2011年5月10日火曜日

数年で「変貌」した滋賀大学教育学部窪島務氏の主張はどこから来たのか

  
窪島氏は、1998年に京都市教職員組合の機関紙書いたことを紹介した。
 ところが、数年で彼の書いたことが「変貌」する点を明らかにして、その「変貌」の原因を考えてみたい。

大きく「変貌」した主張

窪島氏は、

子どもの息苦しさを教師がつくる

1、子どもににとって本当に息苦しいことをあげていた。
 だが、その原因を教師の人権蹂躙とするようになった。

学校・教師へのパッシングが消える

2、学校たたき、教師パッシングなど本当に理不尽なジャーナリズムの傾向や一部の「進歩的」研究者の無責任な言動が横行し、また何でも責任を学校に押しつける親がふえているという中で、教師が失敗をおそれないおおらかな対応をしにくくなっている。
 記述が消えるようになった。

学校・教師の役割の否定

3、本来の学校の役割、教師の指導の役割を否定することではなく、本来の教師の指導性を正しく発揮するために不可欠。
 としていたのに「学校の役割、教師の指導の役割を否定する」ようになった。

知能検査の導入を肯定

4、学校にカウンセラーが配置されることについて、教師が全面的にカウンセラーの役割をするなどということは本来的に無理なことと言えます。役割(職業的専門性)が違う。
としていたのに教師の心理的領域を強調するようになり、知能検査の導入を主張するようになった。そのための講習会を行うようになった。

心理主義導入と教師の区分をなくす

5、カウンセラーが決して教師になれないのと同じです。(教師が自分の学校を離れ、職場である学校と全く関係なく、学校との関係が全くないクライエントと面談するときにはどうかということはわかりません。それでも難しいと思いますが。)  
としていたのに、自らの教育相談(カウンセラー)から、教師にクレーム・研修・指導をするようになった。

教師の仕事を理解せず新たな負担を強調

6、学校にカウンセラーを導入することはが有益になるためには二つの条件、一つは、そうしたカウンセラーの特長を学校がよく理解するということ、もう一つはカウンセラーが学校というもの、教師の仕事の全体をよく理解するということです。 
としていたのに、自ら学校の現状や教師の仕事を理解しないばかりか、教師の仕事に「新たなる専門性」を主張するようになった。

学校リストラを事実上容認

7、学校と教育を個性化するという名目によって、学校のリストラ、教師減らしがすすめられています。
としていたのに学校の個性化を肯定し、学校のリストラ、教師減らしについて触れないばかりか、少人数学級の項で教師の質を問題にして教師減らしを肯定する論拠の裏付け主張をするようになった。

学校統廃合を不問にする

8、いまや登校拒否児の進学保障の場となっている高等学校の定時制課程が強引に統廃合をすすめられている現実があります。
 としていたのに、障害児学校・学級の統廃合や普通学校の統廃合を取り上げることなく、それに対する意見を述べなくなった。

教育の市場原理を述べなくなる

9,教育に市場原理が持ち込まれ、よい教育を買いたければたくさん金を出せという論理が大手を振っています。勉強ができないのも「個性」であるとあきらめさせられています。問題が起きると親と子どもの責任にされたり直接かかわりのある学校や教師の責任にされがちです。
 としていたのに、親と子どもの責任ではなく、学校と教師の責任を主張するようになり、「教育の市場原理」に触れなくなった。

「教師=敵論」「親=原罪論」を批判しなくなった

10、無責任なジャーナリズムの姿勢も問題です。「教師=敵論」「親=原罪論」ではともに問題解決にはつながりません。
としていたのにジャーナリズムとの結びつきを強め、「教師=敵論」「親=原罪論」を批判しなくなった。

親と教師を分断する主張を積極的に行う 

11、親と教師が協同して教育を変えていく運動を大きくすることが重要です。
としていたのに、「親と教師が協同して教育を変えていく」のではなく、親と教師を分断する主張を積極的に行うようになった。

わずか数年で窪島氏が、障害児教育から何の脈絡も変更もないまま、特別支援教育を賛美し、発達障害、読み書き障害、読み書き困難などを研究していることを「乱発的に発信」して、「変遷」する彼の主張の根本問題と若干の原因について次から述べて行きたい。