さらに窪島氏らは、次のようなことを書いている。
また、1956 年の国立国語研究所の調査では、以下のことが分かったと述べている。それは、カタカナ表記をされるべき語の表音法が身につきにくいこと、長音を書き表す際の抵抗が、平仮名における長音の書き表し方とカタカナの場合との相違によるものであることが察せられること、カタカナ文字力の問題は、書字力ことに、促音・拗音・長音を含む語の書字力にあることである。今も同じことがみられ、拗音などの特殊音節の習得に時間がかかる。その理由として、平仮名と同じく特殊音節は文法的要素が入り込んでくるため、それを使いこなし慣れるためには清音よりも時間を要することが挙げられる。
読み書き困難児においてカタカナ1文字の書字が、当該学年に及ばないことは、漢字・平仮名と同様に詳細な研究が必要である。本研究では実態のみが把握できた段階であり、詳細は今後の課題である。
協力してくれた
子どもたちに生きる研究
この文章の引用は、文字表記と音声言語についての基礎知識、子どもの発達と言葉の獲得、言葉から文字表記に移行する発達段階の考慮に対する基礎知識に対する問題を感じさせられる。
そのような文章では、調査対象の子どもの年齢や発達状況を考慮しない自己完結の調査としか映らなくなるし、自分たちのただ単なる興味本位での調査はないかと思わさせれる。
さらに、調査に協力した子どもたちの気持や調査を教育に還元する事などまで不安に駆られる。
はなしことばを
獲得する段階の
子どもたち
日本では、九九を子どもたちが覚えるようにしているが、
九九を覚えられない、
覚えることの困難さ、
が生じるのは、九九の「読み」「発語」にあることは古くから知られている。
また、1956 年の国立国語研究所の調査をあげるまでもなく、
「位相語」
の問題は、教育のみならず論じられてきたことを窪島氏ら承知していないのだろうか。
単純化して
言い切る危険
日本語の書き言葉の歴史は、奈良時代に他国の文字である漢字で書き表そうとしたことに始まるが、中国語(孤立語)と日本語(膠着語)は体系の異なる言語であるため、中国語にはない助詞や助動詞、敬語表現などを表すために、漢字の特徴である表意性を削ぎ落とし、音としてだけ使う「万葉仮名」という漢字の新たな使用法が生まれた。
その万葉仮名の一部分を書いたものがカタカナである。
そして、現在のカタカナのもとになった万葉仮名は「表-8」に示した通りである。
平仮名も万葉仮名から作られたものであるが、カタカナが万葉仮名の部分を取ったのに対し、平仮名は、文字を連続体ととらえ、全体を崩したものである。
カタカナは、万葉仮名の一部を取って発生したものであり、形はより漢字に近いという漢字的要因を持つとともに、1文字では意味をなさず音的な要素としての平仮名的要因をも併せ持っている。
実に単純な日本語と漢字・平仮名(ひらがな)・片仮名(カタカナ)の歴史的記述である。
この考え方なら、窪島氏らは奈良時代に書かれた漢字以外の文書を読むことが出来るということになる。
はたして、これらの文書を見たことやそのママの文献を読んだのであろうか。
はなはだ疑問である。
彼らの居住区から考えても、奈良の正倉院の文書等を見るまでもなく、奈良時代以前、奈良以降の様々な古文書の「実物」は容易に観ることも出来るし、大学図書館にそれらの資料も豊富にある。
関西は、これらの事を知る上で非常に有利な地域である。
甲骨文字の研究も資料も多くある。
少なくとも、漢字・平仮名(ひらがな)・片仮名(カタカナ)の歴史的記述を書くならば、これらの文字を見る必要はあるのではないだろうか。
ここではふれないが、文字は何によって、何に、どのように書かれたのかを注目すると、「認知」問題も明るみに出る。
一文字一文字が、ひとつひとつ書かれているのか。連なって書かれているのか。書き文字は多種多様、変幻自在に描かれているものを見ると、人間の持つ機能にフィットした書き方が解ったりする。
活字化以前の文字は、現在の私たちに多くのことを包括して伝えてくれる事が多い。
「はなしことば」
と
「かきことば」の空間
音としてだけ使う「万葉仮名」という漢字の新たな使用法が生まれた。
と書かれているが、8世紀に「まとめら」れたとする万(萬)葉集の中の「万葉仮名」の表記を見たことがあるのだろうか。
万葉集に書かれている表記は、決して、いわゆる「万葉仮名」だけではないし、その表記・解釈についても諸説ある。
教科書の国語などで表記されている「万葉集」一部は、万葉集で掲載されている文字がそのママで表記されていないことも承知しているのだろうか。
歴史的には、万葉集は文学作品としてだけでなく、書かれた人々の生活や時代を考察する上でも多くの研究がされている。
窪島氏の大学がある滋賀県での歌われた「歌」は、日本史上の大きな論争となってもいる。
それらの片鱗でも知っているならば、
漢字の特徴である表意性を削ぎ落とし、音としてだけ使う「万葉仮名」という漢字の新たな使用法
が生まれた。
