会長の賛同、日教組委員長の賛同も獲得し、1990年代半ばには、

教育改革の翼賛体制

を形成していたとされている。

1990年代半ばには
 学校のリストラと
 批判していたのに

 すでに述べたが、窪島氏は、1998年に京都市教職員組合の機関紙に
「学校と教育を個性化するという名目によって、学校のリストラ、教師減らしがすすめられ」
「強引に統廃合をすすめられている現実」
「教育に市場原理が持ち込まれ、よい教育を買いたければたくさん金を出せという論理が大手を振って」
と曖昧であるが暗に経済界や文部省の動きを批判していた。 

態度が変わった
 教員評価制度の実行で 

 その後、2002年から実施された新学習指導要領における

 教育内容の3割削減、
 義務教育段階にエリート・コースを準備する中高一貫教育の選択的導入、
 文部省による日の丸・君が代の強制、
 「奉仕活動」の強制と教育基本法「改正」の提言、
 国立大学の独立行政法人化、
 学校選択の自由化と教員に対する評価制度

が実行されていく。

2001年文部科学省は
「特殊教育」を
「特別支援教育」

 と言い替えたが… 

その間、
 2001年から文部科学省は、「特殊教育」という言い方を「特別支援教育」とし、
 2005年12月 中央教育審議会 「特別支援教育を推進するための制度の在り方について」答申、
 2006年3月 学校教育法施行規則の一部改正(同年4月施行)、
 2006年6月15日 「学校教育法等の一部を改正する法律案」可決・成立 。6月21日に公布、
 2007年4月から特別支援教育実施
がすすめられる。

特別支援教育の実施で
戦後の障害児教育の歴史で
 初めての大きな制度改変と絶賛

 特別支援教育が学校教育法に取り込まれると窪島氏の態度は「批判」から絶賛に変わる。
 すでに紹介したに 国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-(2010年7月)で、
 窪島氏は、特別支援教育を
「新しい制度」
と評価し、問題もあげるが、
「戦後の障害児教育の歴史の中で初めての大きな制度改変であった。」
と絶賛するようになる。

特別支援教育の評価
とは別なところにあるのか
  主張の変貌

 窪島氏が、このように態度を豹変させた原因には、彼の書いたものを詳しく読んでも、1970年代からの彼の文章を通読しても
「わずか数年で窪島氏が、障害児教育から何の脈絡も変更もないまま、特別支援教育を賛美」する理由が見つからない。
 そればかりか、軽度発達障害と書いていたものを文部科学省の通知に合わせて、発達障害と書いている。
 そこには、研究者との良識、研究の自由による自己論拠の展開、研究による訂正・変更などまったく見られず、用語や概念も簡単に書き換えられている。
 そして、主語のない文章、曖昧表現、仮説の根拠を充分吟味しない仮説による調査などなどが増え続けている。
 それらを吟味すると彼の主張が変わったのは、別なところに原因があるとしか考えられない。

国立大学でなくなって
 実績数や評価の数量を
  増やすことに奔走したのでは

 すなわち、
 1999年6月、 文部省、全国国立大学学長会議で独立行政法人化の検討を表明。
  2001年に独立行政法人が成立。
 2003年7月、国立大学法人法が国会で成立
したことが関係しているようである。
 国立大学の滋賀大学教育学部に居た彼が、国立大学ではなくなったことにより、研究実績を急激に数量化し、増大化させる窪島氏なりの「策略」が態度を一変させたとしか考えられない。

 すなわち、国立大学の法人化によって、多くの問題が生じたが、
 
 研究費調達は各大学の自助努力が求められるようになった。
 寄付を募るなど運営が私立大学に近いものになってきている。
 毎年、前年度比という効率化係数が適用されて、漸減する。
 したがって、必要な人数の教員や職員を確保できない事態が発生する、

 などなどのために窪島氏は、自らの効率化係数の増加を意識し、実績づくりのために「奔走」するようになったしか考えられないのである。
 なぜなら、彼の属する大学のホームページでは、彼の研究・実績数、そればかりか新聞記事までカウントされ、誰にでも「見える」ようにされている。
 研究や大学の様子や一つの論文にどれだけ時間と労力が費やされたかは分からず、に見た人が、大学のホームページに掲載されている大学教授等の実績・著作・講演数などなどの多さ(「数値」)だけでその教授を評価してしまうことになっている。
 この教授は、働いている、働いていない、などなどと思わされるようなことが大学のホームページで明るみに出されている。
 窪島氏は、大学のホームページとリンクさせているため、「研究・実績数、そればかりか新聞記事」などなどの数量他の教授を凌駕している。

2011年5月10日火曜日

数年で「変貌」した滋賀大学教育学部窪島務氏の主張はどこから来たのか

  
窪島氏は、1998年に京都市教職員組合の機関紙書いたことを紹介した。
 ところが、数年で彼の書いたことが「変貌」する点を明らかにして、その「変貌」の原因を考えてみたい。

