2011年5月1日日曜日

子どもの協同関係と子どもたちの教育力を否定   教育展望と滋賀大学教育学部窪島務氏の巨像と実像(6)



 窪島氏の主張の特徴は、

3、彼が、子どもたちとか、子ども集団とか、のことにまったく書いていないところに特徴がある。
 これは、彼が、子どもひとりを個別の存在とみて、子どもたちの相互の教育力を見ていないということの現れでもあると言える。
 子どもたちは、生徒であると共にお互いがお互いを教え合い、相互に教育力を高めていく力を有している。
 そして、時には、その力は教える側を凌駕していく。

子ども集団・教師集団
そして学校否定の主張

 学校という基礎単位は、子どもひとりひとりの存在の場であるだけでなく子どもたちの集団形成の場でもあることを窪島氏は何ら触れようともしないのである。
 彼は、子どもたちが教え合い、学び合う、子どもたち自身の教育力を知らないのである。
 同時にその子どもたちに信頼を寄せていないとも言える。
 それは、「滋賀大キッズカレッジ学習室」のボランティア募集にも現れている。
「読み書き障害(学習障害)のある子どもの学習室」は、「学習室への参加希望は多数有りますが、一対一の指導を基本にしているため、多くの子どもたちに待機していただいている状況です。」としているが、読み書き障害のある子どもたち同士の子どもたち自身が教え合う場も考慮に入れるという構想はまったく見られない。
 窪島氏は、
「特別な教育的ニーズを有する多くの子どもが通常学級にいるということである。この異質集団をあるべき学級として理念化したものが, インクルージョン教育,インクルーシブ学級である。」
と書いていることはすでに述べてきた。
 彼は異質集団という異質の規定がないと言うことも指摘したが、
「異質集団をあるべき学級として理念化したものが, インクルージョン教育,インクルーシブ学級である。」
であるとするならば、インクルージョン教育、インクルーシブ学級の典型やパイロット教育を「滋賀大キッズカレッジ学習室」で実践しなければならないはずである。
 だがしかし、「一対一の指導を基本」の実践をするというのである。
 これでは、窪島氏の書いていることは「空理空論」でしかないことを、自ら証左したにすぎないのである。
 彼は、「そのことが直接に一斉授業の否定につながるものではない。一斉授業が悪であるという評価が一斉授業=画一的であるという誤った観念の上に形成されている疑いがある。」と書いていることも紹介してきたが、彼は、「一斉授業」の中での、読み書き障害の子どもの授業を肯定していないのである。
 行為がすべて物語るということは、まさに窪島氏のためにあるのかもしれない。

様変わりしたのか
教育実践総合センター

 滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(2)で、滋賀大学教育実践総合センターの目的として、かって京都新聞の記事にされていたことを紹介した。

滋賀大教育学部は付属の教育実践総合センターが、「ティーチャーズ・オープンキャンパス」構想も掲げ、その第一弾として相談窓口を始めることにした。
 相談窓口の担当で教育実践総合センター長の窪島務教授(教育学)は
「今の教員は研修や会議が多く、忙しい。悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい」
と話している。
 窪島氏の「今の教員は研修や会議が多く、忙しい。悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい」と話してたとされる姿は彼の文章からも今は見られない。 そればかりか、教師を指弾し、苦境に追い込むのはなぜだろうか。
 教職員の労働安全衛生から考えてみると、彼の教師の労働に対する認識の偏向がコメントでも解る。

ILOの「decent work」
The right to decent work of persons with disabilities
解釈できるだろうか

 「研修や会議が多く、忙しい。」「悩みを抱え込む」と言うならば、研究者会議を少なくして、教育実践・教育内容の創造に打ち込めるようにすることを提案するのも教育実践総合センターの役割ではなかったのではないか。
 また、悩みを抱え込む、のではなく、悩みから解放する方途を示すのが、教育実践総合センターとなったはずである。
 ところが現実は、彼は教育委員会や各種官製研修・大学の「出前事業」なるものに積極的に参加し、教師の悩みを上塗りすることを講演している。
 この真逆動きも、窪島氏の方向をも証左している。
 これでは、彼の好んで使う国際動向のひとつであるILOの「decent work」も「The right to decent work of persons with disabilities」も理解できないだろう。

