2011年5月4日水曜日

はたしてどのような教育が「適切」なのか   島根大学教育学部西信高氏の論文から見えてくる滋賀大学教育学部窪島務氏の「旋回方向」(6)















先生の話も子どもの様子も
   じっくり診る西氏

 西氏は、「発達支援」「教育的援助」等々の用語が飛び交いる、として二つの事例をあげているが、以下小学生の子ども記述を見てみる。

 彼は、
 
 ある小学校で、ADHDと診断されている6年生の子どもを見たことがある。
 個別学習の時間で先生と一対一で、おとなしく椅子に座り、熱心にとりくんでいた。
 先生の話では、診断と同時に処方された薬が効いたものと思われるが、劇的に変化した、ということであった。
 それまでは階上から物を投げるなど粗暴で危険な行動が目立ったという。特に厳しい学習面の遅れは指摘できず、ほぼ年齢相応の学力であるという。
 しかしながら授業が進められる中での受け応えをみると、むしろその遅れを感じた。
 かけ算の九九を唱えることができることをもって「この子はかけ算ができる」と見誤ってしまう例は必ずしも少なくない。このかけ算を理解する段階で足踏みしている子どもでさまざまな「問題」行動を起こしている例を多く見ている。
 聴覚障害児の教育において経験的に言われてきた「9歳のかべ」に通ずるものを感じるが、この壁を乗り越えようとするがうまくいかず、その軋轢あるいはストレスが回りの人的関係の中で一種のゆがんだ形で表現されるのが、つまり「注意欠陥」「多動」等々ではなかろうかとの仮説を持っている。

発達の基礎の上に
 子どもの課題を捉える

 つまり、基礎として発達上のつまづきがあり、二次的・副次的な構造をもってこうした「行動障害」が発現するのではなかろうか、ということである。
 かけ算の意味の理解と手法の習熟は9・10歳の発達の一つ内容をなすものであるが、教科書によってはその教授法に「外延量×倍=外延量」を導入している例もある。
 しかし、「倍は、量と量との関係を表すものですから、2年生、3年生には大変高度な概念です。
 だから、累加という方法で理解させようとするのですが、倍と累加が結びついた形では×1と×0が説明がつきません。
 また整数倍の2倍、3倍、……がわかっても1倍、0倍というのは理解できないものです。(中略) そこで私は内包量×外延量=外延量の立場で指導します。」

人間発達を
みとおした問題意識

 かけ算は高等学校段階の微分・積分に通じる入り口となる内容であり、つまりは青年期の発達を自らのものとする一里塚でもあるがゆえに、どの子どもにおいても非常に高いハードルとなって現れるのである。

と書いているが、ここでも西氏と窪島氏の大きな相違が見られる。
ともかく、西氏は、教育実践の行われている場に足蹴く通い、教育実践と子どもや教育のことをよく診ていることが解る。

教育の全体と部分の統一的研究

 さらに、西氏はよく診た上で

「特に厳しい学習面の遅れは指摘できず、ほぼ年齢相応の学力であるという。しかしながら授業が進められる中での受け応えをみると、むしろその遅れを感じた。」

「かけ算は高等学校段階の微分・積分に通じる入り口となる内容であり、つまりは青年期の発達を自らのものとする一里塚でもあるがゆえに、どの子どもにおいても非常に高いハードルとなって現れるのである。」

などのように、ひとりの子どもの状態を把握しつつも教育全体の課題をも見出している。
 この西氏の教育全体と子どもひとりひとりの両側面から把握し、研究することは、当然といえばそれまでであるが、今日の教育状況から考えてそう簡単ではないことが窺える。
 彼の研究は、極めて実践研究である、と言えるが、今日の教育を語る研究者が机上の空論と共に教育の現実を見ない、「ことば遊び」「いわゆるうけねらい」「笑いとり」「その場しのぎの一時的感動を与える講演方法」などなどに終始していることから考えても、教育実践する人々は、もっと西氏の論拠を知り、その具体的提起に注目すべきである。

曖昧さを貫く発達障害児が
     増えているかどうかの論拠

西氏の診方に対して窪島氏は、滋賀大キッズカレッジ「発達障害教育研究所」で、次のような考えを出している。

 発達障害児が増えているのかどうかという問題に関しては、3つの可能性が考えられる。
 「増えているかどうか」という点では、学校で問題となる子どもとしては確実に増えている。
 しかし、それは、元もとそうした子どもはいたのであって、何らかの事情でその子どもたちの問題が表面化しだしたに過ぎない、という議論もある。

として、三点をあげているが、学校に関わる部分は、

 第二に指摘されるのは、学校における教師の多忙化、教育内容の過密と一貫性のなさによる混乱の結果、子どもたちの落ち着きがなくなり、教師もそれに対応する余裕がなくなっているために、これらの子どもの問題行動が吹き出してきたというものである。

としている。ここでも窪島氏は、
1、「学校における教師の多忙化」の原因とその解明
2、「教育内容の過密と一貫性のなさによる混乱の結果、子どもたちの落ち着き  がなくなり」の責任とその原因と解明
3、「教師もそれに対応する余裕がなくなっている」ことへの方策と対応
を述べるのではなく、「あるがまま」書いているだけで、「発達障害児が増えているのかどうかという問題」に対することを曖昧にしているのである。

 何度もくり返すが、窪島氏の考えがあると推定されるのにそれを書かないで、読み手にその解釈を委ねるという手法が使われている。

適切な教育とはなにかを
  鋭く研究しようとする西氏

 西氏は、窪島氏と違う。                  

 彼は、二つの事例をあげて以下のことを論じる。

 「適切な教育」
など、
「適切」ということばが頻出するが、
しかしはたしてどのような教育が「適切」なのか、
この問題が実は核心部分をなしている。

 「適切」を担保する人的条件の整備拡充ということで、文部科学省は2007年度から通級指導担当教員の増員(全国で250人を上回る規模) や、教員志望の大学生を活用する「支援員」制度を導入するなどの施策を講じる。
 しかしながら、たとえばM市の場合、以前から小・中学校に市の独自予算によって特殊学級介助員、特別支援教育指導員、通級指導教室指導員、就学支援専門相談員を配置している。
 制度的には手厚い施策ではあるが、正規採用の教員のほかに、職種や雇用形態、さらには経験や専門性などにおいても多様な関係者が連携を保ちながら、それぞれの子どものニーズの把握にはじまる具体的な「特別支援」をどのように展開していくのか、実践的な課題はなお多く残されている。
 「適切」ということばの響きは望ましく不可欠ではあるが、
 その具体化には、
 教員免許状を所持することの有無は別として、
確かに高度の専門性が要求されるであろう。

と「適切な教育」の内容を論じ、彼の研究をはじめる決意を示している。
 特に、
「適切」ということばの響きは望ましく不可欠ではあるが、その具体化には、教員免許状を所持することの有無は別として、確かに高度の専門性が要求されるであろう。

という提起は、重要な意味を持っている。
 しかし、西氏の提起は、窪島氏が高度な専門性も制度も文化もまったく異なる国からの導入を論じるのとはまったく違う。

日本での教育創造か
  外国からの輸入を適合させる教育か

 西氏は、
 日本の教育の状態や彼が取り組んでいる地域の教育状況から
 提起しているからである。
 解りやすく書けば、
 窪島氏の主張は、「教育の他国からの輸入」
 であるが、
 西氏は、「教育をさらに日本で創造する」
 主張なのである。