大きく「変貌」した主張

窪島氏は、

子どもの息苦しさを教師がつくる

1、子どもににとって本当に息苦しいことをあげていた。
 だが、その原因を教師の人権蹂躙とするようになった。

学校・教師へのパッシングが消える

2、学校たたき、教師パッシングなど本当に理不尽なジャーナリズムの傾向や一部の「進歩的」研究者の無責任な言動が横行し、また何でも責任を学校に押しつける親がふえているという中で、教師が失敗をおそれないおおらかな対応をしにくくなっている。
 記述が消えるようになった。

学校・教師の役割の否定

3、本来の学校の役割、教師の指導の役割を否定することではなく、本来の教師の指導性を正しく発揮するために不可欠。
 としていたのに「学校の役割、教師の指導の役割を否定する」ようになった。

知能検査の導入を肯定

4、学校にカウンセラーが配置されることについて、教師が全面的にカウンセラーの役割をするなどということは本来的に無理なことと言えます。役割(職業的専門性)が違う。
としていたのに教師の心理的領域を強調するようになり、知能検査の導入を主張するようになった。そのための講習会を行うようになった。

心理主義導入と教師の区分をなくす

5、カウンセラーが決して教師になれないのと同じです。(教師が自分の学校を離れ、職場である学校と全く関係なく、学校との関係が全くないクライエントと面談するときにはどうかということはわかりません。それでも難しいと思いますが。)  
としていたのに、自らの教育相談(カウンセラー)から、教師にクレーム・研修・指導をするようになった。

教師の仕事を理解せず新たな負担を強調

6、学校にカウンセラーを導入することはが有益になるためには二つの条件、一つは、そうしたカウンセラーの特長を学校がよく理解するということ、もう一つはカウンセラーが学校というもの、教師の仕事の全体をよく理解するということです。 
としていたのに、自ら学校の現状や教師の仕事を理解しないばかりか、教師の仕事に「新たなる専門性」を主張するようになった。

学校リストラを事実上容認

7、学校と教育を個性化するという名目によって、学校のリストラ、教師減らしがすすめられています。
としていたのに学校の個性化を肯定し、学校のリストラ、教師減らしについて触れないばかりか、少人数学級の項で教師の質を問題にして教師減らしを肯定する論拠の裏付け主張をするようになった。

学校統廃合を不問にする

8、いまや登校拒否児の進学保障の場となっている高等学校の定時制課程が強引に統廃合をすすめられている現実があります。
 としていたのに、障害児学校・学級の統廃合や普通学校の統廃合を取り上げることなく、それに対する意見を述べなくなった。

教育の市場原理を述べなくなる

9,教育に市場原理が持ち込まれ、よい教育を買いたければたくさん金を出せという論理が大手を振っています。勉強ができないのも「個性」であるとあきらめさせられています。問題が起きると親と子どもの責任にされたり直接かかわりのある学校や教師の責任にされがちです。
 としていたのに、親と子どもの責任ではなく、学校と教師の責任を主張するようになり、「教育の市場原理」に触れなくなった。

「教師=敵論」「親=原罪論」を批判しなくなった

10、無責任なジャーナリズムの姿勢も問題です。「教師=敵論」「親=原罪論」ではともに問題解決にはつながりません。
としていたのにジャーナリズムとの結びつきを強め、「教師=敵論」「親=原罪論」を批判しなくなった。

親と教師を分断する主張を積極的に行う 

11、親と教師が協同して教育を変えていく運動を大きくすることが重要です。
としていたのに、「親と教師が協同して教育を変えていく」のではなく、親と教師を分断する主張を積極的に行うようになった。

わずか数年で窪島氏が、障害児教育から何の脈絡も変更もないまま、特別支援教育を賛美し、発達障害、読み書き障害、読み書き困難などを研究していることを「乱発的に発信」して、「変遷」する彼の主張の根本問題と若干の原因について次から述べて行きたい。

2011年5月9日月曜日

滋賀大学教育学部窪島務氏の論拠は破綻





窪島氏の

論拠の破綻









 群馬大学教育学部久田信行氏の「発達障害や学習障害の概念規定は成り立たない」とした論拠に基づき、

「障害だからという位置づけではなく、特別な教育的ニーズがあるから、特別の支援を行うという、特別ニーズ教育の原点に戻る必要がある。その際、読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。」

という論理から滋賀大学教育学部窪島務氏の現在の主張を考えると、窪島氏の行っていることは重大な問題と破綻が浮かび上がってくる。

 窪島氏の過去の文章を読んでいない人は、現在彼は「読み書き障害」の研究者であり、発達障害の研究者である、と思われるだろう。

 だが、そうではない。

場面理解をして
  使い分ける文章を
    比較すると

 彼は、書いていること、またやっていることを「場所」や「対象者」「読み手」によって、まったく異なったことを主張し、彼自身が書いている「新しい問題」を引き起こしている。
 そればかりか、窪島氏は「意図的か」「意図的でないか」は、別にして、西氏や久田氏のように文部科学省の文章を読みこなせてないばかりか、重大な「誤りか」「意図的無視」を引き起こしていることは、間違いないだろう。
 そのためまず、
 以下窪島氏が、1998年に京都市教職員組合の機関紙に掲載された、「教師の指導」の視点から「登校拒否」問題を考えるというテーマの文章の一部を掲載したい。
だだし、参考のためにすでに引用した日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』(2002年12月季刊)、(国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-2010年 )を※印で再掲載する。

