学校で日常的に
ことばが行き交う
次に西氏は、「障害の定義と診断」について論じているが、彼が文部科学省等の通達等の引用している部分は、省略して述べる。
西氏氏は、すでにみたように、特殊教育から特別支援教育への転換をもたらす契機の一つに、LDやADHDへの対応があった。
実際、「ADHD」は、学校現場ではごく日常的にこのことばが行き交うほどに急速に普及した用語である。
そして学校において、多動であったり落ち着きがなかったり、あるいはまた行動が粗暴であったりすると、この子どもはADHDではなかろうかと考え、保護者に医療機関の受診を勧め、そして、ADHDなどの診断名がつくとむしろ「やはり…」と納得する、今やそのような例は珍しくない。
学校の状況を把握している西氏
教師の意見を無視する窪島氏
学校の状況を把握している。この点でも、教師が、そのような子どもを放置している、人権蹂躙しているとする窪島氏と対照的な論述をしている。
西氏が
時折、障害児学校の教員から、小・中学校の教員は障害児学校についての理解が乏しいとする批判も聞くが、今後はそれは障害児学校側の努力不足によるのであるという点にむしろ重きが置かれることになる。
また、具体的な授業場面では、一対一かあるいはそれに類似する手厚い教員組織の障害児学校で長年過ごした教員が、一人の担任が複数の障害児と向き合う障害児学級の担任に、あるいは通常学級の担任にいかなる「支援」をおこなうのか。こうした課題がまもなく現実のものとなろうとしているのであるが
と指摘していることはすべに述べた。
だが、窪島氏は、西氏氏の指摘とは真逆に「一対一か」「あるいはそれに類似する手厚い」対応で接した子どもへの「支援」から「通常学級の担任」に「支援」をおこなうのではない。
「批判」を行っているところに彼の特徴があり、教育の現場や教師をより深刻に追い込んでいる。
この点では、窪島氏の「考え」には一貫性が見られる。
発達障害の概念規定に
疑問を発した教師の意見を否定
窪島氏に文部科学省の打ち出してきた「発達障害」の概念に、
「極めて不正確ところがあり、教育をすすめる教師としてはこのような規定の仕方では混乱が生じる。」
という意見を出した教師に
「そんなことはない。文部科学省の概念規定は極めて正確で、LDやADHDの区分は明確である。」
と述べた。
だが、質問した教師は、
「LDやADHDの生徒を教室や学校で教育することを考えると、文部科学省の規定では区別出来ない。文章を読んでもLDやADHDの生徒の状態が、重なり合っている部分も多く、現実に生徒と接していて、文部科学省の区別とは違う状況がある。」と言ったところ、窪島氏は、
「そんなことはない。きちんと区別されている。かってないほど文部科学省は適切な規定を出している。」
と言いきり、その教師と決別状況になった。
そのことを想起して、西氏の論述を読み進めていきたい。
学校の情報提供がなければ
「判断」出来ない基準
西氏は、2003年3月28日の『今後の特別支援教育の在り方について(最終報告)』の、参考資料の3として「定義と判断基準(試案) 等」。高機能自閉症も含めての「定義、判断基準についての留意事項」などを分析・検討して次のように論じている。
この基準をみるとき、はたしてどれほどの医学的知識や技能・技術が必要であるのか。否、むしろ学校からの情報提供がなければ「判断」がつかない性質のものも多数である。
そして、これらの「基準に該当する場合は、教育的、心理学的、医学的な観点からの詳細な調査が必要である」とされる。
列挙して記述する順番に過度に拘泥することもないが、ここでの順番は、
まず「教育」、となっている。
として、養護学校の義務制実施を控えた前年、1978年(昭和53年) 10月6日付けの文部省初等中等教育局長通達「教育上特別な取り扱いを要する児童・生徒の教育措置について」(分初特第309号)では、本文冒頭に以下のような記述がある。
第1 教育上特別な取り扱いを要する児童・生徒の教育措置及び心身の故障の判断に当たっての留意事項
教育上特別な取り扱いを要する児童・生徒の教育措置及び心身の故障の判断に当たっての留意事項は、次に掲げるところによることとし、特に心身の故障の判断に当たっては、医学的、心理学的、教育的な観点から総合的かつ慎重に行い、その適正を期すること
このように、最近に至るまで医学が筆頭に配置され、教育は最後尾に位置していたのである。
