2011年6月29日水曜日

府高委員長 癌になる だが私は がんばらない

 

            山城貞治(みなさんへの通信21)

 最近、働くもののいのちと健康を守る全国センター通信No.144 2011年6月1日に府高副委員長が、「今年で労安体制10年目を迎えます。」とし、投稿している。

 だが、この文章を読む限りについては、145万字を超えた労働安全衛生対策委員会ニュース「教職員のいのちと健康」や府高が出してきた労働安全衛生関係の資料10年分を通読もしていないことがよくわかる。

経過と闘いを忘れてはいけない
 長期にわたる労働安全衛生の取り組み


 少なくとも

最低基準を上回る対策をしなければならない、と取り組んだはず

1、5年間13回に及ぶ労使協議・交渉を経て、労安体制を発足させました。労使協議での法令遵守や事業者責任の明確化などのやりとりが労安活動家を育て、理論や活動イメージをつくってきたと思います。

 の項目は、正確ではない。
 府高は別途述べる労働安全衛生協議で使用者側(府教委)ではなく、事業者側(京都府・府教委)との協議を主張したが、府教委はあくまでも使用者側を主張し意見が対立してたこと。
 たんなる「法令遵守」ではなく法に書いてないことも含めて労働基準法・労働安全衛生法の最低基準を上回る対策をしなければならないとしてきたこと。

安全衛生委員会任せにしない、と取り組んだはず
2、事業者との協議で、結局府教委の主張する(もともと府教委は最初から安全衛生委員会を提起していたが、それを覆したのは京教組であったことをすでに述べてきた。)衛生委員会が各学校に作られることになったが、労働安全衛生体制確立以前から府高は、本部交渉が基本で「衛生委員会等が、やりきれないことは組合の交渉に乗せる。」という立場をとらなかったこと。

総括安全衛生委員会を作るべきだ、と取り組んだはず
3、基本は事業者と府高との間で総括安全衛生委員会を作るべきだとし、各学校には、安全衛生委員会を作ることを主張してきた。

 それは、一つの学校では労働安全衛生の改善や予算決定・執行権がなかったためである。

 ところが、「組合活動と異なり、衛生委員会活動は勤務時間中でも行えます。」と労働組合活動が正当活動としてILOでも認められている労働時間内の活動を否定し、事業者協議と最も重要な案件で、最終的に府教委が認めた「総括安全衛生委員会」を「法的組織ではなく、総括的に行政と組合推薦者で構成。年3回実施)」と記述し、事業者側でもある府教委の責任を蔑ろにしている記述が書かれている。

一瞬の火花で終わらない 
     労働安全衛生の長い取り組み

 学校長は、事業者になり得ないという府高の法的・論理的・実践的経緯を理解されないでいる。
 労働安全衛生は、時間とともに「形がい化」させてはならないとして、ことの経過を詳しく記録保存してきているが、本部がそのことを踏まえていない事を知り、残念な思いがするが、事実はそうではなかった。
 その点で、数十年以上もじん肺やアスベストなどをはじめ「時効」という法の壁を打ち破り労災認定を勝ち取ったり、引き続き不当な労災不認定などと闘い続けている、またその意志を遺族が引き継ぐなどなど「働く人々すべてが、安全で健康に働けるよう」奮闘されているみなさんに、こころから敬意を表したい。

背水の陣は
「仲間をが見殺しにしているのではないか」と言われたこと


 現府高副委員長は、文章の冒頭「次ぐ在職死亡や公務災害認定裁判を通して、〝これ以上仲間を苦しめさせないと背水の陣をしき、5年間13回に及ぶ労使協議・交渉を経て、労安体制を発足させました。」と書いている。
 しかし、これにも大きな違いがある。
 そこで、「仲間を見殺しにしているのではないか」と言われ、労働安全衛生に取り組んだ当時の府高委員長ことを書いておきたい。

最近体調が悪くなったとき思い出した九つの緊急提案

 府高委員長は、最近体調が悪くなったと感じたらしく、そこで、

「すぐにもできる労働安全衛生九つの緊急提案」
1,からだの調子が悪い、病院にいかんならんなあ、と思っている人、思いながらも病院に行けてない人は、無条件で自分の信頼できる医者・病院に行こう。そして、自分の健康の様子をチエックしよう。また医者から「休むよう」に言われたら必ず休もう。

 を思い出した。
 けれど府高委員長という重責。当時、近畿、全国、関連他団体の役職を数え切れなくあり、スケジュールは分刻みであった。
  病院に行く時間がとれないディレンマの中で、

「無条件で自分の信頼できる医者・病院に行こう。そして、自分の健康の様子をチエックしよう。」

を自ら実践しないで、労働安全衛生が語れないと決意し、府高本部の会議で病院で精密検査を受けるため「休む」ことを報告。
 直ちに自分の信頼できる医者のいる病院に行き、精密検査を受けた。
 だが、いくつかの検査では出ないが、ある一つの検査で「癌の疑いがある。」と医師から説明を受けた。

脳裏に焼き付いていた
病院を変わることも健康問題を考えたとき大変重要


 この時、府高委員長には、

「また、病院に通院していても、どうも良くならない、自分の自覚症状と医師の治療があっていない、などと思うことがあれば、病院を変わることもこの間の教職員のいのちと健康問題を考えたとき大変重要であることが分かってきました。」

という「すぐにもできる労働安全衛生九つの緊急提案」の文章が浮かんだとのこと。

 医者から、もう一度検査を、経過も診るためにH県K市までくるのは遠いから、京都もしくは自宅からいつでもいける病院に代わる病院を紹介するから、といわれて本人も「そう思っていました。」と言い、医師に紹介状を書いてもらい、すぐS県S医大病院に精密検査・入院ということになった。

癌宣告を受けてとった委員長の行動

 結局、府高委員長は、癌・手術・入院を宣告される。

 頭の中では、組合委員長として休んでいた間の残った仕事が渦巻いたけれど、
「すぐにもできる労働安全衛生九つの緊急提案」の文章がそれを打ち消したとのこと。
 本部、近畿、全国、他団体に「入院治療のため休む。」と言って、委員長の「代休」である代行をみんなで決めてもらい長期入院、リハビリをして、組合本部の仕事に復帰。
 委員長を「定年退職した」後も検査通院を欠かしたことがない。
 彼は、

「口だけ言うのではなく、実行しないと委員長がウソを言っていることになる。それではいけないお思い続けた。」
「休んで、治療して、つくづく思ったのは労働安全衛生の重要さと形式論議だけではダメだと言うことと、妻の深い愛を知ったことだ。」

と全国の教職員組合会議で報告し、労働安全衛生のあり方をよりリアルに説明するようになった。