窪島氏は、1998年に京都市教職員組合の機関紙に次のようなことを書いている。

子どもの息苦しさを
 責任転化するはじまり

  子どもににとって本当に息苦しいのは、いわば「善意のおせっかい、」「良心的な押しつけ」です。それは、子どもが 拒否できないしつこさ、「正しさ」を持ってせまってくるからです。

 いま、「善意のおせっかい」や「良心的押しつけ」が教育の場で、「子どものため」「発達のため「将来のため」という「教育的配慮」によって行われ、教師もそこから逃れることができなくなっている状況があります。
教師パッシングの中で
  失敗をおそれない
    おおらかな対応を、
       と主張していたが

 確かに、最近、学校たたき、教師パッシングなど本当に理不尽なジャーナリズムの傾向や一部の「進歩的」研究者の無責任な言動が横行し、また何でも責任を学校に押しつける親がふえているという中で、教師が失敗をおそれないおおらかな対応をしにくくなっているのは確かですが、教師が陥りやすい落とし穴をしっかり見据えることが大切です。
 それは、本来の学校の役割、教師の指導の役割を否定することではなく、本来の教師の指導性を正しく発揮するために不可欠のことだからです。

※  身体的不調を訴える不登校・登校拒否児童生徒を前にして,「頑張って登校しなさい」 「登校してくれなければ何もできない」 という
 子どもに対する教師の言動や学校の息苦しさ
に対して教師の人間的感性,感受性がなにゆえ作動しなかったのかということについての説明としては不十分である。なにより,教師がどのように変わりうるのかということについての見通しを示せなかった。( 日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』2002年 )

問題解決には
 つながらない
「教師=敵論」「親=原罪論」
    と主張していたが

  さらに窪島氏は
 そのように考えてくると教師が全面的にカウンセラーの役割をするなどということは本来的に無理なことと言えます。役割(職業的専門性)が違うのです。
 カウンセラーが決して教師になれないのと同じです。(教師が自分の学校を離れ、職場である学校と全く関係なく、学校との関係が全くないクライエントと面談するときにはどうかということはわかりません。それでも難しいと思いますが。)  
 誤解があるといけないので付け加えますと、学校にカウンセラーを導入することは有益であると考えています。 
 但し、本当に有益になるためには二つの条件があります。
 一つは、そうしたカウンセラーの特長を学校がよく理解するということ、
 もう一つはカウンセラーが学校というもの、教師の仕事の全体をよく理解するということです。 
 今これが決定的に不十分であるため、むしろ新たな問題を引き起こし、学校からはカウンセラーなどない方が良いという声も出ているところが多いと聞いています。
 ありうることだと思います。

学校のリストラ、
 教師減らしがすすめられて
   と主張していたが

 学校と教育を個性化するという名目によって、学校のリストラ、教師減らしがすすめられています。
 いまや登校拒否児の進学保障の場となっている高等学校の定時制課程が強引に統廃合をすすめられている現実があります。
 教育に市場原理が持ち込まれ、よい教育を買いたければたくさん金を出せという論理が大手を振っています。 
 勉強ができないのも「個性」であるとあきらめさせられています。
 問題が起きると親と子どもの責任にされたり直接かかわりのある学校や教師の責任にされがち
 です。 
 無責任なジャーナリズムの姿勢も問題です。 
 「教師=敵論」「親=原罪論」ではともに問題解決にはつながりません。 
 教師自らが足もとを率直に見直すとともに、親と教師が協同して教育を変えていく運動を大きくすることが重要です。

※ 滋賀大キッズカレッジのアセスメントでは、音韻意識にも蹟きが認められた。すなわち、ひらがなの読み、書きでも特殊音節で困難が起きる程度の重度の読み書き障害である。対人関係に問題のない学習障害である。
 ところが、そうした保護者に対して、担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度で保護者は相談のしょうがないと考え滋賀大キッズカレッジにたどり着いた。こうした事例が今年に入ってから相次いでいる。 子どもの困難さと保護者の心配に対するこうした
「否認ネグレクト」
は決してまれな例ではないが
虐待の一形態
であるとするなら、子どもの困難と保護者の心配のネグレクトは
まさに虐待
というべきものであり、
子どもの人権の蹂躙に他ならない。
(国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-2010年 )

優柔不断か
      意図的か

 わずか数年で窪島氏が、主張を変えたのは、もともと彼の主張には、優柔不断なところがあったとされる意見もある。

 だが、特別支援教育、発達障害、読み書き障害、読み書き困難などと「変遷」する彼の主張だけに留まらず、教育に重大な悪影響と混乱を引き起こしているので、窪島氏の考えの根本問題を引き起こしている若干の原因について述べて行きたい。

2011年5月7日土曜日

発達障害や学習障害の概念規定は成り立たない 滋賀大学教育学部窪島務氏の「我田引水」(3)

 2010年9月日本特殊教育学会で、久田氏は、「発達障害や学習障害の概念規定は成り立たない ―国際生活機能分類(ICF)と障害概念の要件からの検討― 」の口頭発表をしている。


