2011年5月19日木曜日

言語の基本的知識と滋賀大学教育学部窪島務氏
















 窪島氏の文章は、日本の文章として成立していないばかりか、立証もないまま、曖昧表現で「読み書き障害」や「読み書き困難」などなどの「言葉」を使っていることをしばしば指摘してきたが、それがあまりにも多すぎる。
  例にあげるまでもなく、
「読み書き障害」・「読み書き困難」
という表現は異なった意味合いを持ってくる。
 これらの事も踏まえず書き続けている。

大学教授として
社会的責任が問われる

 さらに、窪島氏の言う「読み」「書き」とはどのようなことを言うのかが疑問になる事も書いてきた。
 彼は、読み書きの「正しい、正しくない、」「エラー」「錯」の基準を何ら明らかにしていないことを述べてきた。
  教育行政の後押しや学校管理職の要請に応じて、この不明確な考えの基に子どもたちの「読み・書き」を述べたことに対して、教育学部教授という立場から、過去・現在・未来への社会的責任をとらなければならないだろう。

基礎研究が
 ないままの「研究」 

 窪島氏らは、「滋賀大学教育学部紀要 教育科学 No. 59 2009」「通常学級の子どもたちと読み書き困難児のカタカナ書字習得状況」( 野口法子・窪島務 )で次のようなことを書いている。

 日本語の語彙は約230,000 語あり、ドイツ語(約185,000 語)やフランス語(約100,000 語)の語彙に比べてかなり多く、外来語が多いのがその理由である。
 明治・大正・昭和で積極的に外来語を取り入れ、近年では、新聞・雑誌・テレビ・ラジオは言うでもなくあらゆるところでカタカナ語が氾濫している。子どもたちは、こういった環境の中で意識することなく、カタカナ語に接する機会を多く持つことになる。

基礎教養が疑われる

 まず、語彙数の引用がされているが、語彙の規定をしないとその数は大きく異なってくる。
  このことを詳しく論じないが、日本語の語彙は約230,000 語とする説に対するまったく異なった諸説があることを調べたうえで、語彙数に対って述べられていない点をあげておく。
 日本語の語彙の語彙をどう考えるかで、語彙数が大幅に変わるからである。
 研究する場合は、基礎研究をした上で、自分たちの評価を研究をすすめないと研究として成り立たないという「研究の常識的前提」が欠如しているのは明確だろう。このことは、引用文献が少なすぎると言っているのではない。言語は、容易に全容を把握できないほど歴史的に変容してきているから、より慎重で深い基礎研究が必要になるからである。
 基礎研究を充分しないで「論じている」こと。
 この段階からすでにその内容は、恣意的な解釈となり、「カタカナ書字習得」というテーマが成立しなくなる。
 日本語は、ドイツ語やフランス語の語彙に比べて外来語が多い、と断定している事についても文章の常識的教養が疑われる。

日本
単一民族説を肯定か

 ドイツ語もフランス語もヨーロッパ大陸の中ではぐくまれてきたものであり、様々な民族の言語と交流されて形成されたことは、常識である。
 言語は、他民族の言語と混合・合成・融合されて成立するものであり、他民族の言語の影響を受けず、一民族が一言語だけを形成してきた歴史はない。
 教育者としては、むしろ、日本で意識的に単一民族説を唱えて、少数民族であるアイヌ民族や他民族を排除してきた歴史を想起しておかなければならない。
 「外来語」とは、
 通常外国語を日本語に用いるようになった語のことを指すが、狭義では、漢語を除くととして使われる場合がある。
 ことの「言葉」の意味を踏まえていないでいることは、この文章では、明らかである。

最初から
自滅している「研究」

 ドイツ語の「外来語」。フランス語の「外来語」。このような概念は、成立しない。
 もしも窪島氏らが言う、現在の「ドイツ国内」で使われているドイツ語の外来語というならば、スイスの共通語やオーストリアで使われているドイツ語は、どうなるのであろうか。
 カタカナ問題を書くために、民族や国が絶えず入れ替わり、言語が交差したヨーロッパなどの地域と語彙を比較すること自体無意味なことである。
  だが、書いている。
 そのため「通常学級の子どもたちと読み書き困難児のカタカナ書字習得状況」というテーマそのものは最初から自滅しているのである。
 そして、文章は、参考文献にあげている書物が充分読めていないか、自分たちの結論を導き出すために「不都合な部分」を意図的に排除しているとしか思えない。

