2011年6月9日木曜日

過労死じゃなくて、これは見殺しだ!!


 山城貞治( みなさんへの通信 3 )

  京教組養護教員部編著
 「教職員の労働安全衛生入門」
 自主出版に敬意

 1990年7月。
  京都教職員組合( 以下京教組 )養護教員部は、学校保健法の健康診断項目等の変更に伴い、基本的に労働安全衛生を学ばなければならないとして、細川汀氏と垰田和史氏に講演を依頼し、学習したことを多くの教職員に知ってもらおうと京教組養護教員部編著「教職員の労働安全衛生入門」を自主出版した。

 その後、さらに広範な人々に知ってもらおうと京教組養護教員部は出版社に話を持ちかけ・協力して「教職員のための労働安全衛生入門」(細川汀・垰田和史著 文理閣)さらに「教職員のための労働安全衛生入門 増補新版 (細川汀・垰田和史著 文理閣 )として発行して、広く読まれるようになった。

 これら本の発行のために大いに努力し、その役割を果たしてくれた京教組養護教員部の取り組みに敬意を表しつつ、先に述べた「当時の京都府高の委員長は自分たちの教職員組合運動のあり方を深刻に反省」した項目について再転載させていただく。

他教組は猛烈な批判 京都府高は猛烈な反省

 だだ、以下の項目は、その後他の教職員組合から猛烈な批判があり、垰田和史氏が改訂版で掲載しなかった文章である。
 他の教職員組合からの猛烈な批判に対して、京都府高は猛烈な反省から教訓を得ることになる。
 以下、垰田和史氏の話の一部である。

健康を認識できる感覚を正しく発展させる教育

「健康というのは科学で認識しなくても、健康を認識できるような正常な感覚というのが私たちにはもともとある」
と言うことです。
 隣の人間が何か苦しんでいれば
「助けてやろう」
という感覚があるし、痛がっていれば
「痛みを取ってやろう」
という感覚がある。


これがあってあたりまえです。
 お互い助けていかなげればいけないという感覚、これがあってたりまえです。
私はやはりそれはどこが培うのか、と考えると、もともと健康を認識できる感覚は確かにだれでもあるのですが、健康を認識できる感覚を正しく発展させて、
 正しく認識させて、
 正しく行動に結びつけていくことができる、
 それは教育だ、
と思っています。
 私は、幼児から始まって大学に至るまでの教育の中で、
「命とか健康はどういうように自分自身が認識して、どういう行動をとるかというのは教育の対象だ」
と思っているんです。
 そう思っていました。
 ところが、今年になって養護教諭の先生からいろいろな話を聞かしてもらいました。一つひとつの話を聞いてショックを受けています。

学校行事の合間に病院に行く先生

 一番最初にショックを受けたのは、肝癌で亡くなった先生の相談があった件です。
 その先生は入院されて二、三週間で死んでいます。
 医者から三カ月と宣告されて、二ヶ月ぐらいで亡くなっているではないですか!!
 私たち医者の感覚からいいますと、ふつうは短めに言うんです。
ところが、肝癌でなくなった先生の事例を見れば医者の常識に反して早く死んでいます。
 それはなぜかといえば、病気が発見されてからさえ、病気治療に専念することになってなかったかも知れません。
 学校の行事が優先して、その後に入院することになっているでしょう。
 入院前の「いつごろからどうだったか」ということを調べてもらいますと、全部学校行事のスキ問に病院に行っています。

このままでは学校に行くのはあかん、
    と奥さんが止めたのに

 またその間にその先生にはいろいろなことが起きています。
 奥さんが、
「このままでは学校に行くのはあかん」
と止めても、聞かない。
 同僚が、「休むように」「治療を受けるように」と仕事を止めているか、止めてないかは、知らないけれども。
 「大丈夫ですかア」とたずねた時は、もうお腹に水が溜まっていました。
「あんまりしんどいから、しゃがましてほしい」
と言って、養護教諭の先生と死ぬ前に学校で話をされているということです。
 こういう話を聞いた時に、私は非常にショックを受けました。

先生たちが見殺しにしている

 しかも、
そのことが「過労死か?」
と言って、私のところに相談にきたのに対して、もう一つショックを受けました。
 もう腹が立ちまして、


「過労死じゃなくて、これは見殺しだ!!」と。
 周りの人たちが、全部その先生を見殺しているじゃないか、と。

誰が痛みに感じているのか

 たしかに肝癌というのは死の確率の高い病気だけど、そんな死に方をしなくたっていいと思うんです。
 その先生は、若いし、肝癌とわかったら、その先生の子どもや家族と接する時間を、どうやってつくっていくのかというのが、医療にとって非常に大きな課題になるんです。
 だから、医者が「三カ月の命だ」と言ったのをニカ月で死んでしまったことは、誰が痛みに感じているのか、と思ったわけです。
 過労死か、過労死でないか、という責任を問う時に、
「過労死させたのは誰」
「過労死させられたのは誰か」
という状況でしかないんです。

 たしかに今言われているような社会的な問題というのは、「過労させていく側」と「させられる側」という二つの局面はあります。

自分の隣に過労して
死んでいこうとする先生がいるのに

 だけど、自分の隣に過労して死んでいこうとする人間がいることに対して、何ら手をさしのべられない。
 そういう職場環境というのは大きな問題をはらんでいると思います。
 そこには、もう正常感覚がないんじゃないか、と思うんです。
 それも、教育という現場の中で起きている。
 その正常感覚がないことに対して非常に私たちはショックを受けました。
 