WHOの国際障害分類(ICIDH)の改訂とその改訂の国際生活機能分類(IF)をもとに検討し、

「何らかの脳機能」による達障害、学習障害の考え方はないICFに代表されるように、障害の捉え方として、昔の「病理モデル」や、その論理形式である「基底還元論」への反省(上田,2005)から,生活機能の重視へと変化してきている。
 また、参加の重視や環境因子の明記のように、社会的要因を重視するようにもなってきている。
 このような変化は、脳機能の何らかの病理という基底に還元する発達障害、学習障害の考え方とは異なっている。
 ICF の心身機能・身体構造のレベルにおいて、脳・神経系の障害が評価されるが、その中には「何らかの脳機能」という項目は無い。
 評価可能な,具体的な困難が評価の対象項目となっている。
 また、当然のことだが、「学習」という機能も「発達」という機能も無い。

ことを明確に分析している。

脳に
「学習野」「発達野」はないのに

さらに、

 視覚障害の場合、目という受容器か視神経、視覚野といった中枢神経系が身体構造としては対応している。
 運動障害の場合、筋・骨格系、運動野を代表とする脳神経系が対応している。
 では、「学習」に対応する身体構造があるだろうか。
 「学習野」という中枢神経系の領野はあるだろうか。
 どちらも無いのである。
 同様に、「発達野」という領野は存在しない。
 なぜなら、経験による行動の変化を「学習」と呼び、経験と成熟による変化の過程を「発達」と呼ぶからである。
 これらの概念は行動の変化の様相を示す概念であり、もともと機能ではないので、機能の制意味する障害に該当しない。

脳性まひやてんかんなどの総称
として用いられたアメリカの「発達障害」 

 そもそも、歴史的に、「特異な学習障害」は、さまざまな状態像の総称として提唱された。
 「発達障害」も最初、アメリカにおける法律で脳性まひやてんかんなどの総称として用いられた。
 我が国の場合、法律の谷間にいた諸々の障害の総称として用いられた。
 ちなみに、日本とアメリカで内容が異なる点も留意すべき点である。

もとめられる
「特別ニーズ教育の原点に戻る」

以上のことから久田氏は、

(新たな考え方)
 教科学習における特異な困難や対人行動の面での困難は現実に存在する。
 それらの困難を示す児童・生徒への支援は、当然ながら特別支援教育の対象である。
 それは障害だからという位置づけではなく、特別な教育的ニーズがあるから、特別の支援を行うという、特別ニーズ教育の原点に戻る必要がある。
 その際、読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。
 
という方向性を出している。

読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。

という提起は、「発達障害」を限定的に規定され、教育行政や一部の研究者によって指導されていた
少なくない学校の取り組みに「激震」
を与えることは充分予測される。

「踏み絵」にさせられている
     「発達障害や学習障害」の理解

 なぜなら、今や「発達障害や学習障害」という広範に広げられ、「発達障害や学習障害」を理解しなければ、普通学校の教師ではない、とさえ断定されることが多くある。
 「発達障害や学習障害の理解があるか、どうか」を踏み絵に学校現場では、教師の評価が振り分けられたり、批判されたりして教師間の対立・混乱・沈黙・あきらめがより横行するようになっているからである。

 また、意外に知られていないのは、障害児学校で「発達障害や学習障害」の評価と理解をめぐって、教師間での対立が生じていることがある。

 その場合の多くは、校長などの管理職によって「発達障害や学習障害」を受けとめるべきだという強行策で事が進められている。

 教育として教師間の理解を広める、理解し合うのではなく、「発達障害や学習障害の理解」が「踏み絵」にさせられていることを嘆く多くの報告がある。

久田氏の考えで
予測できる
 教育内容の充実と広がり

 しかし教育実践をする学校や学校の教師からすれば、従来の教育実践を踏まえて、久田氏の考えのほうが、形式論議よりも教育内容のさらなる充実がすすめられることは充分予測できる。
久田氏の、

それは障害だからという位置づけではなく、特別な教育的ニーズがあるから、特別の支援を行うという、特別ニーズ教育の原点に戻る必要がある。

 その際、読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。

という考えは、教育実践としてもより有効で効果的であり、教師間の一致と連帯も深まるだろう。

表面的に答申や報告書を読むと間違う       滋賀大学教育学部窪島務氏の「我田引水」(2)

群馬大学教育学部久田信行氏は、「発達障害者とは-特別支援教育の対象者-(2008.2.25第三版)」を公開されているが、その一部を紹介させていただく。

読まれていない最初からの「従来の特殊教育の対象者に加えて」という記述


久田氏は、

 特別支援教育の対象者に関しては、最初から「従来の特殊教育の対象者に加えて」という記述がありました。「LD,ADHD,高機能自閉症児等」は、対象を広げる際の、例示としてあげられていた訳です。
 しかし、「LD,ADHD,高機能自閉症児等」の「等」はアスペルガー症候群だなどという解説がまかり通るなど、解釈は混乱していたと思います。
 上記の一群の対象に関する記載なら、本来「等」は、「その他の、特別な支援が必要な幼児・児童・生徒」であるでしょう。
 少なくとも、「LD,ADHD」の考え方は、「脳障害児」という1940年代の対象児をルーツにもつ子どもたちですので、「運動機能の特異的発達障害」あるいは「発達性協調運動障害DCD」と呼ばれる不器用なタイプの子どもが、いわゆる脳障害児のタイプとしては抜けていたので、それを入れる方がベターだと考えられます。
 高機能自閉症の一部と考えられるアスペルガー症候群(DSM-Ⅳだとアスペルガー障害)を「等」とするのは、論理的に整合性を欠くと思っていました。
 そもそも、新たに加えられた子どもたちのイメージが「学習障害等」という所から出発したのは歴史的成り行きですが、学習障害が強調されすぎたきらいはあるでしょう。
 
