群馬大学教育学部久田信行氏は、「発達障害者とは-特別支援教育の対象者-(2008.2.25第三版)」を公開されているが、その一部を紹介させていただく。
読まれていない最初からの「従来の特殊教育の対象者に加えて」という記述
久田氏は、
特別支援教育の対象者の中核は、「従来の特殊教育の対象者」であったことを、明確に確認する必要があります。
すなわち、視覚障害、聴覚障害、知的障害、肢体不自由、病弱という現在の特別支援学校の主たる対象者、さらには、言語障害、情緒障害その他の従来の特殊学級の対象者がまず特別支援教育の対象者なのです。
それに加えて、どのような子どもたちが加えられたかという論議である訳です。従来の特殊学級の対象児を忘れたかのような「特別支援教育」の論議は、非常に問題が大きかったと思います。
と論じている。
だが少なくない普通学校では、特別支援教育の対象者は、「LD,ADHD,高機能自閉症児」だとされている現実がある。
プロの研究者でも
間違いを生じる答申や報告書
さらに久田氏は、、
では、どの様な対象者を加えるのか
特別な支援を行う対象者をどう定めるか、という問題は、特別支援教育とは何かという問題と深く関わっています。
特別支援教育という概念や考え方の大元を吟味することなく、表面的に答申や報告書を読んでいると、一応プロの研究者でも間違いを生じるのではないでしょうか?
ということを明らかにしている。「表面的に答申や報告書を読んでいると、一応プロの研究者でも間違いを生じるのではないでしょうか?」という意味は重要な意味を持つ。このことは、もともと文部科学省が、「間違いを生じるよう」にしていたともとれる。先に述べておくなら、文部科学省の動きを調べてみるとどうもこの「特別支援教育」や「特別支援学校」などの名称も含めた検討をすすめているようである。
通常の学級にいる
子どもたちを指し
示していた範囲
さらに久田氏は、
「LD,ADHD,高機能自閉症児等」という表現や「軽度発達障害」という用語が指し示していた範囲は、通常の学級にいる子どもたちです。特に知的障害のある子どもたちを除外して、「LD,ADHD,高機能自閉症児等」と言っていた面があります。
明確にそう規定されていた訳ではありませんが、二つの理由から、ある意味では、暗黙にそう受け取られていたのです。
第一に、「LD,ADHD,高機能自閉症児等」の定義で、いずれも脳の機能障害が原因と推定され、かつ、知的障害ではないと規定されていることがあげられます。
第二に、特別支援教育への変革の序章であった「通級学級に関する調査 研究協力者会議」(山口薫 座長)で、明確に知的障害は通級の対象から除外された点があげられます。その際、知的障害のある子どもについては、原則として養護学校か固定式の特殊学級で措置されることになっていたため、その制度を崩さないという考えがベースになって、知的障害は通級の対象から除外され、学習障害は将来の含みを残しながら、ペンディングになったと解釈できます(「通級による指導に関する充実方策について(審議のまとめ) 」平成4年3月30日、1992)。
と述べる。たしかに、「研究協力者会議」の報告を読んでいるとそのように思える。
「学習障害」という表現は
学校教育法にはない
さらに久田氏は、核心を追求した論述をを書いている。
「学校教育法等の一部を改正する法律」が平成18年6月15日に成立しましたが、その中には「LD, ADHD, 高機能自閉症児等」はおろか「学習障害」という表現もありません。「教育上特別の支援を必要とする児童、生徒及び幼児」と書かれており、診断名で規定されてはいないのです。平成18年7月18日の「特別支援教育の推進のための学校教育法等の一部改正について(通知)」においても同様です。
まさにそうである。これらの文章をいくら読んでも「学習障害」という表現は出てこない。
厚生労働省の関係法案・通知に
関連する特別支援教育課の通知
そしてさらに、
平成19年3月15日に文部科学省特別支援教育課は「『発達障害』の用語の使用について」という通知を出しました。
その中で、問題の多かった「軽度発達障害」という用語を用いないだけではなく、今まで多用していた「LD,ADHD,高機能自閉症児等」という表現も原則使わないこととし、代わりに「発達障害」という用語を、発達障害者支援法の規定に基づいて使うと宣言しました。
また、同じ特別支援教育課のホームページには発達障害支援法の「発達障害」の規程が丁寧に書かれています。
要約的に紹介すると、発達障害者支援法の第二条に発達障害者の定義があり、そこには広汎性発達障害(当然、自閉症を含む)と学習障害、注意欠陥多動性障害があげられています。
更に、政令に規定する障害という文言があります。
それを受けて、同施行規則(政令)では、言語の障害と協調運動の障害があげられ、更に厚生労働省令で規定する障害という文言があります。
