2011年5月3日火曜日

格差と矛盾が増大する特別支援教育 島根大学教育学部西信高氏の論文から見えてくる滋賀大学教育学部窪島務氏の「旋回方向」(2)


 たしかに、西信高氏の指摘しているように特別支援学校と普通校における特別支援委員会等の設置は、かってないスピードでつくらされた。

 そのため、少なくない普通校では特別支援教育の対象が「ADHD・LD・Asperger」に限定され、それまで対応されていた障害生徒や病弱な生徒は、特別支援教育の対象外とされて行っている。
 また、多くの学校では管理職から「指名」された「特別支援教育コーディネーター」が、なにか新しい特別職、特別任務化のように振る舞っている報告も多い。
 

文書をよほど熟読していなければ
   内容を誤解もしくは曲解する

 さらに西信高氏は、次の点を指摘する。

 文部科学省関連の文書をよほど熟読していなければ、まさに時々刻々変化する情勢に対応できなくなる。
 現場の多忙化がますます進行する現状の下で、文書を直接読まずにただ伝達だけを受けて、そして内容を誤解もしくは曲解している例も散見するのである。

 彼は、現在の学校現場を直視していることは、多くの例が物語っている。
 しかし、窪島氏はこれらの問題について一切書いていない。
 そればかりか、彼が評価する実践例を行っている教師に対して、学校内の教師からの批判は少なくない。
 ようは、その教師は窪島氏の言う通りや彼の言う枠内での取り組みをして、学校内の取り組みをしないからである。また彼の評価する教師は学校では、保健室閉鎖を是認し、養護教諭が保健室にも行けないようにしている。文部科学省の特別支援教育研究指定校が終了した学校に行って研究発表するのは文部科学省の追認研究ではないかなどなどのことが報告されている。
 窪島氏は、学校全体や教師たちの状況を見ない。
 それとは対照的に西信高氏は、
「文書を直接読まずにただ伝達だけを受けて、そして内容を誤解もしくは曲解している」
と具体的問題点をあげてている。

同じ免許状の所持者が
「支援する側」と「される側」に格差づけられる

 さらに西信高氏は、窪島氏が思いつかないような重要な点を指摘する。

 「地域の特別支援教育のセンター的機能」もそのような例の一つである。従来障害児学校の多くは都道府県立であるがゆえに、市町村立の小・中学校とは制度的にも機能的にも日常的なつながりは必ずしも緊密ではなく、それでも特に支障が生じない状況があった。
 しかしながら、今後は「小・中学校等の教員への支援機能」「小・中学校等の教員に対する研修協力機能」が求められるものとされている。
 同じ免許状の所持者であっても、その勤務する学校種別により、支援する側とされる側に格差づけられるという問題も指摘できるのであるが、いずれにせよ、障害児学校教員の意識と姿勢の大転換が求められているのである。
 それほどの自覚と責任が障害児学校に満ち、共通認識となっているがどうか。
 時折、障害児学校の教員から、小・中学校の教員は障害児学校についての理解が乏しいとする批判も聞くが、今後はそれは障害児学校側の努力不足によるのであるという点にむしろ重きが置かれることになる。
 また、具体的な授業場面では、一対一かあるいはそれに類似する手厚い教員組織の障害児学校で長年過ごした教員が、一人の担任が複数の障害児と向き合う障害児学級の担任に、あるいは通常学級の担任にいかなる「支援」をおこなうのか。こうした課題がまもなく現実のものとなろうとしているのであるが、身近には必ずしも学校側からの切迫感が感じられない。

まさに、これらのことが今教育現場で如実に現れている。

 特別支援教育指導と称して
   普通校に来る教師の少なくない実態

 ある普通校へ特別委支援としてやってきた障害児学校の教師が、アスペルガーの生徒の指導について詳細に提示し、その指導を教師に求めた。
教師たちの中では
「そこまでの取り組みは、とても無理だ。」
という呟きが広ろがったが、管理職の厳しい眼差しの前で何も言えないでいた。
 その時、ひとりの教師が、
「先生の詳細な指導についてのはなしがありましたが、先生のその生徒たちへの実践の取り組みを話していただけませんか。」
と問いかけた。
 すると、
「私の学校にはそのような生徒はいません。」
「だから、私はそのような実践をしていません。」
と答えた。
 そこで、質問した教師は、
「では、先生のおっしゃったアスペルガーの生徒の指導については、何を根拠にしていっておられるのですか。」
と尋ねると
「本に書いてありました。」
との返事が返ってきた。
 そこでさらに、質問しようとすると、周りの教師から「もういいでは」との呟きが聞こえたため止めた。
 その質問した教師は、特別支援教育としてやってきた障害児学校に勤めていて、子どもたちのことは充分知っていたが、管理職も特別支援教育指導にきた教師も、そのことすら知らなかったのである。
 「形だけ」の「おざなり」の特別支援教育でも、取り組んだという「こと」だけでいいのだ、と普通校の管理職が質問した教師に言い放ったのである。
 これらの事例は、数え切れない程ある。
 上から言われるから、ともかくやらなければ……となって生徒たちのことを考えているようで、生徒たちを脇にやることがすすめられているのである。

問題をはらみながら
    すすめられる特別支援教育

 さらに西信高氏は、次のことをも指摘している。

 また別の例を挙げるならば、適正就学に関連しても、障害の「診断」は医師がするものであり教員は与らないとする考えも根強いものがある。医学的診断は、言うまでもなく医師が行う。
 しかし、ADHDやLDと診断された子どもで、心臓病や腎臓病その他の重篤な内部疾患の場合のように、医師からその病院に「入院」するように言い渡された子どもは果たして何人いるのか。
 まさに各方面の専門家との連携のもとで、乳幼児期から学校教育修了後までを見通した中でのそれぞれの時点でのきめ細かな「教育的」診断が、日々の実践に不可欠なものとして強く求められているのである。
 「特別支援教育」は、混乱というほどの抜き差しならない状態に陥っているのではないが、いまここに挙げた例に限らずなお多くの問題をその内部にはらみながら進行している状況にある。

説得力のない
   なぜ「特別支援教育」か


 そして西信高氏は、『今後の特別支援教育の在り方について(最終報告)』(2003年3月答申)などを分析・検討して以下のことを指摘する。



 この「概要」では、「特殊教育」を「障害の程度等に応じ特別の場で指導を行う」というように、教育の場、つまり物理的空間に着目して定義している。
 しかしながら、「特別支援教育」については、そのような「場」は問題にせず、「障害のある児童生徒一人一人の教育的ニーズに応じて適切な教育的支援を行う」こととされる。
 論理的整合性は図られていない。
 実際、子どものニーズに応じて「特別の場」すなわち障害児のための学校が必要となる場合もあるのであり、それゆえに特別支援学校として存続させるのである。
 この報告の本論をみると、なぜ「特別支援教育」かといえば、対象の拡大、教育の場の多様化、教育目的としての「自立」の強調、地方分権化のもとでの教育委員会の役割の変化、これらが従来の「特殊教育」では包含できない内容として現れているため、と解釈できる。
 しかし、これとてもやはり説得力には欠けると言わざるを得ない。



窪島氏が「読めない」部分を

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 西信高氏の論理的分析は、文部科学省が打ち出す方向の本質を突いたものである。この分析をよく読むと、窪島氏がいかに文部科学省の「代弁」をしているかが良くわかる。
 これらの文章を熟読した西信高氏は、次に最も重要な国・文部科学省などの本質を露わにしている短文を見逃しはしない。