2011年6月9日木曜日
労働安全衛生法=労働安全衛生でない
山城貞治( みなさんへの通信 2 )
「 内藤先生の過労死京都地裁判決を読んで 細川汀 」の続きです。
1972年に作られた労働安全衛生法を
無視した文部科学省(文部省)
文部省が1972年に作られた労働安全衛生法を無視した姿勢をとりつづけ、ようやく数年前から労働組合などから批判を浴びて、規定や体制について検討・整備しつつある。
法をねじ曲げる文部科学省(文部省)
しかし依然として労働者の安全と健康を守るために、
法を最低基準として労働条件の向上や快適職場環境の形成を実施するという法的・社会的義務を自覚しようとしない。
多くの規定が安全衛生委員の選出を組合以外から選ぼうとしたり、産業医を健康管理だけの仕事にしぼろうとしたり、衛生管理(推進)者を管理職(教頭)だけにさせようとしたりしている。
これらは、法をねじ曲げているとしか言えない。
最近はますます校長の権限を大きくし、教職員の権限を縮少する労務管理が急速に進行している。
このことと、教師の過労死認定についての基金の判断は決して無関係なものとは言えないであろう。
精神主義だけの学校管理
前述の教研集会でも
「職員会議で発言すると仕事や責任が増えるのでみんな黙るようになった。」
という報告があったと報じられていた。
これらのことは、拙著「教職員のための労働安全衛生入門」(共著、文理閣 注 現在教職員のための労働安全衛生入門 増補新版細川汀・垰田和史著として発行 )に詳しく述べているので参考にされたい。
内藤裁判における校長の証言記録を見ても、管理者の安全保護責任の自覚がなく、精神主義だけの管理をしていたことが明白である。
彼らにはすべての教員が疲労とストレスをためない、体調の悪い人には早く回復する措置をとる義務があった。
「判決」はここまで踏み込んでいない。
労働安全衛生法だけでいのちと健康は守れない
この文章を読んで、1980年代末から1990年代にかけて、
「教職員に労働安全衛生法の適用を」
「労働安全衛生体制の確立強化は、教職員のいのちと健康を守る。」
「対等平等の労働安全衛生体制の確立」
のスローガンの一面性を再確認した。
このことで、教職員組合内部で孤軍奮闘して主張しなければならなかった。
いまでも、「教職員に労働安全衛生法の適用を」とか「労働安全衛生法の適用させて前進した。」「職場にロウアンの風を」などなどを主張する教職員組合は少なくない。
だが、細川汀氏が述べているように
1972年に作られた労働安全衛生法は、最初から教職員にも適用
されていたのである。
それをさもさも、労働安全衛生法を適用させたと成果を示す教職員組合の様子は、言いようもない気持ちになる。
労働基準法から
無理矢理「労働安全衛生法」が切り離された
それどころか、関東のK市教職員組合の役員の一部は、労働安全衛生法をさらによくなるように法改正すると「豪語」していたことがあった。
そこで、教職員の労働時間などを質問すると、答えられないのでさらに驚いた。
役員は、労働安全衛生法はもともと労働基準法にあったものを、多くの反対を押し切って「分離独立」させられものであることも知らなかったのである。
労働安全衛生法 第一章 総則
(目的) 第一条 この法律は、労働基準法 (昭和二十二年法律第四十九号)と相まつて、労働災害の防止のための危害防止基準の確立、責任体制の明確化及び自主的活動の促進の措置を講ずる等その防止に関する総合的計画的な対策を推進することにより職場における労働者の安全と健康を確保するとともに、快適な職場環境の形成を促進することを目的とする。
すら読んでいなかったのである。
「労働基準法 (昭和二十二年法律第四十九号)と相まつて」
の意味も。
労働基準法には、
第5章 安全及び衛生
第42条 労働者の安全及び衛生に関しては、労働安全衛生法(昭和47年法律第57号)の定めるところによる。 第43条から第55条まで 削除
すらも読んでもいないし、その意味も知らなかったのである。
さて、「教職員のための労働安全衛生入門」で京都府高は重大な誤りを、滋賀大学医学部の垰田和史氏に突きつけられることになり、当時の京都府高の委員長は自分たちの教職員組合運動のあり方を深刻に反省ことになる。