2011年7月12日火曜日

彼が倒れる前に はっきりと姿を現さなかったではないか 労働組合も、過労死の根絶を標榜する弁護士も


山城貞治(みなさんへの通信37)
「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)
 政策「労働安全衛生対策について」はどれだけ実現したのか(その17)


高橋雅之先生の過労死を公務災害認定させたことの意義
                    伊藤誠一 ( 弁護士 ) 


最も身近だった組合に やっとたどり着いた


 「入院中外出許可がでて、北高に行って校長先生にご挨拶したとき、校長先生からは
 
 『外からの怪我でないから、公務災害には該当しないようだ』

  と言われました。
 事務の方も

 『扱ったことがないから、どうでしょうか……』

 と言い、それでも認定申請用紙を貰って帰りましたが、どう書いてよいものやらわかりません。
 
途方に暮れながらも、市民病院の相談室を訪ねました。

 『事例がないから……。難しいかもしれないけれど出してみては』

 と言われました。

 その時、自分だけでなく、多くの人のためになるなら、と思いながら申請用紙に何をどのように書いていいのかとしばらく悩みました。

 市役所の市民相談室に行ったとき

 『北高にも組合があるから、相談したら』

 と言われて初めて北高の高教組の分会長さんに相談しました。

 最も身近だった組合にやっとたどり着いたのです。

豪華メンバーに、びっくりもし、感動しました

 早速、本部でも取り上げてくれて1回目の『対策委員会』に出席しました。
 委員長さんはじめ、弁護士、医師、職対連などの豪華メンバーに、びっくりもし、感動しました。
 
力が湧いてきました。

  組合がなかったら、今回の認定はありませんでした。

 あの人のことだから、きっと今頃

『良かった、良かった、みんなで飲んでくれ』

と言っていることでしょう。

 みなさん方の力が、不可能を可能にしてくれました。

ありがとうございました。 」

(高橋靖之先生公務災害認定報告集会での高橋ヤス夫人のあいさつ高教組情報/1998/4/13より)

労働組合が身近な存在になっていない

 高教組の懸命の尽力にも拘らず、組合員に
「労働組合が身近な存在になっていない」
という事実を噛み締める必要があるのではなかろうか。
 
高橋さんの場合、高教組と結びついたからまだ話にもなる。

 むしろ、そこに思いが至らない組合員ないし家族(過労死の場合はいつも主体は家族である)が少なくない、と見るべきではなかろうか。
 それでは闘い以前の話ではないか。

 改めて述べるまでもなく、組合に「つながった」後の原則的で人間味溢れる取り組みは道高教組ゆえのものであった。
 その結実がこの度の基金支部段階の画期的な公務上認定に他ならないこと紛れもない事実ではあるが。

陽がかたむきかけた 夕暮れのポプラ並木のさきに

 昭和40年前後の夏のことである。大分県から5人の仲のよい女学生が北海道旅行に来た。

 羊ヶ丘公園の清明な空気を胸一杯に吸い込んで、日が傾きかけた頃、北大を散策することにした。
 大学構内の道案内は正門近くで案内を申し出てくれた学生アルバイト。

 あれがクラーク像、これは札幌農学校の伝統を良く引き継ぐ農学部…と懇切丁寧に語りかけてくれた。
 夕暮れのポプラ並木の先に広がる農場の佇まいも色彩も、南国のそれに比して透明感のある淡い色模様であるようで女学生たちの旅情を深くした。
 その学生は、
「せっかく北海道に来られたのですからサッポロビールの飲み方をお教えしましょう」
などと彼女たちが網走行きの夜行に乗る間際までつきあってくれたのだった。

「北と南」、離れすぎていた

 彼は女学生の一人に教師になる夢を語る。

 九州に戻ったその女学生は学生にお礼の便りを出した。
 3年後、学生が仲間と共に九州旅行に来て女学生と再会する。
 二人はいつか文通を始めだがそれにしても「北と南」、離れすぎていた。
 思いを重ねようとすることに無理があるかも知れない、と女学生は言い聞かせながら、卒業と同時に小島の教師になる。

北からの熱いプロポーズ

 やがて届いた「北からの便り」。
 そこには熱いプロポーズがこめられていた。
 女教師は決断する。
 彼女は彼との共同を求めて北国へ、夢と期待と、そしていくらかの不安を抱いて南国を旅立ったのである。
 北海道に出るについて親族が猛反対であったことは想像に難くない。
 
あの南国の旅立ちから27年。

 共に教育活動に励む内に生れた2人の男子は立派に成人した。
 将来の楽しみは2人でキャンプしながらあちこち歩くことだったという。
 これからの20年、30年で2人のより豊かな人生の刻が重ねられることに誰の異論があろう。

 だが高校教師だった彼は、1996年冬、雪のクロスカントリーコースに部活動指導中倒れ、一時的に救命されたものの、晩秋、思いを残して旅立ってしまう。

彼が倒れる前にはっきりと姿を現さなかったではないか
 労働組合も、過労死の根絶を標榜する弁護士も

 残された女性が、その死の意味するものを明らかにしたい、と必要な手がかりを求め続けるということが、人間的な所以でなくてなんであろう。

 周りの者はどうにかこの遺された女性の行動の支えになることはできた。

 しかし、実は彼が倒れる前にはっきりと姿を現さなければならなかったのではなかったか。
 
    労働組合も、過労死の根絶を標榜する弁護士も。

(高橋事案で私が作成した全ての文書について事務員の本田裕子さんの協力をいただいた)