2011年6月1日水曜日

滋賀大学教育学部窪島務氏へのエピローグ  今日の学校に多くの知恵と力をあわせて考えあってと奈良教育大学教育学部越野和之氏は主張


  この間、滋賀大学教育学部窪島務氏の文章を読み、あまりに も多い問題点を書いてきた。

  特に彼は、戦後の日本の教育、 特に1960年代末から1970年代にかけての
 障害児教育を踏まえた記述を「消去」している。
 この時期は、障害児教育だけでなく、日本の教育は大転換期でもあったと言える。
 窪島氏は障害児教育に取り組み、少なくない論文や文章を発表していた。
 だが、文部科学省が、特別支援教育を言い、発達障害を言い出すと、それらを「封印」してしまっている。
 1960年代末から1970年代に学齢期にいた奈良教育大学教育学部越野和之氏は、戦前、戦後の障害児教育を研究した上で、「発達障害のとらえ方と特別支援教育」のテーマで公開・発表し、今日の学校や教育について論じている。
以下、少し説明し、その一部を紹介させていただく。

忘れてはならない
すべての子どもたちが教育を
受けられなかった時代と
それが変革された時代

 戦後、憲法に書かれた「ひとしく教育を受ける権利」は、多くの障害児には無縁であった。
「学校に行きたい」
「勉強したい」
「みんなといっしょに学びたい」
 この切実なねがいも、血の涙とともに消されていた永い歴史があった。
 それを塗り替えたのは、障害児・者・その家族・教育やその周りの人々の言い尽くせない取り組みだった。
 小さなねがいが無数に集まり、運動となり、大運動となり、国民運動となっていった。そして、圧倒的な国民の要求のもとに政府は、やっと「すべての子どもたちが教育を受けられる」教育を「のむ」ようになった。
 障害児教育の保障や前進ととらえる考えもあるが、憲法に書かれた、ひとしく教育を受ける権利の第一歩が、1970年代にはじまる。
   それは、日本の教育史上画期的な出来事であった。
 障害児を排除した非人間的非人道的な教育が、障害児も包括教育の第一歩であった。

 越野氏は、そのことを充分研究した上で「発達障害のとらえ方と特別支援教育 -到達点と課題-到達点と課題-   季刊「ひろば・京都の教育」第160号2009年)で論じているが、「3 特別支援教育体制の下での発達障害認識の問題点」で次のようなことを論じている。

達成度を競わされる
しくみが何重にも
強められている

 以上のような状況の下で、通常学校における発達障害児への教育のとりくみは少なくない困難に直面していると見られる。
 その最大のものは、前項で述べた教育条件整備の貧困に直接起因する問題、すなわち、子どもが「困っている」ことはわかっても、そのニーズに応えるための体制がつくりきれないという困難であろう。
 こうした困難は、特別支援教育のための条件整備が不備であることに加え、たとえば専任教員の減と任期付雇用教職員の増加など、学校教育全体の教育条件が切り下げられてきていること、学力の向上と規範意識の形成といった課題が上意下達方式で学校に押しつけられ、その達成度を競わされるしくみが強められていることなどによって何重にも強められている。

子どもの事実に
即して実態や課題を
検討する機会が少ない

 そして、こうした状況は、発達障害のある子どもに対する子ども理解にも、看過することのできない問題を惹起しているように思われる。
 その第一は、発達障害やその周辺の困難をもつ子どもたちの課題が「障害」というカテゴリで提起されたこと(そのこと自体は誤りではないが)、特別支援教育や発達障害に関する研修はさかんであるものの、目の前の子どもの事実に即して実態や課題を検討する機会は必ずしも多くないことなどに由来して、そうした子どもたちへの対応は〈専門家〉でないとわからないという態度、子どもの実態の見立てや、時には関わり方の方針までも、〈専門家〉の判断に依存するという傾向がないかどうか、ということである。

生活の場面や発達の時期
によって「障害」の現れ方や
抱える困難の実相は
  変化する

 目の前の子どもの示すさまざまな困難を、子どもの側に立って理解するための一つの仮説として、発達障害という視点は確かに有効である。
 しかし、たとえ障害の診断があったとしても、教科書的に示される「障害特性」のすべてが目の前の子どもにあてはまるとは限らない。
 同一の子どもであってさえ、生活の場面や発達の時期によって、「障害」の現れ方や抱える困難の実相は変化するものである。
 そして、そうした子どもの事実をとらえられるのは、毎日の教育的な働きかけの下で、その時々の子どもの姿をとらえることのできる教師をおいていないはずである。
 しかし、今日の学校現場の多忙化の下で、ていねいに子どもの事実をとらえ、吟味するための条件は奪われがちである。

