2011年5月9日月曜日

滋賀大学教育学部窪島務氏の論拠は破綻





窪島氏の

論拠の破綻









 群馬大学教育学部久田信行氏の「発達障害や学習障害の概念規定は成り立たない」とした論拠に基づき、

「障害だからという位置づけではなく、特別な教育的ニーズがあるから、特別の支援を行うという、特別ニーズ教育の原点に戻る必要がある。その際、読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。」

という論理から滋賀大学教育学部窪島務氏の現在の主張を考えると、窪島氏の行っていることは重大な問題と破綻が浮かび上がってくる。

 窪島氏の過去の文章を読んでいない人は、現在彼は「読み書き障害」の研究者であり、発達障害の研究者である、と思われるだろう。

 だが、そうではない。

場面理解をして
  使い分ける文章を
    比較すると

 彼は、書いていること、またやっていることを「場所」や「対象者」「読み手」によって、まったく異なったことを主張し、彼自身が書いている「新しい問題」を引き起こしている。
 そればかりか、窪島氏は「意図的か」「意図的でないか」は、別にして、西氏や久田氏のように文部科学省の文章を読みこなせてないばかりか、重大な「誤りか」「意図的無視」を引き起こしていることは、間違いないだろう。
 そのためまず、
 以下窪島氏が、1998年に京都市教職員組合の機関紙に掲載された、「教師の指導」の視点から「登校拒否」問題を考えるというテーマの文章の一部を掲載したい。
だだし、参考のためにすでに引用した日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』(2002年12月季刊)、(国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-2010年 )を※印で再掲載する。

窪島氏は、1998年に京都市教職員組合の機関紙に次のようなことを書いている。

子どもの息苦しさを
 責任転化するはじまり

  子どもににとって本当に息苦しいのは、いわば「善意のおせっかい、」「良心的な押しつけ」です。それは、子どもが 拒否できないしつこさ、「正しさ」を持ってせまってくるからです。

 いま、「善意のおせっかい」や「良心的押しつけ」が教育の場で、「子どものため」「発達のため「将来のため」という「教育的配慮」によって行われ、教師もそこから逃れることができなくなっている状況があります。
教師パッシングの中で
  失敗をおそれない
    おおらかな対応を、
       と主張していたが

 確かに、最近、学校たたき、教師パッシングなど本当に理不尽なジャーナリズムの傾向や一部の「進歩的」研究者の無責任な言動が横行し、また何でも責任を学校に押しつける親がふえているという中で、教師が失敗をおそれないおおらかな対応をしにくくなっているのは確かですが、教師が陥りやすい落とし穴をしっかり見据えることが大切です。
 それは、本来の学校の役割、教師の指導の役割を否定することではなく、本来の教師の指導性を正しく発揮するために不可欠のことだからです。

※  身体的不調を訴える不登校・登校拒否児童生徒を前にして,「頑張って登校しなさい」 「登校してくれなければ何もできない」 という
 子どもに対する教師の言動や学校の息苦しさ
に対して教師の人間的感性,感受性がなにゆえ作動しなかったのかということについての説明としては不十分である。なにより,教師がどのように変わりうるのかということについての見通しを示せなかった。( 日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』2002年 )

問題解決には
 つながらない
「教師=敵論」「親=原罪論」
    と主張していたが

  さらに窪島氏は
 そのように考えてくると教師が全面的にカウンセラーの役割をするなどということは本来的に無理なことと言えます。役割(職業的専門性)が違うのです。
 カウンセラーが決して教師になれないのと同じです。(教師が自分の学校を離れ、職場である学校と全く関係なく、学校との関係が全くないクライエントと面談するときにはどうかということはわかりません。それでも難しいと思いますが。)  
 誤解があるといけないので付け加えますと、学校にカウンセラーを導入することは有益であると考えています。 
 但し、本当に有益になるためには二つの条件があります。
 一つは、そうしたカウンセラーの特長を学校がよく理解するということ、
 もう一つはカウンセラーが学校というもの、教師の仕事の全体をよく理解するということです。 
 今これが決定的に不十分であるため、むしろ新たな問題を引き起こし、学校からはカウンセラーなどない方が良いという声も出ているところが多いと聞いています。
 ありうることだと思います。

学校のリストラ、
 教師減らしがすすめられて
   と主張していたが

 学校と教育を個性化するという名目によって、学校のリストラ、教師減らしがすすめられています。
 いまや登校拒否児の進学保障の場となっている高等学校の定時制課程が強引に統廃合をすすめられている現実があります。
 教育に市場原理が持ち込まれ、よい教育を買いたければたくさん金を出せという論理が大手を振っています。 
 勉強ができないのも「個性」であるとあきらめさせられています。
 問題が起きると親と子どもの責任にされたり直接かかわりのある学校や教師の責任にされがち
 です。 
 無責任なジャーナリズムの姿勢も問題です。 
 「教師=敵論」「親=原罪論」ではともに問題解決にはつながりません。 
 教師自らが足もとを率直に見直すとともに、親と教師が協同して教育を変えていく運動を大きくすることが重要です。

※ 滋賀大キッズカレッジのアセスメントでは、音韻意識にも蹟きが認められた。すなわち、ひらがなの読み、書きでも特殊音節で困難が起きる程度の重度の読み書き障害である。対人関係に問題のない学習障害である。
 ところが、そうした保護者に対して、担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度で保護者は相談のしょうがないと考え滋賀大キッズカレッジにたどり着いた。こうした事例が今年に入ってから相次いでいる。 子どもの困難さと保護者の心配に対するこうした
「否認ネグレクト」
は決してまれな例ではないが
虐待の一形態
であるとするなら、子どもの困難と保護者の心配のネグレクトは
まさに虐待
というべきものであり、
子どもの人権の蹂躙に他ならない。
(国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-2010年 )

優柔不断か
      意図的か

 わずか数年で窪島氏が、主張を変えたのは、もともと彼の主張には、優柔不断なところがあったとされる意見もある。

 だが、特別支援教育、発達障害、読み書き障害、読み書き困難などと「変遷」する彼の主張だけに留まらず、教育に重大な悪影響と混乱を引き起こしているので、窪島氏の考えの根本問題を引き起こしている若干の原因について述べて行きたい。