2011年5月4日水曜日

配慮のないIQの具体的公表  島根大学教育学部西信高氏の論文から見えてくる滋賀大学教育学部窪島務氏の「旋回方向」(4)

明らかでない
  特別支援教育への変更




 西氏は、
  中央教育審議会の答申『特別支援教育を推進するための制度の在り方について』(2005年・平成17年12月8日)、学校教育法等の一部を改正する法律(平成18年法律第80号)」が2006年(平成18年)6月21日に公布され、2007年度当初(平成19年4月1日)、公布直後の事務次官通達(2007年7月18日付け、18文科初第446号)、参議院文教科学委員会及び衆議院文部科学委員会の議録などなどを詳細に熟読し、分析・研究して以下のようにのべている。

 以上をみる限り、特殊教育がなぜ特別支援教育に変更されなくてはならないのか、必ずしも明確には示されていない。
 単純な疑問として言えば、たとえば不登校の子どもについても、当然特別な教育的支援が必要となることは誰しも認めるであろう。
 であるならば、全国に13万人もいるとされるそのような子どもたちも特別支援教育の対象となるのかどうか。
 「学力テスト」の実施が最近では大きな問題となっているが、そこで望ましい結果に到達していなかった子どもたちの教育的ニーズに応える特別支援教育は必要とならないのか。
 障害児もその障害に応ずる形での特別な支援が必要であるが、他方、障害児でない場合にあってもまさに個々のニーズに応じての特別な支援が必要となるのであり、いずれの場合においても素直に考えるならば当然「特別支援教育」となるであろう。
という問題を提示している。
 この点では、窪島氏が、それまで研究対象としてきた「不登校の子どもについても、当然特別な教育的支援が必要となることは誰しも認めるであろう。」という問題を曖昧にしているのとは違い、西氏は、鮮明にしている。

軍事目的で開発された
         知能検査が

 さらに彼は、ソビエト教育学の論争を例に次のような論点を明らかにしている。
 なお、知能テストは、最近では「発達テスト」と呼ばれることが多いのであるが、もともと知能テストは第一次世界大戦を契機に世界中に広まったものである。
 それは、「徴兵検査」において多数の者を時間をかけずにその能力を測るという要請に応えるものとして採用されたのである。
 つまり、能力により、軍隊内で配属部署を振り分ける効率的方法として用いられたのである。
 その過程においては、当然個々人の生育歴や嗜好、興味・関心といった諸特性は無視されたのである。
 そうした相対的評価による振り分け、という知能テストの用いられ方に対する反省から、まさに「子ども一人ひとりの教育的ニーズ」を把握するための一助として活用しようとする姿勢を示すために、その内容や実施方法は同じであっても「知能テスト」ではなく「発達テスト」と言い換えてきているのである。

子どもの発達の源泉と
       教育の役割の相違

 そしてさらに、

 1956年にコスチュークが「子どもの教育と発達との相互関係について」という論文を『ソビエト教育学』に発表した。
 その後、1958年のザンコフの総括論文「教育と発達の問題について」に至るまで、誌上討論が展開された。コスチュークはまず、どのような環境の下でどのような教育が行われるのか、このことが子どもの発達において決定的・主導的役割を果たすことを確認する。
 しかしながら、子どもの発達は環境や教育から直接的に導き出されるのではない、それらは子どもの発達の源泉であって、発達を生みだす原動力となるものはそうした外的条件と子どもの間に生じる内的矛盾である、とした。
 そのような内的矛盾から生じる子どもの自発的・主体的な自己運動を、引き出し、方向づけ、開花させるのが、つまり教育の仕事であるということになる。


「子どもの発達の源泉であって、発達を生みだす原動力となるものはそうした外的条件と子どもの間に生じる内的矛盾である」
「そのような内的矛盾から生じる子どもの自発的・主体的な自己運動を、引き出し、方向づけ、開花させるのが、つまり教育の仕事である」
と論じている。
 この点で窪島氏が『「教育実践学の再構築と しての臨床教育学「特別ニーズ教育」の観点から』で書いていることと大きく異なる。
 もともと窪島氏は、教育とはなにか、教育の役割とはなにかを明確に書いていないことは先に述べてきた。

