2011年7月11日月曜日

倒れず 残された者も 病んでいる


山城貞治(みなさんへの通信36)
「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)
政策「労働安全衛生対策について」はどれだけ実現したのか(その16)
 
                               
高橋雅之先生の過労死を公務災害認定させたことの意義
                   伊藤誠一 ( 弁護士 ) 


(2)学校現場で過労死・過労性の疾病は減少しているか

1,教師における過労性疾病の本質は、労働環境である学校と教育活動の内に疲労蓄積の引き金となる契機が内在していて、それが現実化したものに他ならないということである。

 仲間が過労性の疾病を発症させたときは、職場それ自体の内に教師の健康保持という見地から改善すべき課題がある、と理解することがまず重要である。

倒れず残された者も病んでいる

 私が知り得た学校現場についてみると、それぞれ教育上の特有の困難を抱え、これを克服する取り組みの中で、誰が倒れてもおかしくない、という現状が生み出され、色々な意味で最も矛盾が集中した教師が倒れるというのが実相であった。
 かろうじて倒れず残された者も病んでいるのである。
 したがって、職場をあげてこの問題に正面から取り組むということは、過労で倒れた教師とその家族を救済するということではあるが、これに止まらず、彼が倒れた原因を職務内容や環境との結びつきの中で明らかにし、原因たる職場・環境を改善する努力をするということであり、それらについて任命権者たる道教委の果すべき責任を明確にするということでなければならない。

一名の加配ですむ問題ではない夕張南高の過労死

 ところで、道教委は不本意な死の実態の深刻さに見合う責務を果しているであろうか。
 三沢先生の例では、公務災害認定後、夕張南高が教育困難を抱えていると認められ、定員に対し一名の加配(定員数に加えて教員配置すること)がなされた。
 しかし、問題はそれで糊塗できる性質のものではなかったこと明かである。
 定期的で有効な健康診断がなされていれば防ぎ得た死亡であったからである。
 その後健康診断体制が改善された、いうことを聞かない。

不合理な認定基準のゆえ に公務外

 木嶋先生の場合、職場の誰もが仕事で倒れたと確信しながら、不合理な認定基準の故に公務外とされた。
 道教委は労働環境改善のため滝川北高に対しどのよう措置をなしたのであろうか。
 公務外にはなったが、教育困難を抱えていたこと、同僚の悲痛な叫びから明かだった。
 なるほど、高教組の取り組みで翌年度から教員一名を加配した。
 しかし、その理由は曖昧だった。

道教委は部活動に対する教師
 の関与のあり方を全般的に見なおしたか

 高橋先生のケースは、教科教育活動等でオーバーフロー気味の教師が、大学進学の強い要求の下での部活動に10代の体力盛んな生徒とともに真剣に取り組まなければならない、という高校教育における構造的な問題を含んでいた。

 この度の公務上認定を受けて、道教委は部活動に対する教師の関与のあり方を改めて全般的に見なおしたであろうか。
 その上で何らかの改善はあったであろうか。

「違法」だからする
 だが 健康のため最低基準を超えた努力をしない


2,こうした問題意識から、1991年10月、私は道高教組委員長宛に過労死をなくする取り組みについて、激励とともにもっと労働組合として奮闘してほしい、と率直に申し上げたことがあった。
(後に支部の役員のみなさんの会合においてその内容で問題提起もさせていただいた)
 学校職場に衛生委員会を割らせる大運動はこの意味における高教組の側からの実践的な回答であったといえよう。
 しかし、敢えて述べさせていただくなら、教職員の健康についての道教委の基本認識がこの10年間でどれだけ深まったといえるであろうか。
 私にはその姿勢に改善が見られるとは思われないのである。
 なるほど、道教委も法の最低は遵守しようとする。だから教職員数50人以上の学校について衛生委員会は設置した。
 これさえしなければ「違法」だからである。
 しかし、それを超えた努力をしない。
 もともと働くものの健康や安全というテーマについての法の定めは使用者が果すべき「最低」の基準であって、それ以上の改善こそ法の趣旨に合致する。それをしないのである。

