2011年6月4日土曜日

滋賀大学教育学部窪島務氏へのエピローグ    誠実に教育をもとめる人々を翻弄してはならない






公表し 取り組まない
LD学校、ADHD学校、アスペルガー学校づくり


 窪島氏は、NPO法人滋賀大キッズカレッジのことを次のように書いている。

  フライエはドイツ語で「自由」を意味します。
 キッズ・フライエ・シューレは、一人ひとりの子どもが様々な制約を打ち破り自己の可能性を全面的に実現して「発達的自由」を獲得することを援助する「学校」を意味しています。
 滋賀大キッズカレッジは、欧米にあるようなLD学校、ADHD学校、アスペルガー学校が今すぐにでも必要と考えています。
 将来も見越して、これまでの「学習室」をキッズ・フライエ・シューレ(キッズ自由学校)と呼び、将来への夢と希望を形にしていきたいと考えました。
 キッズ・フライエ・シューレのもう一つの目的は、学校で大きな困難をかかえ学校嫌いや不登校になっている子どもたちに在籍学校と連携しながら「もう一つの学校」を提供することです。

行動しない 今すぐ必要 待ったなし

 すなわち、彼は普通校や普通学級の教師の責任や無理解を問題にしながら、内実は、「LD学校、ADHD学校、アスペルガー学校が今すぐにでも必要」と考えているのである。
 では、彼は親や教師たちにLD学校、ADHD学校、アスペルガー学校を作ることを提起して、なぜ運動しないのだろうか。
 
 2011年6月25日(土曜日)滋賀大学教育学部で開く予定の「発達障害の子どものことを理解しましょう 保護者のための講演会と交流会」で、彼は、

「学校できちんと理解してもらえず悩んでいる子ども、保護者の方もおられます。
 そこで、子どもの困難の本質をどう理解すればよいか、家庭ではどう対応すればよいか?学校にはどのように理解してもらえばいいの?等、保護者の皆さんの学習と交流のつどいです。お気軽にご参加ください。」

と学校の理解を強調するが、LD学校、ADHD学校、アスペルガー学校を作ることを提起していないのである。
 しかも、この交流会は、「保護者、家族、支援に関わる方など」で「一般の方はご遠慮下さい」としている。
 それならなおのこと、窪島氏の本音である「学校づくり」を提起すべきではないだろうか。
 だが、それをしないで、「学校の理解」や交流だけで事を済ませようとしているのである。

もとめられる教育発展の批判 

 先に断っておくが、窪島氏が、今日の学校や教師に対して大学教育の専門分野から意見や批判があれば、大いに批判し、論議をして教育の発展に寄与すべきであると考える。
 教師批判や学校批判をすべきではないと言っているのではない。
 教育研究から出た結果なら大いに主張すべきであり、教師たちの意見や親の苦しみをもっと聞くべきだろ主張すればいい。
 だが、彼は、
教師に対しては発達障害児の困難性を言い、
親に対しては、学校や教師の理解を言う,
などの使い分けをして、必要以上に対立関係をつくり、自分たちこそがそれを解決できる専門性を有しているかのように描き出そうとしているのである。
 だが、本音は、
 普通校では発達障害の教育は出来ない。 
  LD学校、ADHD学校、アスペルガー学校が必要だ。
と告白しているのである。
 これほど、親や教師や教育関係者を愚弄しているのである。
 だから、このブログで延々と彼の書いていることを紹介してきた。

不確かなことは不確かなこととして

 窪島氏や彼と同調している人々は、真剣に悩んでいる人々を愚弄したり、惑わしてはならない。少なくとも、研究者というなら真実にあくまでも忠実で、真摯に真剣に悩んでいる人々に応えるべきだろう。