政令で規定された範囲についても、言語障害や発達性協調運動障害が加わり、特に言語障害は非常に数が多いだけでなく、原因が多岐にわたるため、いろいろな問題が絡んでくることが予測されます。(だからといって、悪いわけではないが)。
その次に、いよいよ厚生労働省令の規程を読んでみると、実に多様な障害があげられています。なんと心理的発達の障害並びに行動及び情緒の障害があげられているのです。
と、久田氏は、文部科学省特別支援教育課は「『発達障害』の用語の使用について」という通知・厚生労働省令の規程などを読んだ上での解説を書いている。
文部科学省の文章は
厚生労働省の文章と連動する
この当然といえば、当然であるが窪島氏は、平成19年3月15日に文部科学省特別支援教育課は「『発達障害』の用語の使用について」という通知を読んでも、文部科学省以外の厚生労働省の関係する発達障害者支援法とその関連する文章を読みこなしていたとは考えにくい。
国・文部科学省・厚生労働省を別の分野として捉えて、考えていたのではないかと考えられる。
ところが、国の動きや文章などは、各省庁の分担と関連で出されることは常識なのであるが、「教育界」の一部では文部科学省だけで考える傾向が強い。
「多忙化」の
内容把握しないままの表現
窪島氏の文章で例をあげてみると、
島根大学教育学部西信高氏の論文から見えてくる滋賀大学教育学部窪島務氏の「旋回方向」(6)で、「学校における教師の多忙化、教育内容の過密と一貫性のなさによる混乱の結果、子どもたちの落ち着きがなくなり、教師もそれに対応する余裕がなくなっているために、これらの子どもの問題行動が吹き出してきたというものである。」と書いていることを紹介した。
ここで彼が書いている「教師の多忙化」ということばは、ある教職員組合が絶えず使っていることばを使ったにすぎず、彼は何の評価もなしに、教師の多忙化、と肯定的に書いている。
しかし、労働を管轄する厚生労働省の文章を見ても、厚生労働省の動きと密接な関連がある「労働安全衛生」の分野でもこのようなことばは、使われていない。
窪島氏が、
「学校における教師の多忙化」
を書くなら、
「いつから学校の教師は多忙になったのか」
「いつ学校の教師は忙しくなかったのか」
を明らかにしなければ教育研究者としての立場で書いているとは考えられないだろう。
ましてや
「学校における教師の多忙化」
が、
「発達障害児が増えているのかどうかという問題に関しては、3つの可能性が考えられる。」
のうちの一つとしているのだから、多忙でなかった学校が、「多忙化」した時期と発達障害児が増えているのかどうかという問題に関する究明しなければならないだろう。
少なくとも具体例で述べた養護学級教師の過労自殺などなどの経過や裁判、判決を目にしていたならば、このようなことを書かないはずである。
働く人々と密接不可分な関係
がある厚生労働省
この厚生労働省との関連で文部科学省が文章を出しているならば、厚生労働省の文章も読みこなさなければならないだろう。
だが、窪島氏は、両方の省の文章を読み込んで「発達障害」を論じているとは考えられない。
なぜなら、彼は、文部科学省の文章に出てくる発達障害者支援法をあげているが、久田氏のように発達障害者支援法関連の厚生労働省令などの障害の規定を読みこなしていれば、縷々引用し
た彼のような「発達障害」の規定が出てこないからである。
厚生労働省と
切り離せらされない
障害児・者問題
もっと分かりやすくいえば、彼は、「発達障害」を他の障害と切り離して書き、「発達障害」を普通校・普通学級のみに限定して書いているところを見れば明らかである。
客観的に各省庁の文章を読み、論述するより、主観から文部科学省の一文章を読んでいることが明らかになる。
読まれていない最初からの「従来の特殊教育の対象者に加えて」という記述
久田氏は、
特別支援教育の対象者に関しては、最初から「従来の特殊教育の対象者に加えて」という記述がありました。「LD,ADHD,高機能自閉症児等」は、対象を広げる際の、例示としてあげられていた訳です。
しかし、「LD,ADHD,高機能自閉症児等」の「等」はアスペルガー症候群だなどという解説がまかり通るなど、解釈は混乱していたと思います。
上記の一群の対象に関する記載なら、本来「等」は、「その他の、特別な支援が必要な幼児・児童・生徒」であるでしょう。
少なくとも、「LD,ADHD」の考え方は、「脳障害児」という1940年代の対象児をルーツにもつ子どもたちですので、「運動機能の特異的発達障害」あるいは「発達性協調運動障害DCD」と呼ばれる不器用なタイプの子どもが、いわゆる脳障害児のタイプとしては抜けていたので、それを入れる方がベターだと考えられます。
高機能自閉症の一部と考えられるアスペルガー症候群(DSM-Ⅳだとアスペルガー障害)を「等」とするのは、論理的に整合性を欠くと思っていました。
