「何らかの脳機能」による達障害、学習障害の考え方はないICFに代表されるように、障害の捉え方として、昔の「病理モデル」や、その論理形式である「基底還元論」への反省(上田,2005)から,生活機能の重視へと変化してきている。
また、参加の重視や環境因子の明記のように、社会的要因を重視するようにもなってきている。
このような変化は、脳機能の何らかの病理という基底に還元する発達障害、学習障害の考え方とは異なっている。
ICF の心身機能・身体構造のレベルにおいて、脳・神経系の障害が評価されるが、その中には「何らかの脳機能」という項目は無い。
評価可能な,具体的な困難が評価の対象項目となっている。
また、当然のことだが、「学習」という機能も「発達」という機能も無い。
ことを明確に分析している。
脳に
「学習野」「発達野」はないのに
さらに、
視覚障害の場合、目という受容器か視神経、視覚野といった中枢神経系が身体構造としては対応している。
運動障害の場合、筋・骨格系、運動野を代表とする脳神経系が対応している。
では、「学習」に対応する身体構造があるだろうか。
「学習野」という中枢神経系の領野はあるだろうか。
どちらも無いのである。
同様に、「発達野」という領野は存在しない。
なぜなら、経験による行動の変化を「学習」と呼び、経験と成熟による変化の過程を「発達」と呼ぶからである。
これらの概念は行動の変化の様相を示す概念であり、もともと機能ではないので、機能の制意味する障害に該当しない。
脳性まひやてんかんなどの総称
として用いられたアメリカの「発達障害」
そもそも、歴史的に、「特異な学習障害」は、さまざまな状態像の総称として提唱された。
「発達障害」も最初、アメリカにおける法律で脳性まひやてんかんなどの総称として用いられた。
我が国の場合、法律の谷間にいた諸々の障害の総称として用いられた。
ちなみに、日本とアメリカで内容が異なる点も留意すべき点である。
もとめられる
「特別ニーズ教育の原点に戻る」
以上のことから久田氏は、
(新たな考え方)
教科学習における特異な困難や対人行動の面での困難は現実に存在する。
それらの困難を示す児童・生徒への支援は、当然ながら特別支援教育の対象である。
それは障害だからという位置づけではなく、特別な教育的ニーズがあるから、特別の支援を行うという、特別ニーズ教育の原点に戻る必要がある。
その際、読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。
という方向性を出している。
読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。
という提起は、「発達障害」を限定的に規定され、教育行政や一部の研究者によって指導されていた
少なくない学校の取り組みに「激震」
を与えることは充分予測される。
「踏み絵」にさせられている
「発達障害や学習障害」の理解
なぜなら、今や「発達障害や学習障害」という広範に広げられ、「発達障害や学習障害」を理解しなければ、普通学校の教師ではない、とさえ断定されることが多くある。
「発達障害や学習障害の理解があるか、どうか」を踏み絵に学校現場では、教師の評価が振り分けられたり、批判されたりして教師間の対立・混乱・沈黙・あきらめがより横行するようになっているからである。
また、意外に知られていないのは、障害児学校で「発達障害や学習障害」の評価と理解をめぐって、教師間での対立が生じていることがある。
その場合の多くは、校長などの管理職によって「発達障害や学習障害」を受けとめるべきだという強行策で事が進められている。
教育として教師間の理解を広める、理解し合うのではなく、「発達障害や学習障害の理解」が「踏み絵」にさせられていることを嘆く多くの報告がある。
久田氏の考えで
予測できる
教育内容の充実と広がり予測できる
しかし教育実践をする学校や学校の教師からすれば、従来の教育実践を踏まえて、久田氏の考えのほうが、形式論議よりも教育内容のさらなる充実がすすめられることは充分予測できる。
久田氏の、
それは障害だからという位置づけではなく、特別な教育的ニーズがあるから、特別の支援を行うという、特別ニーズ教育の原点に戻る必要がある。
その際、読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。
という考えは、教育実践としてもより有効で効果的であり、教師間の一致と連帯も深まるだろう。