書いた文章を
通読していない現れ

 さらにひどいことには、先にあげた文章以降に
「日本語の書き言葉の歴史は、奈良時代に他国の文字である漢字で書き表そうとしたことに始まる」
と書かれていることである。
 このことの評価は別途明らかにするが、では、
「明治・大正・昭和で積極的に外来語を取り入れ」
という記述との矛盾を、どう説明するのだろうか。
 和語・倭語・大和言葉などの表現は、必ずしも適切だと思わないが、日本語は「日本列島」に先進文化・先進技術を持ち込んだ渡来人を抜きにして考えることは出来ない。
 窪島氏は、他の文章でも、漢字を中国から伝播されたとだけ書き、渡来人の朝鮮民族の多大な日本への貢献を無視している。
 それは、なぜか歴史教科書をめぐる日本国内はもちろん、北朝鮮・韓国からの文部科学省への批判を「擁護」しているようにしか受けとめられない文章になっている。
 窪島氏らのすすめようとするカタカナの書き研究のために、歴史的考察が充分研究できていなかったらそのことを省いて、考察することも可能である。
 だが、窪島氏らは、そうはしない。
 「異質」「困難」を強調するためにあえて、それを強調するために「都合の良い部分」だけ、文献から引用しているとしか考えられない。
 
外来語。
 日本では外来語を文部科学省など日本の政府やマスコミなどが、「カタカナ」で表記するようになったのは、日本の歴史上ごくごく最近のことである。また、このことをめぐる日本政府への批判は数え切れない程ある。

外来語を
日本語訳してきた人々
 への敬意もない

 窪島氏が教えを受け、共同研究者でもあった田中昌人氏が、
 
 「発達」という用語

 が、外来語であることを明らかにするために多大の努力をされたこと。
 また、なぜそこまで研究しなければならなかったのか。
 窪島氏は、理解しようともしないし、承知もしていななかったことも解ってくる。
 付記するならば、野口法子氏が教えている「健康」という用語も外来語である。解体新書での訳語問題など知るよしもないだろう。
 近年、特に、外来語を、カタカナ表記で安易にすまして日本語訳しない日本の現状を、窪島・野口氏は憂うことなく、先人たちの外来語の日本語訳の努力に敬意を表しようともしない。

蘭学・洋学における発達の概念の導入について

(参考)
☆田中昌人,日本における発達の概念の導入について:Perry.M.C.;Harris.T;Alcock.R.の場合,京都大学教育学部紀要,37,46-75,1991 ☆田中昌人,蘭学における発達の概念の導入について:堀内寛『幼幼精義』(1843・天保14年
  開雕)まで,京都大学教育学部紀要,39,182-217,1992 ☆田中昌人,蘭学における発達の概念の導入について――堀内寛「幼幼精義1843・天保14
 年開彫まで――,京都大学教育学部紀要,39,1993,○
☆田中昌人,蘭学における発達の概念の導入について(2):Pompevan Meerdervoort,J.L.C.
 による西洋医学教育の実施前まで,京都大学教育学部紀要,40,12-46,1994
☆田中昌人,蘭学における発達の概念の導入について 2 ――Pompe van Meerdervoort
 J.L.C.による西洋医学教育の実施前まで――,京都大学教育学部紀要,40,1994,○
田中昌人,蘭学における発達の概念の導入について(3):内田正雄『和蘭學制』(1869・明治
 2年)まで,京都大学教育学部紀要,41,1-34,1995
田中昌人他,発達について――準備委員会企画対論(日本教育心理学会第36回総会概
 要),教育心理学年報,34,1995
☆田中昌人,蘭学における発達の概念の導入について 3――内田正雄『和蘭学制』 1869・
 明治2まで――,京都大学教育学部紀要,41,1995,○