2011年5月15日日曜日

文部科学省の悪文が教育の指針として持ち込まれる、と指摘する佐賀大学理工学部教授豊島耕一氏に対して、滋賀大学教育学部窪島務氏は答えられるだろうか

 佐賀大学理工学部教授豊島耕氏は、文部科学省の「パブリック・コメント」に応募したことなどを明らかにされているが、窪島氏と対照的なので、以下その一部を紹介させていただく。

 文案作成者の
 国語力を疑わせる

  豊島氏は、

 学習指導要領案に対して、
1、そもそも文部科学省にはこのような命令を発する権限がなく,提案自体を撤回すべき
2,指導要領案は国家社会の「形成者」を育成するという観点を欠く
3,国語,社会および道徳の指導要領案が子どもの内心の自由を侵し,違憲である
4,外国国籍の子どもの存在を無視している。文案作成者の国語力を疑わせる部分がある。

の基本姿勢を明らかにした上で、4点の論点を明示しているが、窪島氏の「読み書き障害」「読み書き困難」という部分に関することだけを紹介させていただく。

内心の自由を
  侵す教育

論点2 「国語」,「社会」および「道徳」の指導要領案が子どもの内心の自由を侵し,違憲である
 指導要領案は,これらの教科で「愛」という個人的,内面的なものに介入するなど,子どもの内心の自由に踏み込んでおり,したがって憲法13条(幸福追求権)と19条に違反している。
 国語では,学年を通じての「指導計画の作成と内容の取扱い」の部分で,例えば「日本人としての自覚をもって国を愛し,国家,社会の発展を願う態度を育てるのに役立つこと」と,倫理的な意味で普遍的なものとは言えない特定の対象への「愛」を強制することにつながりかねない表現が見られる(20ページ)。
 社会では,例えば33ページで,「天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」とあり,ここでは直接的に天皇への「愛」を生徒に強制している。
 道徳では,たとえば106ページで,「すがすがしい心をもつ」とあり,直接的に心のありかたにまで介入している.

個人の
幸福追求への介入

 何を愛し何を愛しないかは個人の問題であり、個人の幸福追求の範疇である。「心」のありかたも同様である。
 これに国家が介入することは憲法13条に違反するので、これらの言葉を強制力を持つ法令に入れるときは、このことに十分な注意が必要である。
 ところが指導要領案にはそのような配慮は全く見られない.

外国国籍の
 子どもの存在を無視

論点3 外国国籍の子どもの存在を無視している

 たとえば第1章「総則」で道徳教育に触れた部分で,「日本人を育成するため」とあり,また108ページ,道徳の第5,第6学年の部分では,「日本人としての自覚をもって世界の人々と親善に努める」とある。
 外国国籍の子どもには指導要領は適用されないのか、あるいはそのような子どもがいる学校ではこの指導要領そのものが無効とされるのか、不明である。

文部科学省の悪文が
 教育の現場に持ち込まれる

論点4 文案作成者の国語力を疑わせる部分がある

第1章「総則」で道徳教育の目標述べた部分を引用する.

道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を継承し,発展させ,個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に努め,進んで平和的な国際社会に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。

 この長い文章で,それぞれの要素の係り結びの関係を理解することはおよそ困難である。次のように表記を変え、それぞれの要素に番号を付けて分析し易くしてみる。

 道徳教育は,
 [0]教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,
 [1]人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の
  中に生かし,
 [2]豊かな心をもち,
 [3]伝統と文化を継承し,発展させ,
 [4]個性豊かな文化の創造を図るとともに,
 [5]公共の精神を尊び,
 [6]民主的な社会及び国家の発展に努め,
 [7]進んで平和的な国際社会に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,
 [8]その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。

 項目1から6までが7を修飾して7が8に係るのか[解釈A]。
 1から4までは直接8に係り,5と6が7に係るのか[解釈B]。
 それとも1から7までがすべて並列して8に係るのか[解釈C]。
 この文章の形式だけからは判読不能である。
 解釈BとCでは8の冒頭の「その」は「それらの」でなければならない。
  しかしこのことから解釈Aを取れというのであれば、それはあまりに不親切と言うべきである。(項目0は全体の背景を述べた独立したフレーズであろう。)

 このような悪文が教育の現場に,しかも教育の指針として持ち込まれるとすれば重大である.
と文部科学省の悪文が教育の現場に,しかも教育の指針として持ち込まれることを批判している。