「従来の特殊教育の対象者」
に付け加わっただけだが

 特別支援教育の対象者の中核は、「従来の特殊教育の対象者」であったことを、明確に確認する必要があります。
 すなわち、視覚障害、聴覚障害、知的障害、肢体不自由、病弱という現在の特別支援学校の主たる対象者、さらには、言語障害、情緒障害その他の従来の特殊学級の対象者がまず特別支援教育の対象者なのです。
 それに加えて、どのような子どもたちが加えられたかという論議である訳です。従来の特殊学級の対象児を忘れたかのような「特別支援教育」の論議は、非常に問題が大きかったと思います。
と論じている。
 だが少なくない普通学校では、特別支援教育の対象者は、「LD,ADHD,高機能自閉症児」だとされている現実がある。

プロの研究者でも
間違いを生じる答申や報告書

 さらに久田氏は、、
では、どの様な対象者を加えるのか
 特別な支援を行う対象者をどう定めるか、という問題は、特別支援教育とは何かという問題と深く関わっています。
 特別支援教育という概念や考え方の大元を吟味することなく、表面的に答申や報告書を読んでいると、一応プロの研究者でも間違いを生じるのではないでしょうか?
ということを明らかにしている。「表面的に答申や報告書を読んでいると、一応プロの研究者でも間違いを生じるのではないでしょうか?」という意味は重要な意味を持つ。このことは、もともと文部科学省が、「間違いを生じるよう」にしていたともとれる。先に述べておくなら、文部科学省の動きを調べてみるとどうもこの「特別支援教育」や「特別支援学校」などの名称も含めた検討をすすめているようである。
 
通常の学級にいる
  子どもたちを指し
    示していた範囲  

 さらに久田氏は、

 「LD,ADHD,高機能自閉症児等」という表現や「軽度発達障害」という用語が指し示していた範囲は、通常の学級にいる子どもたちです。特に知的障害のある子どもたちを除外して、「LD,ADHD,高機能自閉症児等」と言っていた面があります。
 明確にそう規定されていた訳ではありませんが、二つの理由から、ある意味では、暗黙にそう受け取られていたのです。
 第一に、「LD,ADHD,高機能自閉症児等」の定義で、いずれも脳の機能障害が原因と推定され、かつ、知的障害ではないと規定されていることがあげられます。
 第二に、特別支援教育への変革の序章であった「通級学級に関する調査 研究協力者会議」(山口薫 座長)で、明確に知的障害は通級の対象から除外された点があげられます。その際、知的障害のある子どもについては、原則として養護学校か固定式の特殊学級で措置されることになっていたため、その制度を崩さないという考えがベースになって、知的障害は通級の対象から除外され、学習障害は将来の含みを残しながら、ペンディングになったと解釈できます(「通級による指導に関する充実方策について(審議のまとめ) 」平成4年3月30日、1992)。

と述べる。たしかに、「研究協力者会議」の報告を読んでいるとそのように思える。

「学習障害」という表現は
学校教育法にはない

 さらに久田氏は、核心を追求した論述をを書いている。
 「学校教育法等の一部を改正する法律」が平成18年6月15日に成立しましたが、その中には「LD, ADHD, 高機能自閉症児等」はおろか「学習障害」という表現もありません。「教育上特別の支援を必要とする児童、生徒及び幼児」と書かれており、診断名で規定されてはいないのです。平成18年7月18日の「特別支援教育の推進のための学校教育法等の一部改正について(通知)」においても同様です。
まさにそうである。これらの文章をいくら読んでも「学習障害」という表現は出てこない。

厚生労働省の関係法案・通知に
  関連する特別支援教育課の通知

そしてさらに、

 平成19年3月15日に文部科学省特別支援教育課は「『発達障害』の用語の使用について」という通知を出しました。
 その中で、問題の多かった「軽度発達障害」という用語を用いないだけではなく、今まで多用していた「LD,ADHD,高機能自閉症児等」という表現も原則使わないこととし、代わりに「発達障害」という用語を、発達障害者支援法の規定に基づいて使うと宣言しました。
また、同じ特別支援教育課のホームページには発達障害支援法の「発達障害」の規程が丁寧に書かれています。
 要約的に紹介すると、発達障害者支援法の第二条に発達障害者の定義があり、そこには広汎性発達障害(当然、自閉症を含む)と学習障害、注意欠陥多動性障害があげられています。
 更に、政令に規定する障害という文言があります。
 それを受けて、同施行規則(政令)では、言語の障害と協調運動の障害があげられ、更に厚生労働省令で規定する障害という文言があります。
 政令で規定された範囲についても、言語障害や発達性協調運動障害が加わり、特に言語障害は非常に数が多いだけでなく、原因が多岐にわたるため、いろいろな問題が絡んでくることが予測されます。(だからといって、悪いわけではないが)。
 その次に、いよいよ厚生労働省令の規程を読んでみると、実に多様な障害があげられています。なんと心理的発達の障害並びに行動及び情緒の障害があげられているのです。