ずさんな健康診断 おくれすぎてくる巡回検診車

 例えばまた、教職員の健康診断は極めて杜撰(ずさん)である。
 全道数万人いる教職員に対し僅か数台の巡回検診車が、道教委自らが定めた検診の時期から遥か遅れた時期に巡ってくる。
 その結果を各学校長を通じてする個別指導の資料にしてはいるのであろうが、道教委がこれらから知られる実情にもとづいて教職員の健康診断につき抜本的改善策をとった、という話は聞かない。

 まさか過労死の発生を待っているわけではなかろうが、発生したら(もっと正確にいえばそれが公務上に認定されたら)はじめて手を打つ、という道教委の態度を改めさせない限り、悲しみや苦悩は続くといわざるを得ない。

教育労働の質から合理的とは思われない認定基準

3,私は「公務上」と認定されることの実践的意義を改めて考える。

 教師の過労性疾病の場合、教育労働の質から推して合理的とは思われない認定基準を診てはめられている現状にあることは繰り返し述べられている。
 その結果、公務上とされるごく一部のケースでは地方公務員災害補償基金から一定の手当がなされ、公務外と判断されるほとんどの事案では一切の救済がない、というまさに天と地の差の運用がなされている。
 教師の過労のほとんどは日常の疲労の蓄積の結果である。
 三沢事案がそうであり、木嶋事案がそうであった。

 基金支部審査会は夕張地区の地域崩壊の特異さを述べて前者を救済し、そうした特異性を見出し難いとして後者を公務上としなかったが、教師の過労の現れ方をみるとむしろ木嶋先生のケースに一般性をみいだせるのであって、この事案が救われていないということは、教師の過労死・過労性疾病のほとんどは放置されている、ということを意味する。

 私が先述した高橋事案の公務上認定の意義にも拘らず、認められて当たり前、認定までどうしてこんなに時間がかかるのか、と苛立つ真の理由もここにある。

 教師のいのちと健康の保障に直接かかわる行政認定基準に不合理さがあるとすれば、これを是正する取り組みを強める必要があるのであり、適切なケースについては、地公災法の趣旨をふまえて現行基準を超えて認定させるための行政訴訟に取り組む他ない。
 そうした構えがないと事態は打開されないのではないかと考える。

非民主性を通り越して貧困な公務災害「認定手続」

 公務災害「認定手続」も非民主性を通り越して貧困である。
 これが地方公務員の権利の最後の(疾病で倒れたり死んでしまえば労働者に何の権利が残るというのか)保障手続きであるとは到底信じられない体である。
 基金支部は教育行政部局の一隅におかれ、審査委員の選任に労働組合が参加できず、審査会は非公開である。
 私が道高教組にしっかりしてほしい、と願う所以である(「職業病とたたかう力の支えとなって」伊藤誠一『季刊一労働者の権利』200号記念特集号)。

社会常識とはるかにかけ離れた労働災害・公務災害認定

(3) 高橋靖之先生と高橋ヤスさんについて

 労働による過労で倒れたのであれば、労働災害・公務災害として認められ、それにふさわしく扱われるのは当然である、と誰もが思っているし、そのことを疑わない。

 この社会常識と「現実にそのとおり認められること」=公務上認定との間の乖離は無視できないほど大きい。

 不合理な認定基準の問題もあれば、これに取り組む側の熱意なりスキルのレヴェルもある。

 だからこの隔たりを埋める取り組みは「公務災害認定の闘い」という名にふさわしいのであるが、いまそのことをめぐって高橋ヤスさんのお話から付点か記しておかなければならない気になっている。

弁護士さんは庶民にとって
    雲の上の存在だと思っていたが

 高橋さんからいつかいただいた手紙に「弁護士さんは庶民にとって雲の上の存在だと思っていました」とあった。
 主観的には、どちらかといえば働く人の側に身を寄せて仕事を続けてきたつもりでいた弁護士にとって、「雲の上の存在」はショッキングな形容であり、その「主観」に厳しい反省を迫られた。
 高教組はどうであったか。
 
校長からも事務長からも公務上認定は難しい、といわれる。
 途方に暮れながら、夫が入院する病院の相談室を訪れ

「難しいかもしれないけれど出してみては」

と勧められて悩み、旭川市の市民相談室で

「北高にも組合があるから相談したら」

といわれてはじめて高橋さんは高教組に辿り着いたという。