「学習指導要領」を
 肯定しているのか

 だが、窪島氏の文章には、まったくこれらの問題は、触れられてはいない。だから、
窪島氏は、

1、「読解力」に課題があるのか。
2、「学習指導要領」を肯定している。
のかのどちらかでしかない。
 彼の書いた、指導したとされる「論文」なるものをよく読むと、1、2、点の間を揺れ動いていることが分かる。
  例えば、(1、)の点では、
 特別支援教育をめぐる島根大学教育学部西氏の論述。
 群馬大学教育学部久田氏の論述(特に、特別支援教育という概念や考え方の大元を吟味することなく、表面的に答申や報告書を読んでいると、一応プロの研究者でも間違いを生じるのではないでしょうか?の項)
などの記述に触れた部分が、まったくないことからも明らかである。
 それらを総合して豊島氏は、
「文部科学省の悪文が教育の現場に,しかも教育の指針として持ち込まれる」
としている。
 これらのことを踏まえないで、文部科学省の悪文や指針を受け入れた上で、窪島氏は「読み書き困難」「読み書き障害」を述べている。
  「大元」が日本文として成り立たない文を出しているのに、それを容認した上で「読み書き困難」「読み書き障害」を述べるのは、子どもたちや教育に対する確たる考えがなく、文部科学省に迎合しているとしか言いようがない。

フランス
 『未来の教育のための提言』

 窪島氏が良く引き合いに出す外国例に対して、豊島氏の紹介の仕方はまったく異なる。
 以下、窪島氏の漢字やカタカナなどの文字表記認識の対処法と教育に関わる際だった文章なので一部紹介させていただく。
 
豊島氏は、文部省などのすすめる「中教審」に対して、「フランス版中教審と読み比べることをお奨めします。」と書かれている。
 そこで、岩波書店の雑誌「世界」1988年3月号に掲載された、フランス共和国大統領の要請に基づき、コレージュ・ド・フランス教授団により作成された『未来の教育のための提言』のうちの一部を紹介させていただく。

『未来の教育のための提言』には、

 恵まれない人たちにこそ教育の良い条件が与えられるようなあらゆる適切な措置こそが取られるべきであり、そうした人たちを最悪の条件のなかに置くような事態を招くやり方(たとえば新参の教師や、十分な養成を受けず、給料も安く、授業を過度に多く持たされた代用教員たちに、困難の多い学級を担当させるといったあの奇妙な論理)には、正面から反対しなければならないのである。

心理学的な治療によって、
 奇蹟のように学業の挫折を
 解消してしまうことは
期待すべくもない


 じっさい、ある種の社会心理学的な治療によって、奇蹟のように学業の挫折を解消してしまうなどということは期待すべくもないことは明らかであり、教師の数を増やし、その養成と労働の諸条件を改善することによってのみ、落ちこぼれを減少させることを現実に望みうるのである。
 じじつ、フランスの教育が、とくに高等教育のレヴェルにおいて、図書館施設(その甚だしい不十分さについてはここで繰り返さないが)、教科書、参考書、質の高いテクスト集、学術翻訳書、データバンクなど、知的生活の基礎をなす固有の施設設備面における極端な不備に悩んでいることはよく知られていることである。

今より大きな学校自治を

 それは、どこにでも要求される基礎知識と平行して、選択科目として専門教育を行う学校を創設するというもので、それらの科目はその学校の特色をなし、他校との競争においてセールスポイントのひとつとなる。
 こうした試みは、学校長や職員会議が教師の採用に関しては、今より大きな自治を持つことを前提とするものである。
 そこには、純粋に教育学的な基準を含む多様な評価基準の導入や、このようにして計られた教師達の特徴点と担当するポストの性格との関係の考慮などが含まれるからである。

「学校」は
教育の唯一の場であるべきでない

 「学校」は教育の唯一の場であることは出来ないし、そうであるべきでない。
 「学校」は、また、
 すべてを教えることはできないし、すべてを教えるべきでもない。
 知識の伝達は、
 事実においても、権利においても、
 ただひとつの制度によって独占されうるものではなく、
 さまざまな互いに補完しあう教育の場のネットワークが考慮に入れられねば ならない。
 「学校」の固有な役割がそのなかで位置づけられるべきである。

教員の仕事を心理的
技術的摩滅から守るために

 教員の仕事は、困難で、ときには辛く消耗する仕事であり、情熱と信念を持って実行されぬ限り、真に効果的で精神を高揚させるようなものでありえない。
 どんな教育レヴェルの教師も、学校の閉ざされた空間の外へ出、研究所や企業などで研修を受けたり、休暇年を利用して、個人的な学習や授業に出席して勉強しなおすなどして、定期的に習慣性[ルーティン]から抜け出すことができぬかぎり、心理的、技術的摩滅から逃れることはできない。
 そして、おそらくは、年配の教師の希望者には、希望と適性に応じて、行政的仕事や、(チューターや巡回指導員の活動といった)文化組織の仕事のような、あまり激務でない仕事でそのキャリアをまっとうする可能性をあたえることも必要である。

教育の内容 ・ 教授法
教師達に固有の
強い権限が与えられること

 教育の内容に関しても、また、教授法についても、教師達にたいして、固有の強い権限が与えられていることが、おそらく、あらゆる圧力団体から「学校」の自治と教師たちの独立をまもる、唯一ではないにせよ最良の保証となるのである。