と、久田氏は、文部科学省特別支援教育課は「『発達障害』の用語の使用について」という通知・厚生労働省令の規程などを読んだ上での解説を書いている。

文部科学省の文章は
 厚生労働省の文章と連動する

この当然といえば、当然であるが窪島氏は、平成19年3月15日に文部科学省特別支援教育課は「『発達障害』の用語の使用について」という通知を読んでも、文部科学省以外の厚生労働省の関係する発達障害者支援法とその関連する文章を読みこなしていたとは考えにくい。
 国・文部科学省・厚生労働省を別の分野として捉えて、考えていたのではないかと考えられる。
 ところが、国の動きや文章などは、各省庁の分担と関連で出されることは常識なのであるが、「教育界」の一部では文部科学省だけで考える傾向が強い。

「多忙化」の
 内容把握しないままの表現


 窪島氏の文章で例をあげてみると、

島根大学教育学部西信高氏の論文から見えてくる滋賀大学教育学部窪島務氏の「旋回方向」(6)で、「学校における教師の多忙化、教育内容の過密と一貫性のなさによる混乱の結果、子どもたちの落ち着きがなくなり、教師もそれに対応する余裕がなくなっているために、これらの子どもの問題行動が吹き出してきたというものである。」と書いていることを紹介した。
 ここで彼が書いている「教師の多忙化」ということばは、ある教職員組合が絶えず使っていることばを使ったにすぎず、彼は何の評価もなしに、教師の多忙化、と肯定的に書いている。
 しかし、労働を管轄する厚生労働省の文章を見ても、厚生労働省の動きと密接な関連がある「労働安全衛生」の分野でもこのようなことばは、使われていない。
 窪島氏が、
「学校における教師の多忙化」
を書くなら、
「いつから学校の教師は多忙になったのか」
「いつ学校の教師は忙しくなかったのか」
を明らかにしなければ教育研究者としての立場で書いているとは考えられないだろう。
 ましてや
「学校における教師の多忙化」
が、
「発達障害児が増えているのかどうかという問題に関しては、3つの可能性が考えられる。」
のうちの一つとしているのだから、多忙でなかった学校が、「多忙化」した時期と発達障害児が増えているのかどうかという問題に関する究明しなければならないだろう。
 少なくとも具体例で述べた養護学級教師の過労自殺などなどの経過や裁判、判決を目にしていたならば、このようなことを書かないはずである。

働く人々と密接不可分な関係
     がある厚生労働省

 この厚生労働省との関連で文部科学省が文章を出しているならば、厚生労働省の文章も読みこなさなければならないだろう。
 だが、窪島氏は、両方の省の文章を読み込んで「発達障害」を論じているとは考えられない。
 なぜなら、彼は、文部科学省の文章に出てくる発達障害者支援法をあげているが、久田氏のように発達障害者支援法関連の厚生労働省令などの障害の規定を読みこなしていれば、縷々引用し
た彼のような「発達障害」の規定が出てこないからである。

厚生労働省と
   切り離せらされない
       障害児・者問題

 もっと分かりやすくいえば、彼は、「発達障害」を他の障害と切り離して書き、「発達障害」を普通校・普通学級のみに限定して書いているところを見れば明らかである。
 客観的に各省庁の文章を読み、論述するより、主観から文部科学省の一文章を読んでいることが明らかになる。

2011年5月6日金曜日

文部科学省などの文章を読みこなせているか   滋賀大学教育学部窪島務氏の「我田引水」(1)


発達障害や学習障害の概念規定は 成り立たない

 窪島氏に文部科学省の打ち出してきた「発達障害」の概念に、「極めて不正確ところがあり、教育をすすめる教師としてはこのような規定の仕方では混乱が生じる。」という意見を出した教師に「そんなことはない。文部科学省の概念規定は極めて正確で、LDやADHDの区分は明確である。」と述べた。
 ことは、すでに掲載してきた。

文部科学省等の通知  などなどを読みこなせない

 窪島氏とのやり取りをした教師は、「窪島氏は、文部科学省等の通知などなどの文章を読みこなせていないのではないか。」という感想を漏らした。
 このようなことを書くと大学教授に失礼だ、と思われる方々がいるかもしれない。
 しかし、文部科学省などの国の文章は、一種独特の表現があり、西氏も指摘しているように「熟読」しないとその概要やねらいは把握できない。
 書かれていることをそのまま受けとめてしまうと、教育現場に大きな混乱を起こす。

最初から崩ていた 「総合的な学習の時間」

 例えば、2000年(平成12年)から「総合的な学習の時間」が出されてきた時もそうである。
文部科学省の各種文章や解説本を読むと「評価なき評価」「総合的に自由な授業の編成」などなども読めた。
 この「総合的な学習の時間」について、高く評価する教師や研究者も多かった。だが、ベテラン教師の中からは、「必須クラブの時間と同じですぐ崩れるだろう。」との意見が出された。
 問題は、学校現場で「総合的な学習の時間」をとりいれた教育課程編成をすすめると、多くの点で問題が生じ、アンバランスが生じた。
 なぜなら、他の教科では評価が雁字搦めに決められているのに「総合的な学習の時間」だけが、評価なき評価にすることは、教育課程の系統性から考えてももともと無理なことであったからである。
 当時の文部科学省の文章を熟読すると、文部科学省内部で「総合的な学習の時間」の創設を否定していることが推定できた。