手っ取り早い
「方針」がまねく重大問題

 そこに「学力と規範意識」といった「課題」が上から与えられると、その「効率的」な実現にむけて手っ取り早い「方針」が欲しくなる。
 しかし、出来合いの「方針」というメガネで子どもを見ることは教育の自殺行為にほかならない。
 目の前の子どもの事実に即してていねいに考えるというスタンスが強まっているのか、弱められているのか、事実に即した吟味が必要であると思われる。

短期間でつくられる体制
 子どもの個別計画

 もう一つの問題点は、右に述べた〈専門家〉のあり方に関わる。
 通常の学校内で特別支援教育の〈専門家〉という立場に立たされているのは特別支援教育コーディネーターである。
 コーディネーターには、特別支援教育の推進役として、他の教員に率先して特別支援教育や発達障害に関わる研修を受け、そこで学んだことに即して校内体制をつくり、校内研修をリードし、校内委員会等での子どもの実態把握や外部の専門家との連携を図ることなどが求められてきた。
 しかしここでも、さまざまな困難を抱える大勢の子どもたちを目の前にして、短期間の間に体制を整えることが求められたこと、個々の子どもについても各種個別計画などを短期間の間に作成することが求められることなどから、限られた知識・方法の範囲で、ともかく「方針」を、という傾向が強められているように思われる。

心理検査の活用が強く推奨され
IQ等の数値が
再び教育現場において流通

 こうした問題の一つとして、ここでは子どもの実態把握のために用いられる各種心理検査の問題について述べよう。
 この間の「発達障害」に関する官製研修等では、子どもの実態把握のためのツールとして、WISC、K-ABCなどの心理検査の活用が強く推奨されてきた。
 そうした中で、かつて子どもの発達の事実を示さない非教育的な指標として批判されたIQ等の数値が再び教育現場において流通するようにもなってきている。
 
子どもの発達が
見えづらくする危険性

そこにはらまれる最大の問題は、子どもの発達の軽視ということである。
 子どもたちは、たとえばWISCの結果によって示される「個人内差」などの特性を持ちながらも、ある発達段階にいて、その段階に固有の様式をもって、外界との関係を取り結ぼうとしている存在である。
 その際の「外界との関係の取り結び方」や、その発展性を左右するものとして、「障害特性」や「個人内差」が機能するのであり、発達段階が推移すれば、「障害特性」や「個人内差」もその意味や姿を変える。
 したがって、その子どもの当面の課題を吟味する上では、発達的な視点が欠かせないのだが、今日流通している子ども把握のための方法論は、それのみを一面的に活用するならば、かえってその子どもの発達の状況を見えづらくする危険性をもはらんでいるように思われるのである。
 もちろん筆者はWISC等の心理検査のもつ意味を否定しようとするものではない。

特定の方式が唯一絶対

 それらの検査によってしか見えてこないものもあるし、検査の結果は、子どもの発達を総合的に吟味するとりくみの中に適切に位置づけられるならば、大きな有効性を発揮する。
 しかし、そうした総合的な吟味のための条件を欠いたところで、特定の方式だけが唯一絶対のものとして用いられるならば、それは本来の役割を果たすことができず、反対物に転化する。
 しかし、「効率的」な実態把握と「方針」の作成を〈専門家〉に強く求める今日の傾向は、〈専門家〉がその専門性を子どもの事実に即して発揮し、発揮する中で専門性自体をさらに発展させる条件を奪っているように思われるのである。

障害児教育から産まれた
理念をすべての学校と教育に

 「発達障害と特別支援教育」を見る際の、いくつかの歴史的な指標をあげた。
 しかし障害児教育全体についてみれば、もう一つの指標に触れる必要がある。
 すなわち、今年2009年は、1969年の養護学校義務制から数えて30周年の節目にあたる。
 養護学校義務制を一つの結節点とする障害児の教育権保障運動において、全国のとりくみを大きく励ました京都府立与謝の海養護学校は、その学校設立の理念の一つとして
「学校に子どもを合わせるのでなく、子どもにあった学校を」
と謳った。
 この視点に立つならば、特別支援教育の課題は、
「子どもにあった学校」の理念を、障害児学校・学級のみならず、通常の学校、通常の学級においても実現していくこ
とにほかならない。

もとめられる多くの知恵と力

 特別支援教育の当面する課題をこのようにとらえつつ、今日の学校と教育をめぐる状況が、どのような到達点と課題を提起しているのか、事実を持ち寄り、多くの知恵と力をあわせて考えあってゆきたいものである。

 越野氏は、教師の責任だけを追求しがちな窪島氏の主張に対して、日本の住む人々へ教育の新しい方向を創造するメッセージとも受けとめられる。

おねがい 教育と労働安全衛生と福祉の事実は、このブログの不具合から以下のブログでも展開しておいます。
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