と断定した文章は書かないだろう。。
窪島氏らが、日本語表記の専門であり、万葉集研究の専門であるならば。これらの断定は、研究結果の主張として認められるだろう。
話し言葉も
文字も
意味も
時代と共に
さまざまに変化してきた
一般的には、片仮名(カタカナ)は平安時代に現在の表記に近い形になったとされているが、
明治・大正・昭和で積極的に外来語を取り入れ、近年では、新聞・雑誌・テレビ・ラジオは言うでもなくあらゆるところでカタカナ語が氾濫している。子どもたちは、こういった環境の中で意識することなく、カタカナ語に接する機会を多く持つことになる。
と「明治・大正・昭和で積極的に外来語を取り入れ」と窪島氏らは書いているが、明治・大正・昭和で積極的に外来語を取り入れただけではなく、それ以前から日本は多くの国々との交易の中で外来語を採り入れている。
江戸時代は、鎖国したため外国からの言語が日本語にとりいれられなかったと言うことではない。
阿蘭陀・和蘭陀(オランダ)・葡萄牙(ポルトガル)・朝鮮そして限定した地域で洋学(英語)研究がなされ、和訳されそれらの言語が日本語として定着し、使われている。
洋菓子と和菓子を明治時代に外国から伝わったとする区分の仕方と同様に、外来語を明治時代以降で区分される事があるが、明治時代でも、外来語=カタカナ表記と断定は出来ない。
現代中国では
漢字の簡略化が
すすめられているが
また窪島氏は、
日本語の読み書き障害の大きな課題は、中国語漢字とは異なる日本語漢字の複雑さにある。
日本語の読み書き障害の中心は漢字の書き障害にある、といっても必ずしも外れてはいない。
(国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-2010年)
と書いている。
中国語漢字と日本語漢字と比べて、日本語漢字の複雑さにある。
と書いているが、これは具体的に何を意味するのか理解できない。
中国語漢字とはどのような漢字を言うのだろうか。現在中国では非常に漢字を簡略化していることを意味するのだろうか。
例えば、
現代中国では、「廣→广」と表記して簡略化したのに、
日本では「廣→広」と簡略化してきたこと
を書いているとは考えられない。
従って、
日本語の読み書き障害の中心は漢字の書き障害にある、といっても必ずしも外れてはいない。
という事は文章としても、意味としても理解できない。
どのような表記が
「書き障害」
を生じないのだろうか
日本語として表記される漢字は、現代中国の簡略化された文字と比べて複雑だから、漢字の書き障害が生じると主張するなら、
どの時期の漢字表記を書かないと理解できない。
なぜなら、窪島氏は主として小学校の漢字やカタカナを述べているからである。
学習指導要領の改訂ごとに、日本では漢字表記が変えられる現実を考えるならば、
どのような漢字が「書き障害」になるのか。
では、どのように表記すればいいのかを明らかにすべきではないだろうか。
ふれられない
小学校の教育の
新たな問題
以上のようなことを縷々述べてきたのは、小学生の子どもたちの「はなしことば」の領域と「かきことば」の領域とのギャップがある事はたしかであり、そのことから考えても学習指導要領が漢字表記を学年ごとに定めたりする方法には多くの疑問が出されているからである。
さらに、近年その上に新たなる影を落としている。
窪島氏の主張にも学習指導要領にも重要な点が欠如しているように思える。
それは、
「はなしことば」や「かきことば」は、
人間の「意思疎通の手段」
であるという点である。
話す言葉が目的化されたり、
書くことが目的化するよりも、
人間の意思疎通のために「話す」「書く」という「手段」を使う、
ということでなければならない点である。
そのように考えると、
はなしことばがすべて分からなくても、
かきことばがかけなくても、
人間の意志が通じ合う事の喜びと、
自分の意志が表現できて、相手に通じる喜びが
教育の中でたっぷり満たされているかどうか、
ということが大切なのではないか。
書く必要のないコンピュータ
コンピュータ言語?
英語教育
窪島氏は、読み書き障害のところでまったくふれていないが、
小学校でのコンピュータの導入による「書き」の喪失、「読み」の喪失。
コンピュータ用語(異日本語とも言える)の交錯。
英語教育の導入。
などなどが、読み書き問題の上で大きな問題になっている。
彼はなぜ、そのことを書こうとしないのだろか。
先達者はもちろん
子どもたちが残してくれた
教訓と膨大な教育財産
さらに、障害児教育では、読み書きは永く課題であった。
視覚障害・聴覚障害・知的障害・重複障害児だけでなくほとんどすべての障害児にとっても、「読み書き」は、教育実践上の困難で、重要な取り組みを必要とした。
そのための先達者はもちろん、子どもたちも多くの教訓と膨大な教育財産を残してくれている。
窪島氏は、そのことを踏まえて、なぜ、読み書き障害の子どもたちの教育実践を書かないのだろうか。