ベテラン教師は 文部科学省の次を読みとる

 そのことを見越した学校では、2000年(平成12年)から段階的にはじめられる「総合的な学習の時間」がいつでも手直しできるような教育課程編成を行った。
 現在は、「総合的な学習の時間」が当初の意図とはまったく異なって、事実上の教科教育となっているとことがほとんどとなっている。
 これはほんの一例であるが、文部科学省の通達・指示などなどの文章は通常の読み方では、混乱が生じることは文部科学省の文章を熟読している教師としては、常識事項であるとも言える。
 さらに、府県教育委員会や各種伝達講習を聞くとかえって混乱と誤解を招くから、文部科学省の文章を直接読んだほうがポイントをつかめるとするベテラン教師は少なくない。
窪島氏とのやり取りをした教師は、こららのことを承知した上で、窪島氏に質問・意見をしたのである。
 
混乱をまねいた 特別支援教育課の「訂正」

 例えば、西氏も、「奇異な印象」と述べているが「発達障害」の用語の使用についての平成19年3月15日 文部科学省初等中等教育局特別支援教育課の文章を、窪島氏らの「SKC発達障害教育研究所」で、無評価で「学習障害とは?学習障害の概念 文科省の定義」を掲載しているのは、窪島氏が、文部科学省の定義を肯定している現れである。
 だが、特別支援教育課の文章の一行目を読んだだけで、文部科学省の問題点がわかることを窪島氏は読め込めない。

すなわち、

 今般、当課においては、これまでの「LD、ADHD、高機能自閉症等」との表記について、国民のわかりやすさや、他省庁との連携のしやすさ等の理由から、下記のとおり整理した上で、発達障害者支援法の定義による「発達障害」との表記に換えることとしましたのでお知らせします。

と書かれている。
 この意味は、文部科学省が「LD、ADHD、高機能自閉症等」と「等」の表記について、「混乱を招くようなこと」をしていたことを認めた文章なのである。
 文部科学省は、「総合的な学習の時間」の創設については、文部科学省内部でその誤りを認め、その担当者を「更迭」しているにも関わらずそれを表に出していないことからでも解るように、文部科学省は「国民のわかりやすさや、他省庁との連携のしやすさ等の理由」を口実に文部科学省が「混乱を招くようなこと」をしていたことを「改めて」いるのである。





発達障害や学習障害の 概念規定は成り立たない

 それらのことも承知していると考えられるが、群馬大学教育学部久田信行氏は、キッパリと
発達障害や学習障害の概念規定は成り立たない
として、研究した結果を公表し、学会でも報告している。

2011年5月4日水曜日

はたしてどのような教育が「適切」なのか   島根大学教育学部西信高氏の論文から見えてくる滋賀大学教育学部窪島務氏の「旋回方向」(6)















先生の話も子どもの様子も
   じっくり診る西氏

 西氏は、「発達支援」「教育的援助」等々の用語が飛び交いる、として二つの事例をあげているが、以下小学生の子ども記述を見てみる。

 彼は、
 
 ある小学校で、ADHDと診断されている6年生の子どもを見たことがある。
 個別学習の時間で先生と一対一で、おとなしく椅子に座り、熱心にとりくんでいた。
 先生の話では、診断と同時に処方された薬が効いたものと思われるが、劇的に変化した、ということであった。
 それまでは階上から物を投げるなど粗暴で危険な行動が目立ったという。特に厳しい学習面の遅れは指摘できず、ほぼ年齢相応の学力であるという。
 しかしながら授業が進められる中での受け応えをみると、むしろその遅れを感じた。
 かけ算の九九を唱えることができることをもって「この子はかけ算ができる」と見誤ってしまう例は必ずしも少なくない。このかけ算を理解する段階で足踏みしている子どもでさまざまな「問題」行動を起こしている例を多く見ている。
 聴覚障害児の教育において経験的に言われてきた「9歳のかべ」に通ずるものを感じるが、この壁を乗り越えようとするがうまくいかず、その軋轢あるいはストレスが回りの人的関係の中で一種のゆがんだ形で表現されるのが、つまり「注意欠陥」「多動」等々ではなかろうかとの仮説を持っている。

発達の基礎の上に
 子どもの課題を捉える

 つまり、基礎として発達上のつまづきがあり、二次的・副次的な構造をもってこうした「行動障害」が発現するのではなかろうか、ということである。
 かけ算の意味の理解と手法の習熟は9・10歳の発達の一つ内容をなすものであるが、教科書によってはその教授法に「外延量×倍=外延量」を導入している例もある。
 しかし、「倍は、量と量との関係を表すものですから、2年生、3年生には大変高度な概念です。
 だから、累加という方法で理解させようとするのですが、倍と累加が結びついた形では×1と×0が説明がつきません。
 また整数倍の2倍、3倍、……がわかっても1倍、0倍というのは理解できないものです。(中略) そこで私は内包量×外延量=外延量の立場で指導します。」