そもそも、新たに加えられた子どもたちのイメージが「学習障害等」という所から出発したのは歴史的成り行きですが、学習障害が強調されすぎたきらいはあるでしょう。
「従来の特殊教育の対象者」
に付け加わっただけだがしかし、「LD,ADHD,高機能自閉症児等」の「等」はアスペルガー症候群だなどという解説がまかり通るなど、解釈は混乱していたと思います。
上記の一群の対象に関する記載なら、本来「等」は、「その他の、特別な支援が必要な幼児・児童・生徒」であるでしょう。
少なくとも、「LD,ADHD」の考え方は、「脳障害児」という1940年代の対象児をルーツにもつ子どもたちですので、「運動機能の特異的発達障害」あるいは「発達性協調運動障害DCD」と呼ばれる不器用なタイプの子どもが、いわゆる脳障害児のタイプとしては抜けていたので、それを入れる方がベターだと考えられます。
高機能自閉症の一部と考えられるアスペルガー症候群(DSM-Ⅳだとアスペルガー障害)を「等」とするのは、論理的に整合性を欠くと思っていました。
そもそも、新たに加えられた子どもたちのイメージが「学習障害等」という所から出発したのは歴史的成り行きですが、学習障害が強調されすぎたきらいはあるでしょう。
「従来の特殊教育の対象者」
特別支援教育の対象者の中核は、「従来の特殊教育の対象者」であったことを、明確に確認する必要があります。
すなわち、視覚障害、聴覚障害、知的障害、肢体不自由、病弱という現在の特別支援学校の主たる対象者、さらには、言語障害、情緒障害その他の従来の特殊学級の対象者がまず特別支援教育の対象者なのです。
それに加えて、どのような子どもたちが加えられたかという論議である訳です。従来の特殊学級の対象児を忘れたかのような「特別支援教育」の論議は、非常に問題が大きかったと思います。
と論じている。
だが少なくない普通学校では、特別支援教育の対象者は、「LD,ADHD,高機能自閉症児」だとされている現実がある。
プロの研究者でも
間違いを生じる答申や報告書
さらに久田氏は、、
では、どの様な対象者を加えるのか
特別な支援を行う対象者をどう定めるか、という問題は、特別支援教育とは何かという問題と深く関わっています。
特別支援教育という概念や考え方の大元を吟味することなく、表面的に答申や報告書を読んでいると、一応プロの研究者でも間違いを生じるのではないでしょうか?
ということを明らかにしている。「表面的に答申や報告書を読んでいると、一応プロの研究者でも間違いを生じるのではないでしょうか?」という意味は重要な意味を持つ。このことは、もともと文部科学省が、「間違いを生じるよう」にしていたともとれる。先に述べておくなら、文部科学省の動きを調べてみるとどうもこの「特別支援教育」や「特別支援学校」などの名称も含めた検討をすすめているようである。
通常の学級にいる
子どもたちを指し
示していた範囲
さらに久田氏は、
「LD,ADHD,高機能自閉症児等」という表現や「軽度発達障害」という用語が指し示していた範囲は、通常の学級にいる子どもたちです。特に知的障害のある子どもたちを除外して、「LD,ADHD,高機能自閉症児等」と言っていた面があります。
明確にそう規定されていた訳ではありませんが、二つの理由から、ある意味では、暗黙にそう受け取られていたのです。
第一に、「LD,ADHD,高機能自閉症児等」の定義で、いずれも脳の機能障害が原因と推定され、かつ、知的障害ではないと規定されていることがあげられます。
第二に、特別支援教育への変革の序章であった「通級学級に関する調査 研究協力者会議」(山口薫 座長)で、明確に知的障害は通級の対象から除外された点があげられます。その際、知的障害のある子どもについては、原則として養護学校か固定式の特殊学級で措置されることになっていたため、その制度を崩さないという考えがベースになって、知的障害は通級の対象から除外され、学習障害は将来の含みを残しながら、ペンディングになったと解釈できます(「通級による指導に関する充実方策について(審議のまとめ) 」平成4年3月30日、1992)。
と述べる。たしかに、「研究協力者会議」の報告を読んでいるとそのように思える。
「学習障害」という表現は
学校教育法にはない
さらに久田氏は、核心を追求した論述をを書いている。
「学校教育法等の一部を改正する法律」が平成18年6月15日に成立しましたが、その中には「LD, ADHD, 高機能自閉症児等」はおろか「学習障害」という表現もありません。「教育上特別の支援を必要とする児童、生徒及び幼児」と書かれており、診断名で規定されてはいないのです。平成18年7月18日の「特別支援教育の推進のための学校教育法等の一部改正について(通知)」においても同様です。
