2011年5月18日水曜日

滋賀大学教育学部窪島務氏の曲学阿世























 このブログの冒頭部門で次のことを書いた。

主語を「曖昧」にすることは、彼への批判や彼の主張の一貫性のなさを「曖昧」にすることとして書かれたとするならば、窪島務氏の述べている論旨はmaneuverであるとしか考えられない。
 maneuverでないとするならば、「単なる予算獲得の手法としてだけでなく,真剣に教育現場が求めているものに応えようとして」という予算獲得の手段に批判的であった彼が、文部科学省などが打ち出した障害児学校の統廃合をすすめ予算削減のために意図的に出してきた「特別支援教育」を歓迎し、極めて政治的な判断の下で打ち出したいわゆる「発達障害の概念」を評価し、それを裏打ちする研究なるものを旺盛に行っていることをあまねく公表するはずがない。
と。

約40年間にわたる窪島氏の書いた文章を通読するとそのことが良くわかる。

子どもたちや
教育は「物」でない

  問題なのは、彼自身が自らの考えが「変遷」したことを明らかにしない事にあるのではない。
 彼が意図的に、
文部科学省などが打ち出した障害児学校の統廃合をすすめ予算削減のために意図的に出してきた「特別支援教育」を歓迎し、極めて政治的な判断の下で打ち出したいわゆる「発達障害の概念」を評価し、それを裏打ちする研究なるものを旺盛に行っている。
ことを、永く障害児教育実践をすすめていたベテランの教師ではなく、それらの経過を知らない研究者や保護者や教師や市民に広めていることである。
 それは、窪島氏の弱点を新たな装飾で凝らし、新しい教育、今まで取り組まれていなかった子どもたちの教育などなどという主張を急激に広げていることである。

スクラップ・アンド・ビルド

 窪島氏の手法はスクラップ・アンド・ビルにあるが、教育や子どもたちは物ではない。
 壊して作ることは出来ないのである。その点で、窪島氏の行為は教育に重大な「損傷」を与えるとも言える。
 だから放置できないのである。

 レッドカードを出した
「書けない」子どもたち
 と断定する根本的誤り

 その典型が、読み書き障害の子どもたちを「書けない」子どもたち、としている事から見ても明らかである。
 窪島氏は自らレッドカードを出しながら、出場している。
 彼が、読み書き困難、読み書き障害という表現を使い、「思考と言語」とか「教育と言語」などの言語やコミュケーション、はなしことばとかきことば、という従来彼が使っていた用語をと使わなくなったこと。
 読み、書き、と分解して、書きを問題にして、書きすなわち文字の分解をする手法を展開していることは、少なくない教育委員会から歓迎されている。
 それは、窪島氏の主観的意図とは別にして、政財界の求める波に呑み込まれているからである。

 「合校論」に
「教育とは一つの統治行為」

 すでに述べた「合校論」には、

 ところで、広義の教育、すなわち人材育成にかかわる国家の機能には、質的に異なるいくつかの側面があることに注意しなければならない。
 第一に忘れてはならないのは、国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。国民を統合し、その利害を調停し、社会の安寧を維持する義務のある国家は、まさにそのことのゆえに国民に対して一定限度の共通の知識、あるいは認識能力を持つことを要求する権利を持つ。
 共通の言葉や文字に対して、国家は民主的な統治に参加する道を用意することはできない。
 また、最低限度の計算能力のない国民の利益の公正を保障し、詐欺やその他の犯罪から守ることは困難である。
 合理的思考力の欠如した国民に対して、暴力や抑圧によらない治安を供与することは不可能である。
 そうした点から考えると、教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つと考えられる。
  義務教育という言葉が成立して久しいが、この言葉が言外に指しているのは、納税や遵法の義務と並んで、国民が一定の認識能力を身につけることが国家への義務であるということにほかならない。

教育に警察や
司法機関など
   の権能を、と

  国家統制としての教育にとって、「共通の言葉や文字」「最低限度の計算能力」が必要であり、そのためには、「教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つ」ようにし、義務教育では、「納税や遵法の義務」とともに「国民が一定の認識能力を身につける義務」が必要であるとしている。
  国家統制をすすめるうえで、読み書き困難は、「共通の言葉や文字」を持たないことになるため、それに取り組んでいる窪島氏は注目されることになるのである。
 この「合校論」が、学習指導要領等に具体化されている事を研究していない窪島氏は、このように書くと、きっと「ノー」と言うだろう。
 だが、彼の「読み書き困難」「読み書き障害」のとりあげ方には、教育目標が一切書かれていない。
 誰のための、何のためのなどはもちろん、「主語」を抜いて「読み書き困難」「読み書き障害」だけを主張しているので、どうにでも利用されるのである。
   しかも、彼の主張は、国家統制下(学習指導要領等)の「読み」と「書き」を基準に「困難」「障害」としているため、さらに歓迎されるようになっている。

いとも簡単に
政府の提起に従う傾向は……

 そのため窪島氏は、島根大学教育学部の西氏の論述で、

 しかしながら、「特別支援」ということばをかぶせることの合理性と科学性については、それなりに慎重な検討が不可欠と考えられる。
 さらにまた障害児学級の廃止についても、実際に現に実践を進めているその担任が反対を唱える動きも、一部には見られたものの必ずしも全国的なうねりとなったわけでもない。
 このように、いわばこれまでの障害児教育の蓄積を十分に吟味する暇もなく精算し、いとも簡単に政府の提起に従う傾向について、個人的には全体主義の復活を思わせるようなある種の恐怖心を感じている。

と、書かれている
「 いとも簡単に政府の提起に従う傾向について、個人的には全体主義の復活を思わせるようなある種の恐怖心を感じている。」
は、同意出来ないだろう。

全体主義の中の個人

 ちなみに、全体主義とは、「個」に対する「全体」(国家,民族,階級など)の優位を徹底的に追求しようとする思想・運動・体制をいいい、この言葉の起源は,イタリアのファシズムの最高指導者ムッソリーニが、運動の目標として1924年ころから掲げた「全体主義国家」の概念とされている。
 また、全体主義という表現がファシズムに対する弾劾の言葉として初めて表現されたのは、1929年11月2日の「タイムズ・ロンドン」とされている。
 窪島氏は、自分こそ子どもたち個々のニーズを主張しているではないかというかもしれない。
 しかし、その個々は国家統制の個々であるとなれば、子どもたち個々のニーズは「国の枠の中」でのニーズでしかないことになる。
 窪島氏の文章には、学習指導要領における国語等の読み書き指導の非科学性や問題・改善・改変がしばしば書かれ、学習困難・読み書き障害を明らかにしつつ、学習困難・読み書き障害生徒のためのサポート方向が記述されていない。