人間発達を
みとおした問題意識

 かけ算は高等学校段階の微分・積分に通じる入り口となる内容であり、つまりは青年期の発達を自らのものとする一里塚でもあるがゆえに、どの子どもにおいても非常に高いハードルとなって現れるのである。

と書いているが、ここでも西氏と窪島氏の大きな相違が見られる。
ともかく、西氏は、教育実践の行われている場に足蹴く通い、教育実践と子どもや教育のことをよく診ていることが解る。

教育の全体と部分の統一的研究

 さらに、西氏はよく診た上で

「特に厳しい学習面の遅れは指摘できず、ほぼ年齢相応の学力であるという。しかしながら授業が進められる中での受け応えをみると、むしろその遅れを感じた。」

「かけ算は高等学校段階の微分・積分に通じる入り口となる内容であり、つまりは青年期の発達を自らのものとする一里塚でもあるがゆえに、どの子どもにおいても非常に高いハードルとなって現れるのである。」

などのように、ひとりの子どもの状態を把握しつつも教育全体の課題をも見出している。
 この西氏の教育全体と子どもひとりひとりの両側面から把握し、研究することは、当然といえばそれまでであるが、今日の教育状況から考えてそう簡単ではないことが窺える。
 彼の研究は、極めて実践研究である、と言えるが、今日の教育を語る研究者が机上の空論と共に教育の現実を見ない、「ことば遊び」「いわゆるうけねらい」「笑いとり」「その場しのぎの一時的感動を与える講演方法」などなどに終始していることから考えても、教育実践する人々は、もっと西氏の論拠を知り、その具体的提起に注目すべきである。

曖昧さを貫く発達障害児が
     増えているかどうかの論拠

西氏の診方に対して窪島氏は、滋賀大キッズカレッジ「発達障害教育研究所」で、次のような考えを出している。

 発達障害児が増えているのかどうかという問題に関しては、3つの可能性が考えられる。
 「増えているかどうか」という点では、学校で問題となる子どもとしては確実に増えている。
 しかし、それは、元もとそうした子どもはいたのであって、何らかの事情でその子どもたちの問題が表面化しだしたに過ぎない、という議論もある。

として、三点をあげているが、学校に関わる部分は、

 第二に指摘されるのは、学校における教師の多忙化、教育内容の過密と一貫性のなさによる混乱の結果、子どもたちの落ち着きがなくなり、教師もそれに対応する余裕がなくなっているために、これらの子どもの問題行動が吹き出してきたというものである。

としている。ここでも窪島氏は、
1、「学校における教師の多忙化」の原因とその解明
2、「教育内容の過密と一貫性のなさによる混乱の結果、子どもたちの落ち着き  がなくなり」の責任とその原因と解明
3、「教師もそれに対応する余裕がなくなっている」ことへの方策と対応
を述べるのではなく、「あるがまま」書いているだけで、「発達障害児が増えているのかどうかという問題」に対することを曖昧にしているのである。

 何度もくり返すが、窪島氏の考えがあると推定されるのにそれを書かないで、読み手にその解釈を委ねるという手法が使われている。

適切な教育とはなにかを
  鋭く研究しようとする西氏

 西氏は、窪島氏と違う。                  

 彼は、二つの事例をあげて以下のことを論じる。

 「適切な教育」
など、
「適切」ということばが頻出するが、
しかしはたしてどのような教育が「適切」なのか、
この問題が実は核心部分をなしている。

 「適切」を担保する人的条件の整備拡充ということで、文部科学省は2007年度から通級指導担当教員の増員(全国で250人を上回る規模) や、教員志望の大学生を活用する「支援員」制度を導入するなどの施策を講じる。
 しかしながら、たとえばM市の場合、以前から小・中学校に市の独自予算によって特殊学級介助員、特別支援教育指導員、通級指導教室指導員、就学支援専門相談員を配置している。
 制度的には手厚い施策ではあるが、正規採用の教員のほかに、職種や雇用形態、さらには経験や専門性などにおいても多様な関係者が連携を保ちながら、それぞれの子どものニーズの把握にはじまる具体的な「特別支援」をどのように展開していくのか、実践的な課題はなお多く残されている。
 「適切」ということばの響きは望ましく不可欠ではあるが、
 その具体化には、
 教員免許状を所持することの有無は別として、
確かに高度の専門性が要求されるであろう。

と「適切な教育」の内容を論じ、彼の研究をはじめる決意を示している。
 特に、
「適切」ということばの響きは望ましく不可欠ではあるが、その具体化には、教員免許状を所持することの有無は別として、確かに高度の専門性が要求されるであろう。

という提起は、重要な意味を持っている。
 しかし、西氏の提起は、窪島氏が高度な専門性も制度も文化もまったく異なる国からの導入を論じるのとはまったく違う。

日本での教育創造か
  外国からの輸入を適合させる教育か

 西氏は、
 日本の教育の状態や彼が取り組んでいる地域の教育状況から
 提起しているからである。
 解りやすく書けば、
 窪島氏の主張は、「教育の他国からの輸入」
 であるが、
 西氏は、「教育をさらに日本で創造する」
 主張なのである。