まさにそうである。これらの文章をいくら読んでも「学習障害」という表現は出てこない。
厚生労働省の関係法案・通知に
関連する特別支援教育課の通知
そしてさらに、
平成19年3月15日に文部科学省特別支援教育課は「『発達障害』の用語の使用について」という通知を出しました。
その中で、問題の多かった「軽度発達障害」という用語を用いないだけではなく、今まで多用していた「LD,ADHD,高機能自閉症児等」という表現も原則使わないこととし、代わりに「発達障害」という用語を、発達障害者支援法の規定に基づいて使うと宣言しました。
また、同じ特別支援教育課のホームページには発達障害支援法の「発達障害」の規程が丁寧に書かれています。
要約的に紹介すると、発達障害者支援法の第二条に発達障害者の定義があり、そこには広汎性発達障害(当然、自閉症を含む)と学習障害、注意欠陥多動性障害があげられています。
更に、政令に規定する障害という文言があります。
それを受けて、同施行規則(政令)では、言語の障害と協調運動の障害があげられ、更に厚生労働省令で規定する障害という文言があります。
政令で規定された範囲についても、言語障害や発達性協調運動障害が加わり、特に言語障害は非常に数が多いだけでなく、原因が多岐にわたるため、いろいろな問題が絡んでくることが予測されます。(だからといって、悪いわけではないが)。
その次に、いよいよ厚生労働省令の規程を読んでみると、実に多様な障害があげられています。なんと心理的発達の障害並びに行動及び情緒の障害があげられているのです。
と、久田氏は、文部科学省特別支援教育課は「『発達障害』の用語の使用について」という通知・厚生労働省令の規程などを読んだ上での解説を書いている。
文部科学省の文章は
厚生労働省の文章と連動する
この当然といえば、当然であるが窪島氏は、平成19年3月15日に文部科学省特別支援教育課は「『発達障害』の用語の使用について」という通知を読んでも、文部科学省以外の厚生労働省の関係する発達障害者支援法とその関連する文章を読みこなしていたとは考えにくい。
国・文部科学省・厚生労働省を別の分野として捉えて、考えていたのではないかと考えられる。
ところが、国の動きや文章などは、各省庁の分担と関連で出されることは常識なのであるが、「教育界」の一部では文部科学省だけで考える傾向が強い。
「多忙化」の
内容把握しないままの表現
窪島氏の文章で例をあげてみると、
島根大学教育学部西信高氏の論文から見えてくる滋賀大学教育学部窪島務氏の「旋回方向」(6)で、「学校における教師の多忙化、教育内容の過密と一貫性のなさによる混乱の結果、子どもたちの落ち着きがなくなり、教師もそれに対応する余裕がなくなっているために、これらの子どもの問題行動が吹き出してきたというものである。」と書いていることを紹介した。
ここで彼が書いている「教師の多忙化」ということばは、ある教職員組合が絶えず使っていることばを使ったにすぎず、彼は何の評価もなしに、教師の多忙化、と肯定的に書いている。
しかし、労働を管轄する厚生労働省の文章を見ても、厚生労働省の動きと密接な関連がある「労働安全衛生」の分野でもこのようなことばは、使われていない。
窪島氏が、
「学校における教師の多忙化」
を書くなら、
「いつから学校の教師は多忙になったのか」
「いつ学校の教師は忙しくなかったのか」
を明らかにしなければ教育研究者としての立場で書いているとは考えられないだろう。
ましてや
「学校における教師の多忙化」
が、
「発達障害児が増えているのかどうかという問題に関しては、3つの可能性が考えられる。」
のうちの一つとしているのだから、多忙でなかった学校が、「多忙化」した時期と発達障害児が増えているのかどうかという問題に関する究明しなければならないだろう。
少なくとも具体例で述べた養護学級教師の過労自殺などなどの経過や裁判、判決を目にしていたならば、このようなことを書かないはずである。
働く人々と密接不可分な関係
がある厚生労働省
この厚生労働省との関連で文部科学省が文章を出しているならば、厚生労働省の文章も読みこなさなければならないだろう。
だが、窪島氏は、両方の省の文章を読み込んで「発達障害」を論じているとは考えられない。
なぜなら、彼は、文部科学省の文章に出てくる発達障害者支援法をあげているが、久田氏のように発達障害者支援法関連の厚生労働省令などの障害の規定を読みこなしていれば、縷々引用し
た彼のような「発達障害」の規定が出てこないからである。
厚生労働省と
切り離せらされない
障害児・者問題
もっと分かりやすくいえば、彼は、「発達障害」を他の障害と切り離して書き、「発達障害」を普通校・普通学級のみに限定して書いているところを見れば明らかである。
客観的に各省庁の文章を読み、論述するより、主観から文部科学省の一文章を読んでいることが明らかになる。