もうそんな状況にまで、教育現場は

大学で公衆衛生をやっている者は
「そうかア、もうそんな状況にまで、教育現場はなっているのか」
ということになります。
 でも、医学が解明するような問題は何もないです。
「こんなことしたら、死ぬのはわかってる」
ということばかりしているわけですから、新たに研究する課題は、何もないのです。
 だけども、公衆衛生や予防医学をやっている者は、現場の人たちと考えていかなければ解決はつかない問題はあるだろうと考えています。
 問題をまず整理していく、あるいは、問題の視点をつくっていく、そういう点からいえば肝癌でなくなった先生の問題は、きわめて重大な問題だと思います。
 以上のことは、私が滋賀医科大学予防医学講座の研究室で今まで話し合ってきている中で、至った結論なんです。
 国や資本というのは、「健康は自己責任だ」と言うんです。
 つまり健康を守るのは自分の責任だ、と。子どもじゃあるまいし、自分で責任をもて、と。
 こういう理屈です。
 私たち自身も、そういう考え方に毒されています。

ガマンするのが教育に責任を持っているなんて

 自分の腹が痛い時に、
「自分で医者へ行ったらええんやろ。行かへんかった人が悪い」
と、こういうように言います。
「ああ、どうしてあの人は医者へ行ってくれへんかったんやろうね」
「調子が悪かったら無理せんでもよかったのにね」
と後から言う人はたくさんいます。
 だけど、じゃあそういうことができる職場環境なのか、職場に条件があるのか、ということになります。
 教師の身体が悪くなり、休んだ時に子どもの教育は誰が責任を負うんだ、という議論が出てくると休めなくなると言います。
 休まないのが教育に責任を負っているんだ、という考え方になっています。
 そこに今たどりついているのかもしれません。
 大きな問題から考えた時に、労働者の犠牲を前提にして成り立っていくシステムというのは、決して健康を保障していくシステムではありません。
 健康というのはやはり人権なんです。


生きていく権利 
非情な危険状態でもいのちと健康を守る権利

 一番基本的な人権なんです。
 生きていく権利というのは……。


 何も戦争だけが命を奪うだけではなくて、日々の労働生活の中で、私たちの命や健康というのは非常に危険な状態にあって、そのことを守るための取り組みも命を守る取り組みなんです。
 そういう認識にどれだけ私たちが立っていくか、ということが大切だと思います。

健康というのは自分一人では絶対守れない

 私たちが言っているのは、
「健康というのは自己の責任で守るものではなくて、健康の主権者は一人ひとりだ」
それは、
「健康の主権者なのであって、自分自身が健康に生きていける権利を主張することは私たちにできる」
わけです。
健康に生きていける権利を守っていく責任者は、社会やいろんな体制・システムです。
 それが責任を果たさなければ、健康に生きていく権利は守れないわけです。
だから、健康というのは自分一人では絶対守れません。
 朝走って、自然食食べて、何時には寝て、と言っても、飲んでいる水、それはどんなものか、吸っている空気はどんなものか、空から降ってくる雨はどんな雨なのか、原発が事故をおこせばここらのみんなの命は終わってしまいます。
 個人の努力というのは、健康や命を守ることに対して非常に限界があります。


非常に辛いけれども
一つひとつの事例を究明してこそ

 職場の同僚が死んだ時に、
「一体自分たちはそれにどう関与していたのか」
「死に至るまで私たちはどうして気づかなかったのか」
「何がこういう状況にしていったのか」
 非常に辛いけれども一つひとつの事例をやっぱり職場の中で追及していってほしいと思います。
事後の報告じゃないです。
みんなで考えていけば、誰もが同じ危険性を持っていることがわかる
死ぬまでの報告です。
「死ぬまでどうだったのか」
「どういう仕事のしかたをしていたのか」
「どういう仕事があったのか」
「なぜそういう仕事からこの人は休息を取ることができなかったのか」
と、やはりそういう調査を通じて、みんなで考えていけば、誰もが同じ危険性を持っていることがわかってきます。その職場の中では……。

高塚高校事件の職場感覚

 今日の新聞を列車の中で見てきました。
 神戸の高塚高校の鉄門で女生徒を挟んだ先生が懲戒免職になったという記事が載っていました。
 その記事の中でA教諭は「もう教職にはつかない。思いきり肉体を使う土木作業でもしたい」と言っていて、そして、県教委の事情聴取についても「長時間かんづめにして水も飲ませてくれなかった」と批判して「県教委は私を暴力教師に仕立てたいのだろう」と言っています。
 さらに「私は一年のうち休んだのは正月の二日間だけ。サラリーマン化した先生がのうのうとしているのに、一生懸命やってた私がこんなことになって、とつぶやくこともある」と書かれています。
 これを読みますと、こういう教師がいる職場は、やはりもうまったく感覚はおかしくなってるだろう、と思います。
 養護教諭は、どういう教育を受けているか、私はよくわからないんですが、少なくとも子どもの健康や発達に対して責任を持っていくという点では、学校教職員の中では、もっとも命や健康を職域としても理解し得る専門職であろうと思います。

教育が命や健康をどう見るか

 学校教職員の中で養護教諭の方々が労働衛生問題にいち早く手をつけて取り組んできているということは、すごく立派なことだと思うんです。
私は学校の先生たち一人ひとりが、自分の命というものに対して認識した時に、「教育が命や健康をどう見るか」
ということを通じて一人ひとりの人権というものをどう大切にしていくのか」というかたちに変わっていけるんじゃないかと思っています。
 そういう意味で、養護教諭の人たちが、労働衛生の問題の中でいろいろな勉強をしていただけるとすごくいいんじゃないか、と思います。