と1978年文部省初等中等教育局長通達と比較・検討する。この点では繰り返し述べてきたが、窪島氏も1978年当時は障害児教育としてさかんに研究していたのに、西氏のように比較検討しないところ、比較しないところに特徴がある。
揺れ動く特別支援の用語
西氏氏は、
「教育『学』的」となっていない点は教育学がいまだそのレベルにまで達していないという評価の反映であろうが、いずれにせよとりあえずは、むしろ最近注目されているADHD等は教育が一層の重責を担うべき障害であることを示していると理解できる。
しかしながら、「特別支援」もそうであったが、これらの用語に関してはいまだ流動的な点が多い。
2007年(平成19年) 3月15日付け文部科学省初等中等教育局特別支援教育課の文書「『発達障害』の用語の使用について」において、以下のように述べられている。
今般、当課においては、これまでの『LD、ADHD、高機能自閉症等』との表記について、国民のわかりやすさや、他省庁との連携のしやすさ等の理由から、下記のとおり整理した上で、発達障害者支援法の定義による『発達障害』との表記に換えることとしましたのでお知らせします。
記
1. 今後、当課の文書で使用する用語については、原則として「発達障害」と表記する。
また、その用語の示す障害の範囲は、発達障害者支援法の定義による。
2. 上記1の「発達障害」の範囲は、以前から「LD、ADHD、高機能自閉症等」と表現していた障害の範囲と比較すると、高機能のみならず自閉症全般を含むなどより広いものとなるが、高機能以外の自閉症者については、以前から、また今後とも特別支援教育の対象であることに変化はない。
3. 上記により「発達障害」のある幼児児童生徒は、通常の学級以外にも在籍することとなるが、当該幼児児童生徒が、どの学校種、学級に就学すべきかについては、法令に基づき適切に判断されるべきものである。
4. 「軽度発達障害」の表記は、その意味する範囲が必ずしも明確ではないこと等の理由から、今後当課においては原則として使用しない。
5. 学術的な発達障害と行政政策上の発達障害とは一致しない。また、調査の対象など正確さが求められる場合には、必要に応じて障害種を列記することなどを妨げるものではない。
「一省の一課」の「一片の文書」
が日本の教育を統制
この部分は、窪島氏がさかんに引用する文部科学省の文章であるが、西氏の意見は窪島氏と異なり、次のように問題点を述べる。
政府の一省の一課が特に第4項や第5項のような内容を一片の文書で処理することに奇異な印象を持つ。
因みにここで触れられている発達障害者支援法などの定義を挙げておく。
○発達障害者支援法(2004年-平成16年12月10日法律第167号) (抄)
(定義)
第2条この法律において「発達障害」とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう。
( 以下略 )
まさに西氏は、「奇異な印象」と述べているが、この議員立法でつくられた「発達障害者支援法」は、問題が多すぎる。
窪島氏は、「発達障害」の文部科学省の規定を全面肯定する以前に、発達について随所で発表し、文章も書いている。
窪島氏は、「発達障害」の文部科学省の規定を全面肯定する以前に、発達について随所で発表し、文章も書いている。
その中には、「発達障害」とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害という限定は見受けられない。
それどころか、発達はすべての人間が関わることであり、障害児はその発達の中でどのような課題を持っているかを書いてもいた。
それなのに、発達に障害があることを限定することに肯定しているのは、それまでの窪島氏の研究を否定したことにも繋がるのではないか。
かれは、これら自らの変遷を明らかにしようともしないでいる。
それどころか、発達はすべての人間が関わることであり、障害児はその発達の中でどのような課題を持っているかを書いてもいた。
それなのに、発達に障害があることを限定することに肯定しているのは、それまでの窪島氏の研究を否定したことにも繋がるのではないか。
かれは、これら自らの変遷を明らかにしようともしないでいる。
日本の国会で、議員の発案に基づく議員立法と政府提案立法の両者があるが、発達障害者支援法は極めて政治的意図のもとに成立した法律であることは知られている。
愛知教育大学の都築繁幸氏が、「一連の教育改革は、政府の財政改革の一環であり、政治主導によってなされた。」とする根拠もここにもある。