子どもの教育を考えない
         「自己肯定感」

 しかし窪島氏は、

川合が,発達の原動力すなわち「欲求,要求の成立」を「内的条件と環境との間の矛盾等の内部への転化」 と見ていることである。 これを外的矛盾の内在化論いわゆる内化理論として外在化理論に対置して批判するのは早計に過ぎるであろう。この転化の次元が教育実践にとって重要な意味を持っていることは疑いないのである。

 問題(ニーズ)に即するとは,教育の場における教師と子どもとの実践的関わりにおいて,子どもの人格発達を子どもの内面からとらえていく視点に他ならないと筆者は考えている。

 教育学において臨床が強調される所以は個々の子どもの自由と安心や信頼に基づく自己意識,自尊感情,自己肯定感などとして語られるその基盤(深層といってもいい)への着目である。

 として、「子どもの自発的・主体的な自己運動を、引き出し、方向づけ、開花させるのが、教育の仕事」ではなく、

 教育実践は未来志向的な構えを相対化して, 子どもの今を肯定し, 安心と自分自身と他者に対する信頼を再構築しなければならない。

と子どもの肯定感だけを強調し、子どもの発達のための教育の役割を肯定していないのである。

配慮のない
   IQの数値の具体明示

 さらに窪島氏は、西氏が述べる知能検査による知能知数を具体的にあげて例示する。
 窪島氏は、「事例 アスペルガー症候群と書字困難の併存」( 国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に- )として、初診時小学校2年女をとりあげ、その家族関係、医師の診断などを具体的に書き、IQの数値を2年、4年と具体的に書いている。
 そして最近の様子を具体的に書いているが、この事例でなぜ、IQの数値具体的に書く必要があるのか理解できない。彼は他のところでもIQOOOだが…と具体的数値を書いている。
 このように彼は、IQの数値に依存しているが、IQの数値に対する彼の評価はまったく書かれていない。
 それにもかかわらず、子どもたちのIQを具体的に書く。そこには、検査対象となった子どもへの配慮があるとは思えないのである。
 かって彼は、西氏のいう「発達テスト」や「発達診断」などを教育の場ですることを批判していた。
  窪島氏は、これらの検査はあくまでも「手がかり」であり、教育はこれらを参考にするけれど、教育そのものではないし、教育に含まれるものではない、と言うのが論旨だった。
だが、彼はIQをさかんに採り入れてきているのが最近の状況であり、彼の書いている文章にしばしば登場する。
 教育の場では、対象となる生徒への配慮から教師はその生徒が特定できる記述は書かない。ましてや成績が、○○であったと具体的に書かない。だが、窪島氏は、平然と具体的数値を「公表」している。
 
子どものすすむ方向が
     曖昧になる「特別支援」

西氏は、さらに次のように論じている。

 特別支援というとき、「支援」からはたしかに主体が子どもにあることが想起できるのであるが、これだけでは子どもがどの方向に進もうとするのかが曖昧になる。
 そして、先にみたように、最近では「自立」がその目指す方向として強く打ち出されているのである。
 したがって、「自立」について明確な規定が求められるのであるが、現状として感じるのは「自立」を職業的社会的自立と捉える傾向が一般的となっている。
 であるならば、障害の極めて重い障害者はそのような自立は見込めないため、その存在意義はどうなるのかといった問題も出てくる。
 さらに、その「自立」は健常児の教育においても同様に高く掲げられている目的であるのかどうか。

「職業的社会的自立」
      のための「特別支援」か

 そのように考えると、「自立」は、障害者と健常者の共通性よりも異質性を際立たせる内容といわざるを得ない。
 そのことは、同時に、「支援」というとき、むしろ障害に着目し、障害から教育内容や方法を導き出そうとする傾向が強くなることも示しているのであり、それを実感する場面も多く経験しているところである。
 本来的には教育に携わる者として、どのような人間に育てようとするのかその方向性を確固として堅持しておかなければならないものであるが、それよりも障害から教育課題を導き出す傾向が強いと言えよう。

と、西氏は、教育目標や教育から「特別支援」を考え、さらに「自立」との関係で、「支援」が関わってくることを鋭く分析している。
 このことについては、河野勝行氏が、WHOの新「国際障害分類」(『ICIDH-2』ならびに『ICF』)を読む―先学に導びかれての学習ノート(文理閣:2002年8月)で詳しく分析している。