「インクルージョン」「インクルーシブ」は
                集団教育が基礎前提

 彼は、欧米と書いているが例としている国は、イギリス、ドイツ、スウェーデンなどにすぎないことを明らかにしてきた。
 ここで次のことを明らかにしておきたい。
 フランスの山村にある小さな小学校に通う13人の子供たちとひとりの先生のドキュメンタリー映画がフランスで異例の大ヒットした。
 その映画の内容を、ここで紹介するつもりがないが、映画では、3歳から11歳までの子供たちをひとりの先生が教える授業がリアルに観ることが出来る。
 先生は、午前中は、4歳からの一番年少の子供たち。その間、上級生達は自習。先生は、小さな生徒たちに「ママ」のつづり方を教えていく……。
 これは日本の過疎の小さな学校で行われている複式学級での取り組みと同じところがあるが、読み書きを教える時間がゆっくり流れて教えられているばかりか、異年齢集団同士の教え合う姿も映し出されている。
 一斉と個別、同年齢と異年齢、そしてひとつの集団として学校がある。
(これらの学校はフランスに千以上ありその統廃合をめぐって各地で問題になっていることが、映画監督の手記に書いてあった。)
 またイタリアでも同様の小さな学校が多くあり、一斉と個別の授業が巧みに折り合わせながらすすめられている。

スロー教育とインクルーシブ

 1980年代半ば、イタリアにマクドナルドが開店した。
 このことが、ファストフードにイタリアの食文化が食いつぶされる、という危機感を生み、「スローフード」運動がはじまったとされる。
 スローフードとは、その土地の伝統的な食文化や食材を見直す運動、または、その食品自体を指すことば、などとされているが同じような意味で「スロー教育」という考えが出されていることも窪島氏は承知していないのである。
 窪島氏は、窪島氏の意図と合致するイギリス系教育制度やドイツ教育制度のみを紹介・引用するが、彼の書いているような「インクルージョン」「インクルーシブ」などの教育が行われている国を探すことははなはだ困難である。
 それどころか、彼の読み書き障害とする子どもたちが在籍する普通学級での授業では、先生や専門スタッフが個別指導するのはもちろん、子ども同士の教え合い、学び合い、育ち合いを当然のこととして教育の基本に置いているのである。
 「インクルージョン」「インクルーシブ」なる概念は、子ども集団・生徒集団・教師集団・教育に関わる専門家集団の基礎単位を前提に、教育を基本に相互分担・相互連携を前提にしていることは自明のことなのである。

生徒たちの教育課題を
細分化しさらに細分化する

 ドイツの教師が、日本の初等教育を観て、教師が喋ってばかりの授業形態に驚くという報告は、古くから知られてきたことである。
 だが、そのことを明らかにしないで、窪島氏は日本の授業形態を教師だけの責めとしているだけで、自ら研究者としての授業形態の改善方法を提起しないのは、それなりの思いがあるからであろう。
 窪島氏が、不登校の生徒の問題から発達障害へと移行し、そして読み書き障害へと絞り込んでくる過程と共に彼の記述は、子どもたちや子ども集団や教師集団が「解体」されていく。
 そして、さらに彼は、「読み」と「書き」を解体し、「書き」を解体しているのが現在の彼の状態なのである。

はじまりは
      特別支援教育の絶賛から

 窪島氏が、なぜこのような「変遷」をたどったのかを検討してみると次のことからであることが明るみに出る。
 すなわち彼は、

 2007年度より特別支援教育が新しい制度として発足したが、問題が山積している。

 特別支援教育は、もう・聾・養護学校および障害児学級を主体とするこれまでの障害児教育への制度的対応から、主として通常学級に在籍する発達障害(学習障害􀀀 (LD)、注意欠陥・多動性陣容􀀀 (ADHD)、広汎性発達障害􀀀 (PDD)など)を障害児教育の対象に加えることを主眼にいくつかの制度的改変を行った。これは、戦後の障害児教育の歴史の中で初めての大きな制度改変であった。にもかかわらず、文科省、等行政の基本姿勢は、予算も人材も増やさず、既存の障害児教育の財産の「活用」でまかなおうという不合理なものである。
(前述、国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に- 医学評論 2010年7月)

と過去の自らが研究してきた障害児教育を破棄し、「特別支援教育」を絶賛しているところから彼の逆流現象としての「変遷」がはじまる。
 だが、戦後の障害児教育の歴史の中で初めての大きな制度改変であった、書いていることそのものに多くの誤りがある。
 またそのことが、窪島氏の旋回の序章でもある。