 解っていることは解っていることとして。
 不確かなことは不確かなこととして。
 解らないことは解らないこととして。

 だが窪島氏らのやっていることは、「生半可な知識」をまるで新しい教育方法かのように「粉飾」しているにすぎないとも言える。だから許されないことである。

LD、ADHD、アスペルガーなどは
すでに知っていたのに


 すでに書いてきたが、 LD、ADHD、アスペルガーなどのことは、文部科学省が明らかにするまでもなく数十年以前からいくつかの国の研究者が主張してきたことであり、窪島氏も、日本の少なくない教師たちもそれらのことを知っていたし研究・検討して教育実践上に生かされて来た部分も少なくない。
 窪島氏が最近、にわかに言い出している読み書き障害などの問題は、江戸時代の文献にも出てくるし、戦前・戦後の教育の中で課題とされてきた。
 
読み書きが困難な子どもたちの教育に
取り組んできた教師たちを無視する背景


読み書きが困難な子どもたちを放置してきた歴史だけではない。
 窪島氏のよく知る障害児学校や聞こえの教室(難聴学級等)・ことばの教室(言語障害児学級等)・情緒障害児学級などなども含めて、日本の教育現場では
子どもたちの状況をよく「看て」、
諸外国の実践例はもとより、
子ども一人ひとりにあわせた教育実践
も多くの規制を排除して行われてきた。

子どもの発達上よくない
 とされたことも知らないで


 その教育実践で、子どもたちの発達上よくない方法として教訓化された「誤り」の方法を学びもせずに、同じことを専門的方法として、歴史的経緯を何も知らない教師や親に風潮しているのである。
 日本の教師は、行政の保障のないまま、世界に誇るべき優れた教育実践も数多く取り組まれてきた。
 ほんの少し前の教師の教育実践記録を調べるだけでも、窪島氏らがさもさも充分理解しているかのように述べる「読み書き障害」の子どもたちへの教育実践は数多く見いだせる。
 問題は、彼がそれを見ないだけである。

すべての子どもに教育を の1970年代

 1970年代は、日本の障害児教育にとって飛躍の時期であった。それまで、教育対象外とされてきた子どもたちも含めた教育がはじまった時代でもあるからである。
 この時窪島氏は、研究者だった。
 彼は、どこを見ていたのであろうか。
 普通学校や学級でも大きな影響を受け、教育内容が見直され、さらに充実していったことを彼は、まったく見ていないし、知ろうとしていなかったことが彼の記述が暴露している。

政府・文部科学省の「ねらい」は明らか
 障害児学校の統廃合が加速したのに


 特別支援教育は、福祉医療と連なって教育の予算削減が主目的に出されてきたことは明白である。
 現に、全国各地域で、特別支援学校の名の下に盲、聾、病弱、肢体不自由、知恵おくれなどの子どもたちの学校が統廃合されて、それぞれの障害の状況など無視した形で特別支援教育が行われていることに対して、窪島氏はほとんどふれない。
 障害児学校の存続が重大問題になっているときに、「LD学校、ADHD学校、アスペルガー学校が今すぐにでも必要」と内心で思いながら、それを出さない。
 逆に、普通校や普通学級の発達障害の子どもたちのための「理解注意事項」は、詳細多岐にわたる。
 「すべての子どもたちに教育を」と取り組んだ人々の声と運動とそこから実現した教育実践を「投げ捨て」ているのである。

すべての障害児を観ないのは

 障害児が一方では、統廃合の波に呑み込まれているときに、平然と文部科学省の方向船に乗っていると観る。
 これは、もうすぐ歴史的に明らかになることであるが、窪島氏の主張には、読み書き障害の子どもたちの気持ちの推定はあっても、その子どもたちと取り組んだ教育実践や彼の「論理」に基づく子どもたちの変化・発達はほとんど述べられていない。
 このことに多くの人々が気づかれただろうか。

子どもの教育実践に
携わっていないことを「告白」


  さらに、読み書き障害児の指導と称する文章の中に、子どもたちに対する指導によって子どもたちが何を獲得できるように取り組んでいるのかという目標がまったく書かれていない。
 これでは、窪島氏らを信じて、頼って、たどり着いた親や子どもたちにだだ期待を持たすだけの非教育的行為と言われても仕方がないだろう。
 文字を知ることで、喜びとなる生き生きとした子どもの姿は、窪島氏の文章には登場していない。
 だが、日本各地で取り組まれている教育の中には、そのことは天空に届くほどあると言っても過言でない。